32-6 誰某くんの恋人 伝言

 王宮までの馬車の中でイザベラが語った思い出は甘く切なく、風雨に晒された古い本を眺めているようだった。乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」でも、別攻略対象クラウスルートでは教師と生徒の恋愛の是非についてやり取りをするくだりがある。いつの時代も教師と生徒の交際は禁忌タブーなのね、と力なく笑うイザベラに、アンジェは喉元まで出かかった言葉を飲み込み、王宮の馬車寄せに立ち、護衛官に付き添われて帰城するイザベラの後ろ姿を見送った。


 帰宅する馬車の中でも、夕食を食べていても、寝る支度をしていても、イザベラの涙が、クラウスの苦悩する顔が頭から離れなかった。彼は何故、アンジェの記憶を消そうとしたのか。何故、アンジェと話そうと思ったのか。何故、あの身を焦がすような黒い炎が、彼を飲み込もうとしていたのか……。


(アシュフォード先生も、古き魔物マラキオンに見出されていたということ……?)

(わたくしなら知っている、と先生は仰った……)


 かつてマラキオンは冬至祭の時にアンジェに憑依する形で顕現した。あの時あの場にもクラウスはいて、アンジェが黒い炎に包まれるのを見ていたはずだ。王国の守護神ヘレニアと相対した時の、狂おしいばかりに歓喜し、そ 神をその手に堕とさんとした恐ろしい魔物。その魔物の黒い炎が、クラウスにも憑りついている……。


【無駄だ、ルネ、人間はこの眠りに抗えぬ……】


 フェリクスの誕生祝賀会でアンジェをかどわかしに現れた時、マラキオンはそう言った。


【心地の良い夢からわざわざ抜け出す者はおらぬ】


 セレネス・シャイアンであるリリアンですらその術にかかり、おそらく母親が生きている夢を見ていたのだ。フェリクスも、ルナもイザベラも昏倒する中、ただ一人クラウスだけが意識を保ち、逃げろ、とアンジェに訴えた。


【お前のように、余のしるしを受ければ別だがな】

【セルヴェール……逃げなさい……】


 天敵に追い詰められた小動物が、敵わないと知りながら子供を逃すために盾になろうとする。しかし圧倒的すぎる力の差のために盾にすらなれず、絶望と祈りを込め、奇跡を願って必死に請う──そんな、声音だった。


(それだけ、あの魔物の恐ろしさを、ご存知だったのだわ……)


 それは、すなわち。


(いつから……? 先生……)


 冬至祭や誕生祝賀会のように、人目のある場所ばかりで顕現した訳ではなかった。王宮の客間で。フェリクスとの手合わせの最中。アンジェが追い詰められた時、心が揺らいでいる時、どこからか黒い炎が湧いて、ひたりと濡れた布のように貼り付いてくる。どちらも辛くも追い払うことはできたが、誕生祝賀会の激戦での魔物は桁違いの恐ろしさだった。都度都度追い払うことは出来ても、倒すことは難しい。何度も執拗にあの問答を繰り返されて、どこまで耐えられるものなのだろう?


(それに……)


 エリオットを妬んで、妬む自分に嫌悪して。それでもリリアンに何も言えないことがアンジェを蝕み、身も心も裂けてあの炎に飲み込まれてしまいそうだった。誰かに愛しい人を奪われた、あの時の感情に名前をつけるなら、それこそ嫉妬だとか妬みだとか、心が重く暗くなるようなものになるだろう。


【黒く熱く、身を焦がすような炎──美味であるぞルネ、我が愛し子よ】


(……イザベラ様のこと……?)

(それとも……)


 まだ冷たいベッドの中で思い出す魔物の声は、震えて体を縮こまらせるほどおぞましい。触れられた感触も、ねぶるような視線も、口腔を蹂躙した甘く爛れた液体も。あの魔物はアンジェを嬲る対象として求めている。フェリクスともリリアンとも同じはずの、だがそれが愛とは違う何かだと身体に刻み込むような、獣じみた欲望の行為の捌け口として。アンジェを手に入れるためなら、リリアンを魔法氷室に閉じ込め、凛子の名を用いて、アンジェ自身を攻撃の盾にして。


