32-8 誰某くんの恋人 フェリクスくん+滝のごとく鮮烈
フェアウェル王国王太子フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェルは、臣民であり学友である生徒たちが見ている目の前だというのに、酷く取り乱しているのを隠しもせずにくわっと目を見開き、小遣いをねだる子供のように両手を虚空に差し出した。
「……いくらでも出す、リリアンくん」
王子の目の前では、地獄の門番の如き壮絶な表情をした十三歳の聖女セレネス・シャイアンたるリリアン・セレナ・スウィートが、全く物怖じせずにぎろりと王子を睨み返す。
「いくら出されても嫌です、殿下」
「頼む、この通りだ」
フェリクスは虚空をがっと掴むような仕草をしながら、ずりずりとリリアンの方ににじり寄った。お菓子クラブのエプロンにみつあみ姿のリリアンも両手を胸の前に合わせ、その中の物を大切そうに抱き締めながら、じりじりと後退する。
「絶対嫌です。殿下のお金って税金じゃないですか。公人が私欲で公費を使っちゃいけないってこの前習いました」
「公費ではない……僕が主宰する慈善事業で得た収益だ……いつもは事業拡大だとか孤児院への寄付だとかアンジェへのプレゼントだとかにしか使わないんだ……だから公費じゃない、公費じゃないんだよ、リリアンくん」
アンジェのクラスルーム、二年
「……でもなんか嫌です」
「じゃあ何か願いを言ってくれ、僕に出来ることなら何でも叶える!」
「じゃあ、アンジェ様とのご結婚を諦めて下さい」
「それは嫌だ……それは何かとても本末転倒だから嫌だ……」
クラスメイトたちが固唾をのんで見守る中、ルナの遠慮のない爆笑があたりに響き渡っている。
「そんな要求をするというのなら、リリアンくん、僕は君の特待生認定と飛び級入学の審議の再審を要求するぞ……」
「ぐっ……殿下、卑怯……」
「卑怯はどっちだ!」
フェリクスは戦慄かせていた手を握り締めると、大仰な動作で自分の太腿を力いっぱい叩いた。
「そんな! 可愛い! アンジェを!」
フェリクスはリリアンを──リリアンが抱き締めている、小人化したアンジェをびしりと指さす。
「独り占めしようだなんて! ずるいぞリリアンくん!」
「私は恋人だから独り占めしてもいいんですーぅ。ねーアンジェ様」
「きゃっ」
「ああっやめろっ、いややめるなっ僕の前で!」
リリアンが、自分と同じお菓子クラブのエプロンとみつあみをしたアンジェを持ち上げてこれ見よがしに頬ずりすると、フェリクスはその場に膝をついて天を仰いで見悶えた。
「お二人とも、穏便になさって……」
「済まないがアンジェは黙っていてくれ、これは僕とリリアンくんの問題だ!」
「そうですアンジェ様は黙っててください、これは私と殿下の問題です」
「リリィちゃん、フェリクス様のお言葉を真似たでしょう」
「ま、真似っこしてません!」
今日の午後、お菓子クラブの店番の後はフェリクスと共に生徒会の腕章をつけて校内を回る約束をしていた。ニコニコと迎えに来たフェリクスのたっての希望は、小人化したアンジェと共に校内を見て回ることだった。アンジェは快諾し二人して自クラスに向かったところ、そこで待ち構えていたリリアンと出くわした。リリアンは午後はクラスの出し物の店番だったはずなのだが、当番を級友に代わってもらったのだという。
「いいじゃないか、アンジェと二人して君のクラスの出展を見に行くのだから! リリアンくんはリリアンくんで別の日にアンジェとデートするのだろう!? だったら僕も小さなアンジェを二人きりで堪能したっていいはずだ!」
「で、デートだなんて、フェリクス様ったら」
「二人きりっていうのがなんかやらしー感じがしたので嫌です」
「やっ、やらしくない!」
「リリィちゃん! 王子殿下になんてことを言うの!!!!!!」
アンジェは声を荒げ、リリアンの鼻先をぱしりと叩いた。リリアンは少しむくれたように唇を尖らせ、そのままアンジェの腰のあたりにキスをする。
「こら、リリィちゃん、誤魔化さないでっ」
「やらしー殿下がいけないんですぅー」
「リリアンくん誤解だ、全く持って心外だ、僕は決してそうした不埒な気持ちで小さなアンジェを連れていきたいわけではないんだ!」
「だって、小さいアンジェ様をこうやって抱っこしたら、あっちこっち触るじゃないですか。それがやらしー感じがするんですぅー」
「きゃっ、ちょっと、駄目よっ、きゃあっ」
必死に弁明するフェリクスの目の前に小人アンジェを差し出すと、リリアンは粘土遊びでもするようにアンジェの身体を軽く揉んだ。当人には軽くのつもりでも小さなアンジェにはかなりの強さでもみくちゃにされ、慌ててリリアンの指にしがみつく。フェリクスはギョッとしてリリアンの手の中のアンジェを凝視し、慌てた様子の暫定婚約者を見て取るやみるみる顔が赤くなる。
