32-4 誰某くんの恋人 クラウス先生
ローゼン・フェスト初日の売上は、お菓子クラブ、アンジェの
売上金を魔法キャッシャーで間違いなく数えてアカデミーの金庫に預け入れ、明日のお菓子の準備、明後日のお菓子のための材料の仕入れて。今日の繁盛を受けて、メニュー構成に微調整を加え。やるべきことをすべて終えると文化祭終了時刻どころか下校時刻ぎりぎりで、空はすっかり暗くなり、吐く息は白く曇った。部員たちも皆慌ただしく帰路につき馬車に乗り込んでいく中、アンジェは一人、正門とは反対方向の礼拝堂に急ぎ向かう。進めば進むほど人けがなくなり、小走りしている自分の息遣いと足音がいやに大きく聞こえた。
クラウスはずっとお菓子クラブブースにはいなかった。図書委員会の顧問や教科発表なども請け負っているので、当然それらを見回りに行くし、他にも何か用事があったのかもしれない。夕方の文化祭終了時刻間際にお菓子クラブブースの東屋に戻ってくると、空になったショーケースを一人磨いていたアンジェに声をかけた。
【今日、この後なら、時間があります】
【クラブの用事が終わったら、礼拝堂に来てください】
「…………っ」
剣術部で剣の修行をするようになってからかなり体力が向上したとは思うが、それでも長い距離を走り続けると息が上がり喉が痛み肺が締め付けられる。唾を飲み込んでも乾いた喉に貼りつくようで余計に痛い。急ぐ気持ちがフェアウェルローズ・アカデミー敷地内の奥にひっそりと佇む礼拝堂をより遠くにあるように思わせる。
(話して下さらないと思っていたわ……)
(けれど、きっと、下校時刻は守れと仰る)
(明日にはもう、気が変わってしまわれるかもしれない……)
下校時刻までは、あともう十五分もない。冷え切った校内をアンジェは必死に走り、ようやっと礼拝堂に辿り着くと、ステンドグラスが明るく輝いているのが見えた。中で誰かが明かりを灯しているのだ。アンジェは疼く胸元を押さえ、何度か大きく深呼吸をし、制服の乱れを整える。遠慮がちに礼拝堂の扉をノックしてみるが、中で何かが動く気配はない。唇を引き結んで引戸を引くと、中から温かな空気と光が差してきた。
「……セルヴェール」
扉から祭壇まで一直線に伸びる道が、講堂に並ぶ椅子を左右に分けている。祭壇には
「遅くなりました、アシュフォード先生」
「いえ、僕の方こそ、こんな遅い時間にすみません」
クラウスとアンジェは手を伸ばせば触れられそうなほど近くまでやってくると、互いに足を止めた。クラウスはアンジェが凛とした眼差しを向けてくるのをまじまじと見つめると、ため息をつきながら首を振る。
「……盗み聞きはよくありませんね。出てきなさい」
「盗み聞き?」
「セルヴェールもとぼけない。いるでしょう、そこに」
クラウスは苦笑しながら、アンジェのジャケットのポケットと、胸ポケットをそれぞれ指さした。
「……さすが、先生ですわね」
アンジェも苦笑いしながらそれぞれのポケットに手を入れる。引き出された手には、慌てた様子の小人のリリアンとにやついた様子のルナがそれぞれ乗せられていた。クラウスがぱん、とその場で手を叩くと、リリアンとルナにかけられた小人化の魔法が解ける。二人はほんの数センチだが地面に落下し、リリアンは尻もちをついたような格好になり、ルナも両手両ひざをついて着地した。
「ぴゃっ!」
「おっと」
「スウィート。シュタインハルト。僕とセルヴェールは個人面談ですから、学友の同席はできません。友人が心配でも規則は守りなさい」
「ごっごごごごめんなさいいいいい」
「……失礼しました」
リリアンは涙目で頭を下げ、ルナは立ち上がりながらまじまじとクラウスの顔を見る。上背のあるルナでも少し見上げるほど、神官兼教師の背は高い。睨むような、見透かすような目線でルナはじろじろとクラウスを見たが、やがてため息をつき、アンジェの肩をぽんぽんと叩いた。
「……また明日な」
