32-5 誰某くんの恋人 追憶の夜の夢

「……こんなところがあるなんて……」


 追憶に霞む初夏の景色の中で、プラチナブロンドの少女は頬を染めて小さな庭を見渡した。


「とても素敵ね、クラウス先生」

「でしょう。僕しか来ないと思います」


 オリーブ色の長い髪を束ねた青年は、微笑みながら彼らが通り抜けた扉を閉める。それはフェアウェルローズ・アカデミーの礼拝所から裏庭へと続く扉だった。


「礼拝所に来る生徒もほとんどいませんからね。神官は僕一人だし、ここに庭があることを知っている人の方が少ないでしょう」

「わたくしも、今日初めて来ましたわ」

「でしょうね」


 十メートル四方ほどの小さな空間は、一方は礼拝所、正面は森、左右は植込みに囲まれて、外からの視線をほとんど感じさせなかった。鮮やかな夏の花々が自由に咲いているように見えるが、下草は丁寧に取り除かれている。入口の扉から左手に少し離れたあたり、東屋というには小さすぎる屋根つきのベンチとサイドテーブルがあり、ベンチにはクッション、テーブルにはお茶のセットとクッキーが並んだ皿が置かれていた。


「先生はいつもここで、何をなさるの?」


 少女は弾むように歩きながら、庭の中ほどに進む。くるりと振り返ると、陽光を受けたプラチナブロンドが絹糸のように輝く。光を見つめた青年の緑の瞳が、眩しそうに細められる。


「大体は読書か、庭を眺めるかですね」

「あそこに座るの?」

「ええ」

「お一人で?」

「ええ」


 穏やかに頷く青年の眼鏡をじっと見つめていた少女は、後ろ手を組みながら上目遣いになり、淡い色の唇の端を柔らかに引き上げた。


「ここには、わたくしの他に、どなたかいらしたことがある?」


 小柄な少女の煌めく眼差しを見ながら、青年はゆっくりと首を振って見せる。


「僕が着任してからは誰も来ていませんよ。礼拝堂の鍵を開けないと入れませんから」

「フェリクスくんも?」

「殿下もです」

「そう」


 少女は至極満足そうに目を細め、青年から視線をそらした。礼拝堂からベンチまで敷かれた飛び石をとん、とんと飛びながら辿り、そのまま軽やかにベンチに腰掛ける。大して乱れてもいない制服の裾を整え、優雅に膝の上で手を重ねる様子を見て、クラウスはクスクスと笑った。


「今日ははしゃいでいますね、イザベラ」

「だって、クラウス先生しか見ていないでしょう? 従兄のお兄様だもの、わたくしだって典雅な王女でいなくても良いはずよ。ただの従妹のイザベラだわ」

「そうですね」

「さあ、用意してくださったお茶をいただきたいわ。先生が注いでくださるんでしょう?」

「はいはい、王女殿下」


 青年が武骨な手を傾け、琥珀色の液体をカップに注ぐのを、少女はじっと見つめる。二つのカップが満たされると、青年は二つとも手に取り、座りながら一つを少女へと手渡した。指先がカップに触れると、少女は目を見開く。


「まあ、冷たいわ」

「もう暑いでしょう、魔法で冷やしておきました」

「素敵。いただきます」


 それから、何の話をしただろう。小さな庭の木々の梢が、草花の花弁が風にそよぐのを眺め、木漏れ日が落とす影が少しずつ場所を変えるのを気がついては忘れ。冷たかったカップとお茶がぬるくなって、おかわりをして。この前読んだ本はとても面白かったわ。スカラバディのお姉様が、美味しいお菓子を教えて下さったの。今までにない斬新な、コルセットに代わるものを作っているの、出来上がったら見て下さる? 話すのは少女ばかりで、青年は小鳥のさえずりのように絶え間なく続くおしゃべりを、目を細めながら聞いている。上気した肌に当たる風が心地良かった。彼が低い声で笑うと胸が早駆けした。咲いている薔薇は赤と白と、あと何色があっただろう。眩しい初夏の午後はやがて美しい夕暮れとなり、青年はベンチの上の屋根につるされていた魔法ランプに明かりを灯した。


