32-7 誰某くんの恋人 世界一の君
お菓子クラブの客足は二日目も大好評で、アンジェは昼頃に店番を担当し、繁盛店のアルバイトのごとくひたすらにカフェテリア入口で呼び込み、あるいは席までの案内係をした。配膳係をしても良かったのだが、部員一同から「公爵令嬢が配膳係になったら、みな配膳されたがって他の配膳係がいる意味がなくなると思います」と反対されてしまったのだ。一番目に付くところに立ってほしい、と言われ、看板を持ってニコニコと笑いながら声をかけ、チラシを配る。アンジェ以外にもリリアンやルナがこの係をやっているらしい。特にもとはパン屋の娘であったリリアンの呼び込みは実に堂々としており、口上や身振り手振りも工夫が凝らされ、思わず立ち止まってしみじみ聞き入ってしまう来訪客も多いのだという。
「ローゼン・フェストにお越しの皆々様、あちこち歩かれてお疲れの頃合いではありませんか? 少し座って甘いお菓子と美味しいお茶は最高の贅沢です」
リリアンの呼び込みの様子を見たアンジェは、恋人が日頃はすぐに緊張するとろくに喋れないのに、お菓子のことになると人が違ったように堂々とした様子になる理由が分かった気がした。
「今日のおススメは干しイチジクのタルト、黄金色に透けるたっぷりのはちみつにイチジクを漬けて、少し塩気を効かせたパイ生地に乗せれば、なんて素敵なマリアージュ!」
(ああやって、シルバーヴェイルで、パン屋さんの看板娘をやっていらしたのだわ……)
(リリィちゃんが目当てのお客様も多かったことでしょう)
(アンダーソンさんもきっと……)
思考がエリオットに思い至っても、以前のように嫉妬が黒い炎を引き寄せることはなかった。少しばかり胸が軋む思いだが、それは子供の頃の失敗を思い出すのと同じ種類のものでしかない。
(今は……リリィちゃんが、わたくしを見て下さっていると、分かるから……)
(アンダーソンさんは、わたくしの鍛錬にも付き合ってくださって、良いお人柄ですこと……)
(リリィちゃんはきっと、そんなところに惹かれていたのね……)
リリアンはアンジェの視線を感じたのか、ちらりとこちらを見るとニコニコしながら手を振ってくる。アンジェも手を振り返しながら微笑み返す。
「でもこのパイにはまだ秘密のトッピングがあるのです、ぜひショーケースをご覧になって、秘密を確かめてみてください……」
(制服、可愛いデザインにしておいて正解ですわね……)
(みつあみも可愛らしくて……編み目のところにスミレを挿したくなるわ……)
水色ギンガムチェックのエプロンは、リリアンのストロベリーブロンドのみつあみをよく映えさせる。リリアンがあちらを向き、天を仰ぎ、手でショーケースを指し示す度に、背中でひょこひょことみつあみが揺れる。アンジェがその様子を見てニコニコしていると、隣にいたルナが脇腹を肘でつついてきて、アンジェは笑いながら親友をぽかりと叩き返した。
「お菓子クラブへようこそ! 大変お待たせいたしました、ただいまお席にご案内いたしますわ」
客を席に案内しながら思考は進む。昨日の今日、リリアンとルナに協力の礼は伝えられたが、詳細についてはまだ話せていない。イザベラも登校したことはフェリクスから聞いたが、直接顔を見られていない。リリアンは先ほど礼を言った時に顔を赤くしてきょろきょろしていた様子からして、ルナがある程度話したのだろう。それならば、クラウスと黒い炎についても二人に話してしまった方がよいだろうか? アンジェとしても、二人に相談できるのは心強い。そんなことを考えていると、カフェテリアの入り口で、リリアンがぴゃっと声を上げたのが聞こえた。
「ああアシュフォード先生っ! ローゼンタール先生っ!」
「…………っ」
アンジェは声の方を振り返る。小柄なリリアンは来訪客の往来に埋もれがちだが、背の高いクラウスのオリーブ色の髪はよく見えた。その隣にはリリアンの訴訟の弁護士、ローゼンタールがニヤニヤした笑みを浮かべている。更にその隣、もう一人、見たことのない男がいる。身の丈二メートルはあるかと思うひょろりとした大男で、人ごみから頬のこけた顔がにょきりと突き出している。だがアンジェの目を引いたのは、イザベラのプラチナブロンドよりも更に色素の薄い真っ白な髪、色白を通り越してピンク色に見える肌、そして夜明け直前の空のような淡い紫色の瞳だった。
(色素の薄い方だわ……)
(ああいう方を、祥子の世界では
(こちらでは、確か……)
視線を感じたのか、白髪の男の視線がアンジェを捉える。男が口の端を上げ、ゆっくりと左手をアンジェに向けてかざした。その瞬間、蠅の大群が一気に飛び立ったかのように、周囲の空気が一斉に沸き立つ。そのうねりがアンジェに向かって襲い来る──
「……っ!」
顔の前で手を交差させて魔力を込めると、ばしん、と重い魔法を弾いた感触があった。意志ある空気は霧散して、もとの文化祭の喧騒が戻ってくる。
(誰も変わった様子はないわ……)
(幻覚を見せられたの……?)