「ええ、ありがとう、ルナ」
「アンジェ様、お休みなさいっ」
「お休みなさい、リリィちゃん」
リリアンとルナは連れ立って入口の扉の方へ歩いていく。扉の前でリリアンはもう一度ぺこりと頭を下げ、ルナが押し開けた扉から二人して出て行った。扉がゆっくりと閉まると、講堂内が急に静まり返ったように思える。クラウスはため息をつくと、右手で空中を払うような仕草をした。その手から魔力が迸り、礼拝堂に魔法がかかるのが見て取れる。
「先生、今の魔法は……?」
「人払いと、防音の魔法です」
「……そうですか」
「扉の鍵はかかっていませんから、そこは安心してください。時間もないし、適当に座りましょう」
「……はい」
アンジェは頷きつつ、震える胸を両手で押さえつけた。高度な魔法ほど無動作無詠唱での発動が難しくなるが、今のクラウスは二つの魔法をたった一つの動作で発現させた。人払いに防音、それを礼拝堂全体にかけたとなると、誰しもが簡単に扱える魔法ではない。そのことはクラウスの魔法の威力と精度が極めて高いことを示している。感心したアンジェが礼拝堂を覆う魔法の気配を見回しつつ一番近くの椅子に腰掛けると、クラウスはその二つ前の列の椅子に座った。アンジェは胸に手を当てたまま、緊張を隠さずにじっとクラウスを見つめる。
「先生は、……魔法がお得意でいらっしゃいますこと」
「これでも神官ですからね」
緑の瞳は戸惑いもせず、たじろぎもせず、いつものように穏やかにアンジェを見返すばかりだ。
「さあ、時間がない、話というのは?」
礼拝堂内は温かいはずなのに、アンジェの手は震えている。
「……アシュフォード先生は、わたくしのとりとめもない話を、いつも聞いてくださいました。この世界はゲームの通りに進んでいて……わたくしとアシュフォード先生が王国に弓引くことになるのだと言っても、それを笑いもせず、否定もせず、ただ話を聞いてくださいましたわ」
「……セルヴェール。貴女はセレネス・シャイアンではありませんでしたが、そのゲームの中の出来事……予知夢というのでしょうか、その予言の才能は本物だと僕は思っていますよ」
「ありがとう存じます。……けれど、ゲームにはないことがいくつも起こって……もう、あの夢を予言と呼ぶことは難しいかと思いますわ」
「そうでしょうか?」
「そうですわ。だって──」
アンジェは両手を握り締めて身を乗り出す。どんな時も平静でいられるように練習したはずなのに、戸惑いを、躊躇いを、隠すことができない。
「今、わたくしの目の前にいらっしゃるアシュフォード先生が……クーデターに与しているかどうかすら、分からないのですから」
クラウスの眼鏡が魔法ランプの光を受けて柔らかな色に反射している。そこに更にアンジェが映り込み、クラウスの緑の瞳が良く見えない。
「……貴女はずっと、そのことを心配していましたね、セルヴェール」
母譲りのオリーブ色の頭髪を軽く掻きながら、いつものように穏やかな口調でクラウスは呟く。彼の神官服の襟元にも、リリアンが祈りを込めた白いリボンが留められていたが、その可愛らしさが服装とちぐはぐになってしまっていた。
「僕はその点で、貴女に感謝していますよ。僕を首謀者に仕立て上げるクーデター計画があるかもしれないと知れただけで、怪しい誘いを警戒することが出来ましたから」
「では……?」
「僕がクーデターに与することは断じてありません。フェリクス王子殿下の信頼を裏切るような真似はしませんよ」
「…………」
クラウスが頬笑み少し首を傾げてみせると、眼鏡の反射がずれて細められた眼差しが見えるようになった。アンジェは痛いほど軋む胸元を押さえる。この穏やかな笑顔を信頼しても良いものだろうか? 微笑みと言葉だけで、信頼に足ると判断できるのだろうか?
「では……」
時間はあとどれだけ残っているだろう?
アンジェが持っているだけの手札で、彼の仮面を剥がすことができるだろうか?