 それほど恐ろしい魔物を引き寄せるほどの昏い劣情を。

 クラウスは、誰に抱いているのか。


「……忘却魔法を防御できて、良かったわ……」


 今日はもう疲れた。明日どうするのかは明日、彼に会うまでに決めればいい。リリアンはきっと興味津々で事情を聞いてくるだろう。ルナのいるところで説明しなければならないだろうか? あるいはルナ自身がもうリリアンに話しただろうか? イザベラ明日は登校するだろうか……。


 いつの間にか訪れた睡魔に導かれ、アンジェは深い眠りへと落ちていった。




*  *  *  *  *

 



 ローゼン・フェスト期間中はさすがに剣術部の朝練も休みだ。翌日アンジェが登校すると、朝から上機嫌なフェリクスがアンジェが馬車から降りるのを待ち構えていて、アンジェの鞄がないことを知ると、おや、と首を傾げた。


「……昨日、疲れていて、アカデミーに忘れてしまいましたの」

「そうだったのか」


 問う前に答を言われたフェリクスは実に悲しげに顔をしかめる。


「では僕も一緒に探そう。置いたところは分かっているのかい?」

「はい、おそらく……」

「何だか顔色もすぐれないね。……アンジェ、僕の可愛いアンジェリーク、夕べはよく眠れたのかい、朝食は食べられたかい? 今日の約束は無理をしないでいいんだよ、どこかで休むなら僕が一緒にいよう、アンジェ、どうか無理をしないでくれ。健康で溌剌とした君が一番だよ」

「ありがとう存じます、フェリクス様。忘れ物をしただけなのに大袈裟ですわ」

「君を心配するのに大袈裟などあるものか」


 アンジェの左側に立ってエスコートするフェリクスの顔を、何度見上げただろう。誰よりもアンジェを大切にしているフェリクスのことを、クラウスはアンジェが守り慈しんだ輝ける真心と評した。


(以前から、お心を寄せるのを苦になさらない方でいらしたけれど……)


 王子の想いは一点の曇りもなくアンジェに注がれ──同じようにリリアンも慈しみ、従妹を慮る。ルナや彼女の兄たちやエリオットやガイウス、アンジェは見る機会がないがクラスの同友、顔を出しているいろいろな部活の部員たち、慈善事業の事務員たち、彼を取り巻く多くの者たちに目をかけてやっている。そしてそれは彼の異母兄に対しても同じで──フェリクスは腹違いの兄のことを、母鳥を初めて見た雛のように無邪気に尊敬していた。


「それで、どこに忘れたんだい、お菓子クラブかい?」

「……はい、あの……」

「おや、あれは、兄上かな?」


 アンジェが答えるよりも先に、フェリクスは本校舎入口から出てきた人物をみて顔を輝かせた。オリーブ色の長髪をいつものように束ねたクラウスがアンジェの鞄を持ってこちらに歩いてきたところで、フェリクスが手を振るのを見て微笑みながら手を振り返す。王子は今にも駆け出しそうな子犬のごとくだったが、アンジェの手は離さず歩く速度も乱さず、悠々と異母兄のもとに辿り着いた。


「兄上、おはようございます!」

「おはようございます、アシュフォード先生」

「おはようございます、殿下、セルヴェール」


 眼鏡の奥の緑色の瞳が、弧の形の細められながらもじっとアンジェを見つめる。


「セルヴェール。昨日、鞄を忘れていましたよ」

「そうなんです、兄上、アンジェは昨日疲れていたようで、僕も一緒に探そうとしていたんです。アンジェ、兄上が持っていてくださったとは何と嬉しいことだろう!」

「ええ、そうですわね、ありがとう存じます……」


 微笑むアンジェは、背中に一筋汗が伝っていくのを感じる。

 穏やかなはずのクラウスの微笑みが、今はとても恐ろしく見える。


「セルヴェール、これは職員室に届けられたのですが、どちらに忘れたんですか?」


(魔法が正しくかかったか、確かめているのだわ……) 

(はじめからそのつもりで、普段わたくしが立ち入りそうにもない礼拝堂を指定なさったのね……)

(お菓子クラブと答えれば、魔法を防御できたことは隠すことが出来る……)

(……大丈夫よ、アンジェリーク。朝しっかり考えたじゃない)