男の淡紫色の瞳が、戸惑うアンジェの様子をじっと見ている。アンジェは重ねてかざした手の隙間から、不信感も露わに男を睨む──リリアンと話していたクラウスが顔色を変え、人ごみをかき分けて大股にアンジェのほうに歩いてきた。ローゼンタールと白髪の男もその後に続く。クラウスはアンジェが手を構えたままなのを見て取るとどこか安堵したような表情になり、アンジェの前に立って男二人の方に向き直った。
いつか見た、彼が王妃やイザベラを脅威から守る時のように。
「セルヴェール。頑張っていますね」
「はい、アシュフォード先生、ご機嫌よう」
いつものように応対し、頭を下げたが、クラウスの纏う空気はどこか緊張した面持ちだ。
「これは、公爵令嬢。ローゼン・フェストご精が出ますね」
「ありがとう存じます。ローゼンタール先生はアシュフォード先生とお知り合いでしたのね。ご存知かもしれませんが、当お菓子クラブはアシュフォード先生が顧問をお勤めくださっておりますの。ぜひお立ち寄りくださいまし」
「はは、貴女よりもずっと良く知っているよ、私たちは学友なのだから」
何の差し障りもないはずのアンジェの挨拶に、ローゼンタールはどこか小馬鹿にしたような笑みと共に肩をすくめて見せた。隣の白髪の大男も、大きな体を揺らして笑いながら皮肉気な声を出す。来訪者の流れの向こうで、リリアンが持っているであろう看板が必要以上にひょこひょこと動いているのが見える。きっとこちらに来たいが看板も手放せず、一人慌てふためているところなのだろう。
「無理もない、俺たちが卒業したのは何年前だ? 知らないことを責めるのは可哀そうだろう」
(……癇に障る言い方だわ……)
(わざとですの……?)
「……ごめんあそばせ、貴方様はエイズワース様でいらっしゃいますか? ローゼンタール先生とエイズワース様は、アシュフォード先生と知己の仲でいらしたと聞いたことがありますの」
アンジェは苛立ちを飲み込んでそつなく微笑んでみせると、大男は淡紫色の瞳を輝かせ、隣のローゼンタールの背中を大きな掌でばしんと叩く。
「おお、そうだ、俺こそが天才魔術師イェルン・エイズワースだ! やはり俺ほどともなるとその名は知れ渡っているのだな! ははははは」
「な、言っただろう、公爵令嬢は聡明な貴婦人だと」
笑い声は空気を震わせて頭上から降ってくるようだ。ローゼンタールがエイズワースに同調して声を上げて笑っている。アンジェは微笑みつつも自分を守ろうとしているクラウスを見遣った。彼は唇を引き結び、さりげなくアンジェが立っている側の手をゆるやかに持ち上げている。剣術を習った成果か、それが彼の警戒と迎撃の用意を表しているのだと察し、アンジェは手のひらがじわりと汗をかくのを感じた。
「アシュフォード、生徒が優秀なのはお前の指導の賜物だな!」
「僕はクラブ顧問で、彼女の担任ではありませんよ」
「それなら猶更、伝説の男の影響力は甚大だな」
はるか来訪客の壁の向こうには、リリアンが持っている看板だけが見えている。もう先ほどのようにひょこひょこはしていない。クラウスにこちらに来るなと言われたのだろうか?
(どうしてアシュフォード先生は、そんなに緊張なさっているの……?)
(さんざん講演をして、名前をひけらかしているのはご自身でしょうに)
(自分たちを知っていることが聡明の基準なの……?)