「何故……わたくしが階段から落ちた事件で、嘘をつかれましたの?」
「嘘?」
クラウスは首を傾げる。
「フェリクス様から先日、犯人はまだ見つかっていないと伺いましたの。けれど先生は、既に犯人は捕まっていて記憶が消されていた、とわたくしに仰いましたわ」
アンジェは何一つ見逃すまいと、目に力を籠めるようにしてじっとクラウスを見据える。クラウスは首を傾げたまま顔をしかめ、そのまま細く長く息を吐いた。
「……そうですか。彼らは見つけられなかったのですね」
口調は変わらず穏やかなままだ。
「確かに僕は嘘をつきました。僕は調査団には入っていません。一人で犯人を見つけ、事故当時の記憶が消されていたことを確かめました」
「それならば、そのまま犯人を治安警察に引き渡せばよろしかったではないですか」
「……そうですね」
クラウスは顎に手を当てながら、苦笑いをしてみせる。
「あまり、目立つのが好きではなくて。彼らが捕まえられないとは思わなかったものですから……」
「……言い訳に聞こえますわ、アシュフォード先生」
アンジェは胸の内が熱くなるのを感じながら、睨むようにクラウスを見つめた。
「先生……わたくしも、魔物に見染められてしまった悪役令嬢ですわ……同じ物語の悪役のよしみで教えて下さいまし。やはり先生はクーデターに加担されていて……何かの証拠を消すか、お仲間を庇うかされたのではありませんの?」
「…………」
クラウスの顔から笑顔が消える。
アンジェの祈るような気持ちが、胸を震わせ、公爵令嬢の美麗な顔を歪ませる。
「そのクーデターの準備のために、……恋人であったイザベラ様と、あの日お別れの話をしたのでしょう?」
「恋人?」
アンジェの本心を探ろうとしかめられていた美麗な顔が、疑惑に緩む。眉根を寄せ、少し目を見開く動作が異母弟にそっくりで、アンジェはクラウスの顔をまじまじと眺めてしまう。脳裏では安藤祥子の歴代のしょうもない彼氏たちの顔が浮かんでは消えていき、震える胸の熱さが、だんだんと男という生き物の狡さと、イザベラの乱れた髪と涙を思い出させた。
(イザベラ様……)
「……自分たちは恋人同士だと明確に仰っていないですとか、お相手が一方的にご自分に付きまとっているですとか、この関係性に名前はいらないですとか、ろくでもない殿方とも呼べない性根の腐った輩が言いそうな言い訳はなさらないでくださいましね。お別れのために話し合いの場が必要なら、それはどのような関係であれ恋人と言えると思いますわ」
「せ、セルヴェール……? 殿下が何か酷いことを仰いましたか?」
「フェリクス様は素晴らしい方ですわ、夢で見た前世にはろくでもない殿方もおりましたのよ。さあ、どうなんですのアシュフォード先生、恋人なんですわね?」
「は、はい」
アンジェの剣呑な目線と地を這うような声に、クラウスはやや腰が引けつつも頷いてしまう。
「……しかし僕と王女殿下は従兄妹ですので」
「現行の婚姻法でも従兄妹であれば結婚できますわね?」
「……そうですね」
「先生はイザベラ様のお気持ちをご存知だったのでしょう?」
「……はい」
ずいずいと身を乗り出すアンジェに、じりじりと気圧されながらクラウスは肯定する。
「イザベラ様のことを……誰も知らない可愛らしいお名前で呼びかけるほど、親密にしていらしたのでしょう?」
「……はい」
「あの日のことを気にかけて……」
胸元が熱い。ぶるぶると震えているような気がする。勇気を出すのよアンジェリーク、年上の男性で教師なのがなんだというの、祥子から見たらまだ青臭い子供だわ。彼を問い質すことが出来るのは、今この瞬間、フェアウェル王国中でわたくししかいないのよ。
「わたくしに尋ねずにいられないほど、今でも大切に思われているのでしょう?」
「……それは……」
クラウスは息を呑む。アンジェの青い瞳から視線を逸らすことが出来なくなる。彼の考えていることが分からないのは、眼鏡をかけていて瞳の奥を覗きにくいからだろうか? 彼女を見つめる時も、あの眼鏡はかけたままなのだろうか……。
「……大切という言葉は良い言葉ですね、セルヴェール」
目を逸らさないまま、鼻から息を吸い、それを大きく吐き出す。二人しかいない礼拝堂に、その音はいやに響いて聞こえる。
「そうですね。僕は王女殿下を尊重していると言って良いでしょう」
クラウスの方から力が抜け、神官兼教師はついと視線をそらした。