「きっ、君だって、そうやって触っているじゃないか!」
「私は恋人だからいいんですぅー」
「それを言ったら僕は子供の頃からの婚約者だ!」
「あっ、駄目っ、きゃあ、やっ、リリィちゃん!」
「んふふ~いいでしょう~殿下~」
「ああっまたっ……!」
リリアンはニコニコしながらアンジェを再び自分の頬に摺り寄せ、フェリクスがまたしても悶絶する。クラスメイト達もさすがに目のやり場に困るようで遠巻きにちらちらと様子を伺うばかりで、ルナはもう床に転がって今にも笑い死にするんじゃないかといった有様だった。
「……リリィちゃん?」
リリアンのふわふわの頬が右半身全体をぐいぐい押してくるのを押し返しながら、アンジェは低い声を出す。
「はい、何でしょう、アンジェ様」
「このまま押し問答を続けるわけにもいかないでしょう。リリィちゃんのお気持ちは嬉しいけれど、フェリクス様にもう少し現実的なお願いをして、貴女が妥協できるところを見つけなさい。彼の方はやんごとなき王子殿下ですのよ、いくらわたくしの恋人でも限度がありますわ」
「……はぁい、ごめんなさい、殿下」
「アンジェ、いいんだ、僕はそうやってリリアンくんが君を独占しようとする姿も愛でていたい」
「フェリクス様も訳の分からないことを仰らないで。さもないとわたくし、今日のご相伴はご遠慮させていただきましてよ」
「う……分かったよ」
リリアンはむくれ、フェリクスはしょぼくれ、それから二人してじろりと互いを見遣る。フェリクスとリリアン、身長差がある二人は一方は相手を見上げ、もう一方は上から見下ろす形になる。自然と上目遣いになったリリアンは、穴が開くほどフェリクスの顔を眺めながらしげしげと首を傾げた。
「殿下に……してもらいたいこと……なんだろう……」
「何でも言ってくれ、僕の個人財産のすべてを投げうってでも叶えよう」
フェリクスは顔が希望に輝いてしまいそうなのを必死に抑え込み、至極真剣な表情をと取り繕いつつ頷いて見せる。リリアンは唸りながら更に首を傾げ、ぽつりと呟いた。
「……アンジェ様とお揃いの、よそ行きのお洋服が欲しいです」
「いいだろう。ル・ボン・ドゥ・リューズで仕立てるといい。僕も同行しよう」
フェリクスが一歩前に進んだので、リリアンは一歩後ろに下がる。
「新しいケーキの型と、パン用の道具が少し欲しいです」
「もちろんだ。クラブにでも君個人にでも、最新のものを揃えさせよう」
一歩進む王子。一歩下がるセレネス・シャイアン。
「えーと……新しいノートときらきらインクが欲しいです」
「心得た。商人に揃えさせるから、アンジェと一緒に選ぶといい」
フェリクスはきらめきが舞うのではないかと錯覚するほど凛々しい顔で頷いて見せ、一歩下がったリリアンは埋めたはずのどんぐりの場所が分からなくなったリスのような顔をする。
「他には? もっと、こう、僕だからこそ叶えてやれるような望みはないのか?」
「なんか……全部いいよって仰ってくださっているのに、腑に落ちません……」
「君は無欲だな、リリアンくん……お菓子の販売権だとか、そういうものを求めるのはどうだい」
「そういうのはなんか違います……」
リリアンはうんうん唸りながら首を傾げ、手の中の小さなアンジェをむにむにと握った。アンジェはもみくちゃにされつつ、しげしげと恋人の大きな大きな顔を見上げる。リリアンの瞳が瞼の間で緩やかなカーブを描き、そこから見えるえも言われぬ美しい紫の虹彩と透明な角膜を観察しているうちに、あっ、とリリアンが嬉しそうな声を上げた。
「いいこと思いつきました、殿下!」
「何だ、何でも言ってくれたまえ」
「はい。アンジェ様、ちょっと待っててくださいね……」
リリアンはにんまりと笑うと、アンジェをドールハウスが置かれた机の端にそっと下ろした──
……数分後。
「り、り、リリアンくん……アンジェ……」
「ははははははっはははは、あはははははははあははははっはははは」
「リリィちゃん……」
フェリクスは顔を真っ赤にして震え、ルナは床を叩きながら笑い転げ、アンジェはものすごく何かを訴えたそうな目線で、ミニチュアトンネルをくぐって小さくなったリリアンを見た。
「アンジェ様、おんなじですね!」
「ええ、同じね……」
ニコニコしている小さなリリアンと、どこかげんなりとした様子のアンジェの二人が座るのは、他でもないフェリクスの掌の上だ。トンネルから出てきた小さなリリアンは自分と、それからアンジェをその掌に乗せるようフェリクスに要求した。その願いをまさしく叶えてやったフェリクスは、瞳に涙すら浮かべ、目の前に広がる小さな世界を大切そうに覗き込む。
