31-4 文化祭《ローゼン・フェスト》 約束
「さっきは驚かせて済まなかった、アンジェ。落ち着いたかい」
「ええ、おかげさまで」
アンジェは微笑みながらお茶のカップを持ち上げて見せた。震えのおさまった手がお茶のカップをしっかりと空中に固定している。フェリクスが、そして隣のリリアンが、それを見て安堵した表情になった。フェリクスはノブツナ、ルナ、ブレイズの顔をそれぞれちらりと見てから、再びアンジェとリリアンに向き直り、面差しを正す。
「アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク。僕はこれから、君に剣を貸そうと思う」
「えっ、フェリクス様、それはまさか……ブレイズ様をですの?」
「あはは、さすがにアンジェでもそれは駄目だな」
驚いたアンジェに、フェリクスは眩しそうに目を細める。
「ディヴァ・ブレイズはセレネス・パラディオンのものだ。君に貸すのは僕が昔使っていた護身用の剣だよ。使い勝手も良いと思う」
「護身用の……剣……」
「アンジェ様が……」
「せやお嬢、大事な剣やで」
アンジェとリリアンが顔を見合わせたのを見て、ノブツナの頭にもたれかかるようにしていたブレイズが身を乗り出す。
「あのけったくそ悪いマラキオンが最初にお嬢にちょっかいかけたのが、お嬢の誕生会やろ? それから冬至祭、ノブんとこ来た時、ヘリオスの誕生会……十中八九、文化祭かて何やしてくると思うのが筋やんか」
「……確かにそうですわね。忙しくて……全く思いつきもしませんでしたわ」
呆然と呟いたアンジェに、フェリクスが真剣な顔で頷いた。
「僕はもう二度と、君に何かあって、祝賀会の時のような思いをするのは嫌だ……アンジェ、リリアンくん、僕がずっと君たちと一緒にいられたらそれが一番いいのだけれど……それでも限度があるし、僕の婚約者とはいえ、個人への過剰な対応は文化祭運営にも支障をきたす。それにどんなに厳重な警護でも、用足しなどの一瞬の隙は完全にはなくせない。何より……君自身、強くなった。先の対処は素晴らしかったよ、アンジェ」
微笑むフェリクスの顔が少しだけ寂しそうに見えるのは、アンジェの気のせいだろうか?
「リリアンくんを守るために、僕を打ち負かすために積み重ねてきた努力が、一つの実を結んだんだね」
「フェリクス様……」
アンジェはどんな表情をしていいのか分からず、ただ呆然とフェリクスの名を呟いた。称賛されたことを喜べばいいのか、彼の微細な感情を察したことが伝わるような表情をすればいいのか。あるいはすぐ隣にいるリリアンと目線を交わして、貴女のための努力なのだと伝えればいいのか。傍らでメイドがミルフィーユを運んできたが、そちらを気にかける余裕はない。
「ルネティオットが手配している君の剣は、明日には間に合わないらしいからね」
フェリクスはアンジェの迷いに気付いていないのか、あるは気付かないふりをしているのか、私服のジャケットの内ポケットから細身の短剣を取り出し、自分とアンジェの間に置いた。
「僕のお古だけれど、それでも
「はい……」
促されるまま、アンジェは皮革の鞘に収められた短剣の柄を掴み、自分の許へ引き寄せた。柄も入れて、三十センチほどあるかないかだろうか。フェリクスをちらりと見てから、鞘から刀身を引き抜いてみた。よく磨かれた銀色の両刃にアンジェの顔が映る。
(重い……)
(魔法を使わないと、これで何かの攻撃を受けたはずみに落としてしまいそう……)
日頃の練習では木刀や木剣ばかり持っているので、金属製の剣は見た目よりもずしりと重く感じる。ルナは常々フェリクスには出来るだけ手の内を見せるなと言ってくる。今ここでも、ライトニングダッシュを使ってこの短剣の重さを確かめるのはやめておいたほうがいいだろうか?