「王女殿下のお気持ちを打ち明けられた時は驚きました。それ以前も、従兄妹でもありますから、王子殿下と同じように親しげに話しかけて下さることもしばしありました。王女殿下は僕を格別に気にかけて下さり、二人で長らく語らうような日もあったと記憶しています。その関係を、殿下が恋人であったと称したいと望まれるのであれば、僕はそれを受け入れます」
「そんな……子供だましが、わたくしにも通用すると思いまして!?」
アンジェは唇が戦慄くのを押さえられず、胸元で両手を握り締め、その場に立ち上がった。
「イザベラ様の……王女殿下の我が儘に付き合っていただけとでも仰るの!? イザベラ様はそんな茶番もお分かりにならないような方ではなくてよ! だからこそあんなに取り乱されて……わたくし誰にも、フェリクス様にも話したりなどしませんわ、先生の……クラウス・アシュフォード先生の本心をお聞かせくださいまし!」
「……セルヴェール」
話しながら歩いてきて、令嬢らしからず肩をいからせて自分を見下ろしているアンジェを見て、クラウスはひどく痛々しい笑い方をした。
「王女殿下は、素晴らしい方でしょう。美しくたおやかで聡明で……プラチナブロンドの清楚な佇まいと高潔な精神は、まさしく王女の中の王女と言うにふさわしい」
「ええそうですわね!」
アンジェは怒気も露わに叫ぶが、クラウスは視線を落とす。
「だから僕は……僕のような者が、殿下の恋人など……許されるはずがないのです」
「でしたらクーデターなど加担なさらなければよろしいでしょう!」
「……僕は本当にクーデターになど加担していませんよ。天地神明、
フェリクスと同じはずの緑の瞳が、昏い光を孕んでアンジェをじろりと睨み据える。
「……セルヴェール。貴女がクーデターの実行犯や証拠を探しているのなら、放っておきなさい」
「……どうしてですの?」
たじろいだアンジェに、クラウスは拳を握り締め、強い語気で続けた。
「僕を旗印にしようとしているような連中がやりそうなことなど想像がつきます。結局のところ僕がいる前提で計画しているのですから、僕を引き入れないことには大したことはできませんよ。ですが王女殿下の想いが彼らに知れれば、彼らは必ずそれを利用しようとするでしょう。……そんなことが、あってはならない」
血管が浮かび上がるほど強く握りしめられた拳が、それでも溢れ漏れる力にぶるぶると震えている。
「それが……お別れの、理由ですの?」
「……理由の一つではありますね」
「それを……イザベラ様にお話しになりましたの? あの方なら、それでも先生と手を取り合って乗り越えたいと仰る筈ですわ」
「違う!」
クラウスが自分の太腿に拳を叩きつける。ど、と鈍い音がして、アンジェはびくりと身体をすくめる。
「すみません……けれど違うんです。クーデターなど些末なことです……王女殿下に何か非があるわけでもありません。これは僕の問題なんです……」
「……ご出自のことを仰っておりますの?」
「違う……」
クラウスはもう一度拳を振り下ろしたが、今度は先ほどの勢いはなく、た、と弱々しく彼の太腿を揺らした。
「セルヴェール……貴女なら分かるでしょう、身を焦がし飲み込むような黒い炎の渦が……」
「え?」
丸まったクラウスの背中の輪郭が、ゆらりと揺れたような気がする。
「僕はずっと、目を背け続けているんです……僕のような欲にまみれた罪深い男が、国王の器たり得るわけがない。彼らにはそれが分からない……フェリクスは素晴らしい君主となるだろう。セルヴェール、貴女が守り慈しんだ殿下の輝ける真心が、フェアウェル王国を守り導く光の道しるべとなった」
クラウスの声はどんどん低くくぐもり、独り言のようにぶつぶつと呟き続ける。背中を揺らめく輪郭は黒い煙のようになり、ゆらめき渦を巻きながらクラウスの身体にまとわりついて覆っていく。アンジェにはこの黒い得体の知れないものに見覚えがあった──正確には目で見たわけではないのだが、その存在を感じる時、こういうものなのだろうなと脳裏に描いていた想像そのものだった。
(これは……)
(
エリオットへの嫉妬に燃えていた時、体そのものが燃えてしまうのではないかと思った、黒い炎の渦。アンジェはあれは自身の感情の起伏を脳内で具象化したものだと捉えていたが、まさか、肉眼で視えるなんて。クラウスを取り巻く黒い炎はどんどん大きくなり、彼の姿はほとんど見えなくなる。
「僕には……ベルは無垢すぎる。僕はとても触れることなどできない……僕が触れたら、ベルは穢れてしまう……己の欲一つ、消すことも制することもできない僕には、慕われるだけの価値がない……それでも僕は、あの人から目を逸らすことが出来ない!」
「……先生!」
ばしん!