(あの魔法は、わたくしだけを狙ったもの、よね)
(周りのみなさんはご無事のよう……)
アンジェが周囲を見回していると、配膳で忙しいはずのルナがすぐ近くまでやって来ていた。アンジェはルナが自分のすぐそばに来るまで視線が離せなくなる。ルナは心配そうな顔でアンジェの全身を一瞥し、笑いながらアンジェの手を強く握った。
「よく防御したな、アンジェ。さすが私の弟子だ」
「…………」
握られて初めて、その手がずっと震えていたことに気が付く。
「お前は経験がなくとも実戦に強いな」
「……ルナ……」
「大丈夫だ、子リスも気付いてる。あとはルナ様に任せろ」
ルナはアンジェの手を離し、肩をぽんと叩いてからアンジェを通り越してクラウス達の方へと向かった。アンジェも踵を返して戻ろうとするが、前に足を一歩踏み出すだけのことが急に恐ろしくなる。視線だけを三人に向けると、全員がこちらを見ている──クラウスが、アンジェを見てにこりと微笑んで見せた。自分の胸元、そこにつけた神官服には場違いな白いリボンにそっと触れると、かつての級友を冷徹なまなざしで見据える。
【これを、みなさんに配れば……ある程度は、怪しい人を炙り出せるはずです】
皆を守ると言っていた、リリアンのお守り。リリアンは生徒だけでなく、アカデミーの入り口で来訪者にも配りたいと言っていた。来訪者は王子とセレネス・シャイアン、そして公爵令嬢の心遣いのお守りだと聞くと喜んで手に取り、どこかしら見えるところに身につけた。それはローゼン・フェストに参加する生徒も来訪者も同じ仲間である証のようで、どこか一体感を感じさせるとともに、誰もがつけているから、昨日の午後には大して気にしなくもなっていた。
だが、目の前の二人は。
クラウスの級友だと言う二人は、どこにも白いリボンを身につけていない。
(……こんなに……あからさまに……)
【クーデターの実行犯や証拠を探しているのなら、放っておきなさい】
【僕がいる前提で計画しているのですから、僕を引き入れないことには大したことはできませんよ】
サリヴァンからは仲が良いと評されていた三人の学友たち。その意志が、目指すものが、推し抱く大志が異なることが、はからずもはっきりと表されてしまった。クラウスはそのことを明確にアンジェに示し、その上でアンジェに向かって微笑み、その背にアンジェを庇った。
クラウスは、伝言を受け取ったのだ。
(……良かった……)
アンジェは涙がにじみそうになるのを、エプロンの端を握って誤魔化した。
「アシュフォード先生、この天才少女剣士ルナ様をお呼びかな」
「……シュタインハルト」
ルナがクラウスを横目に見つつ、エイズワースの前にずいと立つ。お菓子クラブの可愛いエプロンをつけたまま、腰に手を当て伊達眼鏡をクイといじり、虎でも殺さんばかりの眼差しで口の端だけを持ち上げて薄ら笑う。
「アンタ……白昼堂々、こんな人ごみの中で私の可愛い
「何もしちゃいない。ちょっと遊んだだけだ」
エイズワースはルナと同種の軽薄な笑みを浮かべながら、大仰に肩をすくめる。
「人に当たったって害にならない。そこまで目くじらを立てることでもないだろう?」
「相手を威嚇するのも十分すぎる害だろうが」
「だが令嬢は自分で防いだではないか」
「私たちはね、貴女のように本当に優秀な人物を探しているのですよ、伯爵令嬢」
エイズワースの横から、慇懃な笑みのローゼンタールもルナに話しかける。
「優秀な人材には、存分に実力を発揮できる舞台を用意してやるべきだと思いませんか?」
「俺の魔法を咄嗟に防御するとはな。さすがアシュフォードの生徒といったところか」
エイズワースは言いながら大口を開けて笑った。ルナはあからさまに顔をしかめて肩をすくめる。大男の大きな笑い声に、通りすがる来訪客たちが何事かとこちらの様子を伺っている。
(アシュフォード先生は担任ではないと、つい先ほど仰ったばかりなのに……)
「セレネス・シャイアンだって、単に
エイズワースは胸に手を当て天を仰ぎ、演説でもしているかのように朗々と語る。リリアンを揶揄する発言にアンジェは気色ばむが、様子を察したルナがちらりとアンジェを振り返る。いけない、冷静を欠いては。アンジェが頷き返し、ルナが苦笑いしながら肩をすくめる。その様子を明らかに見ていたローゼンタールは、フンと鼻で笑うと、傍らの級友の得意げな顔を見上げた。