(けれど、先ほどの不意打ちで、使ってしまったわ)
(もう、いいでしょう、それくらい)
アンジェはちらりとルナを見てから、ライトニングダッシュを発動させた。魔法が腕の中を迸り、力が巡って刀身が浮かび上がるような感覚になる。これならしっかりと振るえそうだ。アンジェは柄を握りしめ、ほんの数センチほど剣先を振ってみると、その動きに合わせて刀身がキラキラと光った。
「えっ!?」
「はぁー、さすがやな、やっぱり光った!」
驚いたアンジェの声に、ブレイズの歓声が重なった。
「お嬢、その剣はな、ミスリル銀で出来てるんや。何もせんかったら単なるなまくらやけど、魔法との相性がむっちゃええんよ、今のお嬢みたいな身体強化の魔法に反応して光るし、火やら水やら、剣に宿らせて魔法剣にも出来るんやで!」
「まあ……!」
「やはりなあ。この短期間で使い物になるほど伸びるとなると、魔法だろうとは思っていたんだ」
ノブツナも自分の頭に抱きつくブレイズをぽんぽんと叩きながら、興味深そうに目を細める。
「セルヴェールさん、貴女は素晴らしい才能がある。まさかこんな形で、魔法剣士のタマゴを掘り出すことができるとは、いやはや、長生きはするもんだな」
「まあ……ありがとう存じます、おじいさま。魔法剣士というのは、それほど珍しいものなんですの?」
「珍しいとも。のう、シズカ」
ノブツナはあごひげを触りながら、隣の孫娘をちらりと見た。お茶を飲んでいたルナは一同の視線を受け、苦笑いしながら肩をすくめてみせる。
「私はどうしても腕力で男に劣る分、魔法でそこを補いたかったんだがね。剣と一緒じゃ、きっちり詠唱した上で一つ発動させるのが限界だな。実戦で使ってる重力魔法と、アンダーソン式のライトニングダッシュの併用はとてもじゃないが無理だ」
「まあ……天下のルナ様が珍しくしおらしいこと」
アンジェがわざとらしく驚いて見せると、ルナはおいこらアンジェ、と語気を荒げた。
「お前今、そんなに難しいものかしらと思ったな? これだから天才は嫌いなんだ」
「まあ、酷い言い草、ご自分も天才でいらっしゃるくせに」
「うるせえ、次の練習で天才様がぼっこぼこにしてやるよ」
「ルネティオット、アンジェに汚い口をきくな」
アンジェが何か言うよりも先にフェリクスが苦い声で諫めたが、アンジェは笑いながら首を振った。親友は口調こそ荒いが、信頼に満ちた瞳は笑っている。ルナも形ばかり口をつぐみ、ちらりとフェリクスとアンジェを見比べてからクックッと楽しそうに笑った。フェリクスは呆れたような顔でルナをじろりと睨んだが、小さくため息をついて気を取り直し、アンジェに向かって微笑みかける。
「……アンジェ。君はリリアンくんを守るために、僕を打ち倒し、セレネス・パラディオンになってみせると言っていたね」
「……はい」
「それはそれで結構だ。そのために君が積み重ねてきた技術が実を結んだ。僕はいつか無視することのできない脅威として、君と対峙する時が来るのだろう」
静かな語り口調のフェリクスの緑色の瞳は、それでも優しくアンジェを見つめている。
「けれど、それは、僕たちの間柄の内側でのことだ。僕とアンジェ、どちらがリリアンくんを守るのか、君は僕に守られるのか、……魔法剣士として僕の手を借りずに立つのか。どれも、外から見れば大した差ではない。僕たちは三人、手を取り合って……アンジェや王国を脅かす魔物に打ち勝ち、
「……はい」
「ぴゃいっ」
話を振られると思っていなかったらしいリリアンは、メイドがミルフィーユを運んできて丁寧に切り分けるのをじっと観察していたが、慌てふためいて椅子の上で飛び上がる。
「あっ、あああ、あの、そうです、ぴゃいっ」
「リリアンくん、君の魔法も見事だったよ」
リリアンが顔を赤くしているのを見て、フェリクスは小さく笑い声をあげた。
「僕がアンジェを攻めてからルネティオットが君に迫るまで、ほんの一瞬もなかった筈だ。その間に魔法で自分の身を守り、外部の侵入も阻止するなんて、我がセレネス・シャイアン殿は優れた反射神経と直感を持っておられるな」
「えへへ、あの……ありがとうございます。冬休みにリオと練習してたんです」
リリアンは嬉しそうに笑いながらぺこりと頭を下げる。確かにあの瞬間、アンジェはルナの攻撃を防ぐことが出来なかった。持っていたものは鉛筆だが、ルナが本気を出せばリリアンを傷つけることも容易だっただろう。間に合わないと思った瞬間の絶望、リリアンが鉛筆を弾いた時の安堵。彼女を守ると発言した自分の言葉の重みが、まだ至らぬ自分に重くのしかかってくるようだ。