「暗くなってきた。そろそろ戻りましょう」

「……嫌よ。もう少しだけ」

「もう三度目ですよ。駄目です」

「もう……つまらないわ」


 明かりがつくと、薄明るいと思っていた空気が一気に暗くなったように見えた。森の梢の輪郭が宵闇に溶けかけていて、そのまま秘密を隠してくれるように思えた。とうの昔に空になっていたカップを、少女は音をたてないようにサイドテーブルの上に置く。


「クラウス先生……」


 魔法ランプのささやかな明かりが、潤む瞳と朱に染まる頬を隠すことなく照らしている。


「好きです。お慕いしております、クラウス・アシュフォード様」


 肩が触れ合うほど近くに座った青年は、少女の真摯なまなざしからついと視線を逸らす。


「……駄目だと言っているでしょう、イザベラ殿下」

「どうしてですの?」

「殿下は王女で、僕は神官です」

「王女も神官も結婚するじゃない」

「貴女は生徒で、僕は教師です」

「そんなご夫婦、卒業生にはたくさんいるでしょう」

「僕たちは従兄妹で……僕は庶子です」

「出自なんて、恋をするのに何の意味もなくてよ」


 進展しない問答に苛立ち、少女は青年の服の裾を掴む。


「御託を並べるのは嫌よ。わたくしは貴方をお慕いしています……肩書でも出自でもない、貴方自身のお気持ちが知りたいの。このイザベラは、貴方を思って毎夜胸を焦がしているわたくしは、貴方に愛していただくに足る存在なの?」

「…………」


 青年は眉根を寄せ、唇を歪め、深刻そうな表情で少女をじっと見る。緑の瞳に映り込んだ自分、その鏡像と向かい合うように少女を見つめ、深々とため息をついた。


「貴女は……高潔で、美しい。僕には眩しくて触れることが出来ません」

「知らなくてよ、そんなの」


 青年の独白にも似た呟きは、どこかほろ苦い響きを帯びている。少女の砂糖菓子のような指先が、そろそろと青年に向かって差し出された。蝶が花に止まるようにおずおずと肩に触れ、首を這い、髪を梳いて、掌が青年の背中へするりと落とされる。少女がベンチの上に膝で立つと、青年を見下ろし、その頭を胸に押し抱くような格好になる。


「……駄目ですよ、イザベラ。自分を大切にしなさい」

「自分の心に正直になるのは、自分を大切にしているとは言えませんの?」


 青年の手がそろそろと持ち上げられ、少女を自分から遠ざけようとその肩を掴んだ。だが少女は青年の首に回した腕に力を込め、何か言おうとした唇を塞ぐ。青年は身体を強張らせ、それから加減のない力で少女を思い切り引き離した。


「……お戯れが過ぎます、王女殿下」

「戯れを許すほど軽薄ではなくてよ」


 ベンチの上、青年の隣に座らせられる格好になったイザベラは、自分の肩を抱くようにしながら苦い微笑みを浮かべる。


「そうでもしないと、まともに取り合って下さらないじゃない」

「駄目です。……卒業までは、どのみち僕は何もしませんよ」

「……えっ」


 独り言のような呟きはしっかりと少女の耳まで届き、少女はぱっと青年の顔を凝視した。


「教師と生徒なんですよ、当たり前でしょう。ですから僕などに構わず、もっと自分を大切にしなさい」

「……卒業まで待っていたら、恋人になってくださるの?」

「それはその時にならないことには分かりません。ご自分のお気持ちだってそうでしょう」

「…………」


 少女はもう一度身を乗り出し、まじまじと青年の表情を覗き込む。平静そのものに見える彼の頬もまた、魔法ランプのせいとは言えないほど赤く染まっている。間近に迫る少女から逃れるように青年がついと森の方にを逸らすと、少女はクスクスと笑い声をあげた。


「ベルと呼んで下さったら、聞き分けが良くなってもよろしくてよ。……それから」


 逃げる間もなく、少女の細い腕が青年を絡めとる。


「キスだけは許して下さるなら、卒業まで待てるかもしれないわ」

「……いいでしょう。けれど忘れないでください、僕には貴方を愛する資格などないのだと」

「そんな資格、この世に存在していなくてよ」


 唇が重なる直前、少女は青年の瞳の中に何か炎が宿ったのを見たような気がした。




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