「自惚れはいけませんよ、エイズワース。世界一はアシュフォードでしょう」
「おっと、そうだった。俺もお前だけには敵わない」
肩をすくめたエイズワースの目線には確かに称賛が含まれていたが、クラウスは小さくため息をついただけで、何も応じはしなかった。ローゼンタールはその様子をじっと見ながら、エイズワースの背を叩く。
「まあ、アシュフォードが一番、お前が二番ということで」
「そうだな、それが順当だ」
「冬至祭でアシュフォードが戦いさえすれば、あんなマラだかなんだか卑猥な名前の魔物など大した脅威でもなかったんです」
「卑猥? 何のことです」
聞き返したクラウスに、ローゼンタールは面倒くさそうな苦笑いを浮かべた。
「そうだ、これは通じないんだった……何でもない、忘れて下さい。とにかくそうやって自分の才能をもっと世に示すべきです」
アンジェは青い瞳を大いに見開き、叫びそうになったのをかろうじて堪える。
「何度も言っているでしょう。僕は神官として神々にお仕えする道を選んだのだと。自己顕示など、僕には最も遠いことです」
ルナも同じで、振り向いて変質者でも見たかのような顔でアンジェを見る。
「何を言う、素晴らしい才能は世に出してこそだぞ……」
級友三人がそれぞれ異なる温度で会話なのか言い合いなのか分からないことを話し始めた。クラウスは二人を疎んじている態度をとりつつ、この場から立ち去るか追い払うかするのは躊躇われるらしい。アンジェとルナはもはやそれどころではなく、互いに互いの顔を穴が開くほど凝視する。
マラキオンのマラ、という言葉は、フェアウェル王国どころか近隣諸国の言葉の中にも存在しない。
その意味を知っている──それが卑猥な言葉なのだと理解しているのだとしたら、それはそのまま、現代日本を知っていることの示唆に他ならない。
「る……マ……ルナ、マ……て、て、てん!」
「落ち着け、落ち着くんだアンジェ、こんな時は素数を数えろ、いいか素数は割り切れない数だ」
声を潜めつつ慌てふためくアンジェに、ルナも至極真面目な声音で混乱している。
「あ……貴女だって落ち着いてないじゃない、そうよ落ち着ていられないわこんなの……どうしましょう、どうしたらいい?」
「とりあえずこの場では何もしないでやり過ごすしかないだろう」
「そう、そうよね……」
二人は先ほどとは比べ物にならないほど心臓をどきどきさせながらローゼンタールを見た。先日と同じフロックコートを着た姿がサラリーマンのように見えると思ったのは、気のせいや錯覚ではなかったのだ。マラの言葉の意味を知る者。現代日本からやってきた転生者。アンジェ達はみな知り合いだったが、ローゼンタールもそうなのだろうか? ここが乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の世界だと理解したのはいつ頃なのだろうか……。
「人生は短く、時間は有限です。関わるだけの価値がないものは切り捨てるべきなんですよ」
「……は?」
ローゼンタールの台詞を聞いたルナが、息を呑み、ゆっくりと目を見開く。
「ルナ……?」
クラウスが苦々しい顔で首を振っている。ルナはアンジェの呼びかけには答えず、ローゼンタールを、その仕草をじっと観察する。アンジェは眉根を寄せ、ルナのエプロンをやや強めに引っ張った。
「ルナ?」
「ああ……済まん」
「どうなさったの?」
「……あの男、ユウトの知り合いの口癖に似てるんだ。転生者だとしたらもしもがあり得るだろ」
「まあ、それはどなた?」
疑念に歪むルナの横顔は、いつものおどけた雰囲気が消え、完全に思案を巡らせる男の表情になる。
「……俺の事務所の、顧問弁護士だ。モデルやらタレントやらのストーカー被害の訴訟をしまくってた奴だよ」
「まあ……それなら、声を掛けたら和解できるかもしれないのではなくて?」
「……いや。それは無理だ。俺が嫌だ」
ルナはゆっくりと首を振ると、ぎり、と拳が白くなるほど強く握り締めた。
「あいつは……メロディアを、ストーカー呼ばわりしたんだ」
昏い怒りを煮詰めたような声は、白いリボンをつけていない男二人の高らかな笑い声にすり潰されていくようだった。
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