「ああ……何て……何ということだろう! こんな素晴らしいことがあってよいのだろうか? 想像だにしなかった……僕は本当はまだ自分のベッドで寝ていて、夢を見ているんじゃないだろうか? 僕の愛してやまない大切な君たちが、今僕の掌の上に乗っているなんて! 何て素晴らしい、何て神々しい、この身が震えるのを抑えることが出来ないよ……リリアンくん、君は天才か? どうしてこんな素晴らしいことを思いつくんだい?」
「えへへ、殿下と話してて、私は殿下がアンジェ様に触るのが嫌なんじゃなくて、私がアンジェ様の近くにいられないのが嫌なんだなって思ったんです」
「うんうんそうだな、まさしく真理を突いているぞリリアンくん!」
「ちょっとは嫌なんですけどね」
「分かっているさ、決して紳士的ではない触れ方はしない! アンジェに誓おう!」
リリアンは先ほどの威嚇する小動物のような雰囲気は消え失せ、上機嫌に鼻歌なぞ歌っている。王子の掌の上を四つん這いで進んだかと思うと、アンジェのところまでやってきてぽふりと抱き着いた。
「えへへ、アンジェ様~」
「リリィちゃん、本当に、これでよいの?」
抱きとめたリリアンの頭を撫でてやりながらその顔を覗き込むと、リリアンは蕩けそうな顔で、飴玉くらいの大きさになったアンジェの夢二つに顔を埋める。
「いいんです~」
「ああ……リリアンくんなんてことを……! いいんだ、いいんだよ、アンジェ、素晴らしい、最高じゃないか、決して止めたりしないでくれるねアンジェ」
「では、リリィちゃんもご一緒に三人で校内を回るんですのね? それでしたらカゴを借りて……」
「あ、カゴはいらないです」
「でもずっとフェリクス様のお手の上に乗せていただくわけにもいかないわ、どうなさるの?」
「えへへ……」
……リリアンの希望通りフェリクスの制服の胸ポケットに収まった二人は、ポケットのふちに手をかけてその顔を覗かせた。
「えへへ、やってみたかったんです~」
「……ポケットに入るなんて、不敬ではありませんこと……?」
「全然不敬じゃない……全然不敬じゃないぞアンジェ……! ああ、
「子リス……お前……大概にしとけ……私を笑い殺す気か……」
戸惑うアンジェにフェリクスは力いっぱい力説して天を仰いだ。ルナはあまりにも笑いすぎて酸欠のようになり、気の毒に思ったのか級友とフェリクスの護衛官がその背をさすってやっている。当人は眼鏡をはずし、息も絶え絶えになり、それでもちらりとフェリクス達の方を見ては盛大に吹き出してブルブルと震えていた。
中で楽に寛げるようにとフェリクスがハンカチを入れてくれたので、ポケットの中は布団に包まれつつ長椅子にもたれかかっているような塩梅だ。フェリクスの胸板側はほんのりと温かく、王子の今にも破裂しそうな心臓の音が腹に響く。
「やってみたかったというのは、ポケットに入ってみたかったということなの?」
「はい、それもですけど」
リリアンはニコニコしながらアンジェに抱き着いてくる。
「きゃっ!」
「これなら、アンジェ様にいっぱいくっつけますっ」
フェリクスの心臓の音がひときわ強く激しくなったのがよく分かる。アンジェは抱き着いてくるリリアンを押し退けつつ頭上を見上げると、真っ赤な顔のフェリクスが手で口許を隠しながら自分たちを見下ろしているのが見えた。
「アンジェ様ぁ、文化祭の準備で全然構って下さらなくて、寂しかったです」
「なっ、リリィちゃん、フェリクス様がご覧になってるのよ!?」
「いいじゃないですか、殿下は見たがりなんですから」
「そっ、そういう問題じゃ」
「試着の時みたいな、アンジェ様の可愛いお声が聞きたいです~」
「きゃんっ、あはは、やめて、おやめになって、くすぐったいわ! リリィちゃんやめて、きゃはは、やっ、ちょっと……あんっ! もう、悪い子はこうよ!」
「きゃっ、ぴゃっ!? ぴゃわっ、わっ、えっ何!? アンジェ様、ぞわって……ひゃっ、ぴゃ……!」
リリアンがアンジェをくすぐってきて、たまりかねたアンジェが反撃する。更にリリアンが反撃して──ポケットの中で少女二人、あられもなくじたばたとしている。フェリクスの心臓がどんどん暴走していくのが分かるが、自分もそれに構っている余裕はない。そう思いながら弟を笑わせるとっておきのくすぐりをリリアンに仕掛けていると、不意にフェリクスの身体がぐらりとよろめいた。
「済まない、アンジェ、リリアンくん……」
王子の幸せそうな顔──その中心の二つの穴から、ぼたぼたと溢れ出す鮮烈。
「殿下っ!」
「ヴォルフ……僕は勇敢だったと、父上に伝えてくれ……!」
「馬鹿なことを仰らないでください……」
フェリクスが処置と着替えをしている間、アンジェとリリアンは結局カゴに入れられて待つ羽目になったのだった。
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