「アシュフォード先生、昨日は遅くに進路相談をありがとうございました。その時にお話しさせていただいた礼拝堂かと思いますわ」


 一瞬だけクラウスが瞳を見開くのを、アンジェは見逃さなかった。


「先生でなければ、掃除の方が見つけて下さったのでしょうか?」 


 どんな時でも、優雅に微笑んでいられるように。

 まだ何も知らなかった自分が、リリアンのことを知らなかった悪役令嬢が、フェリクスを失いたくなくて必死に練習して習得した特技だ。研鑽の時間の積み重ねは、剣術でもそうでなくても自分の行動を後押ししてくれる。


「……そうでしたか。それは気付かず、申し訳ありません」

「とんでもないですわ。わざわざお持ちいただいて恐縮です」


 アンジェが頭を下げると、クラウスは苦笑いしながら鞄を差し出した。受け取ろうとしたアンジェの手を遮って、至極当然とばかりにフェリクスが鞄を受け取る。


「アンジェ、兄上と進路相談をしていたのかい? ずいぶんと急だね」

「ええ、お菓子クラブの盛況を見ていたら、リリアンさんにして差し上げたいことをたくさん思いつきまして……フェリクス様もぜひ聞いてくださる?」

「もちろん! きっと素晴らしい案なのだろうね。今日にでも聞かせておくれ、愛しいアンジェ」

「承知いたしましたわ」


 作戦通り、フェリクスは何一つ疑いもせずにニコニコと微笑み、アンジェの肩に手を置いて抱き寄せた。クラウスは無邪気な異母弟を眺めて微笑む体を保ちつつ、ちらりとアンジェを見る。


「……っ」


 視線が合う直前、アンジェはばっと右手を上げて顔の前にかざした。音のない衝撃が手首より少し下に当たり、上半身が後ろにのけぞる。エスコートされたままの左手でフェリクスの腕を掴む。


「アンジェ?」


 フェリクスが驚いてアンジェを見る。


(防御……できたわ……)

(こんな間近、しかもフェリクス様の横で仕掛けてくるなんて……)

(無動作で発動するにしても、手を動かしたり、なにかしらのきっかけを作るものなのに……)

(瞬き……いえ、眼球の動きだけで発動させたというの……?)


 それだけ彼は、あの秘密を知られたくなかったのだ。


「ああ、驚いた……」


 アンジェは反対の手でもフェリクスにしがみつき、嫌悪感も露わに顔をしかめて見せた。


「ごめんなさい、フェリクス様、アシュフォード先生……虫がいたかと思ったのですけれど、見間違いかもしれませんわ」

「虫……いたかな? 僕には見えなかったよ」


 フェリクスは目を見張り、それからクスクスと笑い声をあげた。


「アンジェはあんなにも勇敢な剣士となったのに、虫は怖いままなんだね」

「こ、怖いわけではありませんわ、つい驚いてしまうだけです」

「空を飛ぶ蠅も切れそうなものだけどな。まだまだ僕が君を守る機会が多そうで嬉しいよ、アンジェ」

「もう、フェリクス様、意地悪を仰らないでくださいまし」


 動揺して可愛く振舞えば、フェリクスはこれ以上疑念を持つことはないだろう。それを見ているクラウスにも、アンジェの意図は伝わっただろう。忘却魔法は通用しないこと。知ってしまった秘密を、フェリクスや誰かに漏らすつもりもないこと。アンジェは彼の味方なのだということ。


 見えない、聞こえない伝言を、彼が受け取ってくれるといい。


「大丈夫だよ、アンジェ。君に触れようとする全ての虫は、僕が取り払うからね」


 それに──本当に隠したいのは、アンジェの記憶が残っていることではない。

 あの場にイザベラが隠れていて、話の全てを聞いていたことなのだから。


(先生がわたくしの真意を探ろうとしている間は……その可能性を考えるのが、減るはずよ)

(その間に……)

(レーヴ・ダンジュのショーまでに……)

(お二人で、お話しいただくことが出来たら……)


「もう、フェリクス様ったら!」

「いたっ! こらアンジェ、僕まで虫扱いするな!」


 決意と共に振り上げた手につい力が入ってしまい、アンジェはフェリクスに平謝りする羽目になった。

 じゃれ合う二人をクラウスはじっと見つめていたが、それ以上何か語ることはなかった。




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