アンジェが魔法を込めた両掌でクラウスの背中を叩く。黒い炎は油に水を入れたように一気に霧散して見えなくなる。クラウスが憔悴しきった顔で呆然とアンジェを見上げる。何か言おうと、唇が開きかける──その瞬間、下校時刻を表す鐘の音が聞こえた。
「……下校時刻です」
どこかほっとした様子で、クラウスはのろのろと手を挙げる。
「帰りなさい、セルヴェール。すべて忘れるように」
「せんせっ……!」
アンジェは手を引き寄せ、自分の頭と胸元を咄嗟に守る。クラウスの掌から放たれた魔法がアンジェを包み、ばちばちと静電気に似た感触に包まれる。衝撃と微かな痛みにアンジェは一瞬目を閉じてしまい──次に目を開くと、そこは礼拝堂ではなく、フェアウェルローズ・アカデミーの正門だった。
(……瞬間移動魔法……)
(それから……忘却魔法……?)
正しく詠唱し印を結び道具を用いても、発動させることすら難しいと言われる古代の魔法だ。それを無動作無詠唱で発動させるなど、試みようとするだけでも眩暈がしてくる。肌が一気に粟立つのは、寒さだけでなく身体に残る魔法のせいだろう。
(アシュフォード先生は、やはり天才の部類でいらっしゃるわ……)
(忘却魔法だけでも、防御できて良かった……)
アンジェはまだ胸がどきどきしているのを確かめ、深々とため息をついた。鞄を礼拝堂に置いてきてしまったが、どうせ大したものは入っていないし、今日は帰れば寝るだけだ。鞄は諦めてのろのろと馬車待合室に向かい、御者に馬車を用意してもらい、踏み台を出してもらうのももどかしくその中に乗り込む。よく温めてくれていた室内は入るだけで心がふわりと緩むようだ。アンジェはクッションに埋もれるように座ると、馬車はゆっくりと走り出した。アンジェは制服のジャケットのボタンを外し、ネクタイを取り、ブラウスのボタンを外す。胸元がもうびしょびしょに濡れてしまっている、さぞかし苦しかったことだろう──
「イザベラ様、もう大丈夫ですわ」
「ええ……」
アンジェの胸元に隠れていた小人イザベラが、ぐすりと洟を啜りながらアンジェのデコルテまで這い出てきた。アンジェはイザベラをそっと掬い上げ、クッションの上にそっと横たえ、上からうさぎハンカチを布団のようにかけてやった。
アンジェの制服に隠れている小人がイザベラ一人であれば、クラウスはそれを看過してしまっただろう。アンジェはそれを見越し、リリアンとルナにも小人化しての同行を頼んだ。二人とも何かを察したようで二つ返事で引き受け、極めて自然にクラウスに見つかってくれたのだ。
(おかげで、イザベラ様をあの場にお連れすることが出来た……)
(明日、よくよくお礼をお伝えしましょう)
セルヴェール家の馬車がアカデミーの正門をくぐると、ぴー、ぴーと警告音がした後、ぽん、と王女の中の王女、典雅の化身イザベラその人が元の大きさとなる。アンジェのハンカチが復帰の勢いでふわりと飛ばされ、反対側の椅子の上にぽさりと落ちた。
「……何か、飲み物でも召し上がりますかしら」
「ありがとう……後ほどいただくわ」
イザベラは力なく首を振り、クッションを抱えてその場に座り直した。ずっと声を殺して泣いていたのが、胸の間の感触から伝わってきていた。嗚咽を堪えるためにアンジェの肌にしがみついて、垂れた洟を啜ることも出来ず、ハンカチはびしょびしょになって。アンジェの狭間でずっと震えていた王女は、髪も制服もぐしゃぐしゃになってしまっていたが、それでもにこりと微笑んで見せた。
「ありがとう、アンジェちゃん……ありがとう……」
笑顔のまま、涙がぽろりぽろりととめどなく零れていく。
アンジェが差し出した新しいハンカチで新しい涙を拭い、イザベラはアンジェに縋り付いて泣いた。
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