「あの……フェリクス様」
「何だい、アンジェ」
「先の皆さまは……、その、実力の、どれくらいの力で、わたくしたちを脅かしましたの?」
「……そうだなあ」
フェリクスは少しばかり目を見開いてから、悪戯めいた、例の少し悪そうな顔でニヤリと笑う。
「僕はまあ、半分くらい、かな? ルネティオットはどうだい」
王子の様子を見ていたルナも、ニヤニヤ笑いながら肩をすくめてみせる。
「殿下はあの程度で半分か。私は三分の一も出してないぞ」
「じゃあ僕は五分の一だ」
「失敬、三十分の一の間違いだった」
「ほっほっ、儂は扇子を投げただけだから、実力のうちにも入らんな」
「こら、しょーもないことで争うな、あほらし!」
ノブツナが話題に入ったところで、ブレイズがノブツナの頭をべしんと叩く。ノブツナは叩かれたところをさすりながらやれやれと苦笑いをし、アンジェの方に向き直った。
「まあ、セルヴェールさん。一端の剣士と呼べるようになるのと、最強と呼ばれる儂らの間には、まだまだ長く厳しい道のりがあるのだよ」
「ええ、……そうですわね」
(それは……そうよね)
(一端の剣士と言われて……少し、浮かれていたわ)
(……まだ、遠い……)
(それに、フェリクス様に勝つだけではない……マ、ラキオンも、クーデターもある……)
アンジェは落胆してしまったのを誤魔化しながら頷いてみせた。その顔をまじまじと見ていたフェリクスは、面差しを正し、リリアンの方をちらりと見てからアンジェの手をそっと握る。
「大丈夫だよ、アンジェ。僕はいつでもセレネス・パラディオンとして君の挑戦を受けて立つよ。でもそれは今じゃないんだ」
二人が重ねた手をリリアンがじっと見つめる。フェリクスの顔を見て、アンジェの顔を見て──その表情が険しく曇っているのを見て、唇を噛む。しばらく虚空を見上げて何か考え込んだが、制服のポケットにそっと触れると、何か決意した様子で人知れず頷いた。
「僕たちは……無事文化祭を終えるために共に戦う仲間なんだよ。皆で手を取り合って……アンジェ、僕は、君を守るよ。君の大切なリリアンくんも守る」
フェリクスはいつもどんな時もアンジェのことをよく見ている。その心が揺れ動くのを、上下するのをよくよく捉えて、自分の為すべきことを決めていく。アンジェを守るために何をすべきか、恐るべきともいえる洞察力で、数ある選択肢から正解を選び取っていく。ああ、お優しいフェリクス様。わたくしはまだ、貴方には遠く及ばない。たくさんの懸念がわたくし達に振りかかろうとしている、未熟なわたくしの手で、どれだけのものを掬い上げて守れるだろうか? アシュフォード先生、イザベラ様、リリィちゃん。そんな時に味方だと明言し、震えそうな手に触れてもらえるのは、なんと心強いことだろう。この手に甘えてばかりではいけない、けれど、こんなにも、味方でいてくれる貴方の手は優しい……。
「フェリクス様……わたくしも、今はお二人のお力になれるよう、尽力いたします」
「そうだ、一人で抱え込むことはないよ、アンジェ」
フェリクスは微笑みながらアンジェの手を離した。アンジェは名残惜し気にその手が王子のもとに引き戻されていくのを目で追ってしまう。その手がテーブルの上で自然な形で組み合わされたのを見届けてから、アンジェはうつむき、それからちらりとリリアンの方を見た。きっとリリィちゃんは一部始終を見ていたわ。情けないわたくしを見て、幻滅してしまうかもしれない……。
「アンジェ様、大丈夫です」
リリアンはアンジェを見上げてにこりと微笑む。
「私、アンジェ様が困ってること、全部、分かってるわけじゃないだろうけど……殿下と力を合わせて、私も一緒に頑張ります。アンジェ様と一緒にいられるのが一番いいです」
「そうだ、その通りだ、リリアンくん!」
フェリクスは感動に瞳を潤ませ、ノブツナとブレイズはニヤニヤし、ルナは顔を手で覆ってぶるぶると震えている。リリアンは一同の様子をぐるりと見まわすと、よし、と何やら気合を入れた。
「……殿下。みなさんを守るために、一つ、お願いしてもいいですか」
「何だい、リリアンくん。何でも言ってくれたまえ」
「ありがとうございます。考えてたんですけど、明日……」
紫の瞳が、いつになく真剣なまなざしで一同を見据えた。
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