28-3 文化祭に向けて リリィ
珍しくその後しばらく鮮烈は止まらずにアンジェの手を煩わせた。ようやく出血が止まっても、貧血なのかここしばらくの疲れなのか立っても足がふらついてしまい、ルナが医務室で休んだ方がいいと言った。医務室にはリリアンが付き添うことになり、ルナとエリオットはこのまま競技コートに残り、ルナにエリオット式ライトニングダッシュの伝授をするとのことだった。
「いきなり成功させちゃったんで、身体にしわ寄せがきてるのかもしれないっスね。リコにもよく診てもらってください」
「いいぞ少年、ナイスアシストだ」
「ってぇ! 国内最強ってんなら、か弱き俺に加減してくださいよ!」
妙にニコニコしているエリオット少年の背中をルナがばしんと叩きエリオットがギャーギャー喚き、しかし最終的に二人してニコニコと笑いながらアンジェとリリアンを見送った。リリアンはアンジェの腰のあたりを支えて──客観的には支えるのではなくしがみついていると表現したほうがより適切だったが、とにかくアンジェを支えて医務室へと向かった。養護教諭に断りを入れ、いつかと同じ中庭が見える窓際のベッドにアンジェが横になると、リリアンはニコニコしながらアンジェに掛け布団をかけ、椅子を持ってきて仕切りのカーテンを閉め、その横にちょこんと腰掛けた。
「えへへ、なんか懐かしいですね」
「そうね……」
アンジェは自分も柔らかに微笑んで見せる。
「わたくし達、ここで初めてお会いして、言葉を交わしましたものね」
「私、コルセットが苦しくて気持ち悪くて、思い出しても恥ずかしいです」
「そうでしたわね。今は逆になってしまいましたわ」
「ほんとだ、ふふふ」
リリアンは楽しそうに肩を揺らしていたが、やがて目線を窓の外に向けた。春から秋は色とりどりの草花が植えられているが、冬のこの時期は何も植えられておらず閑散としている。
「あの時のアンジェ様、今でも覚えてます」
リリアンは過日の花の種類を思い出そうとするかのように、真剣な口調で続けた。
「とってもお優しくて、殿下からも庇ってくださって……なんて素敵な人がいるんだろうって、ずっとドキドキしてました」
「…………」
リリアンの声は雪にはしゃぐ子犬のように弾んでいる。
「そうしたら、スカラバディになって、こんなに仲良くなれちゃいました」
「……そうね」
アンジェの相槌は穏やかだが、心臓はリリアンと同じように跳ね続けている。
「その、鼻血が出てしまった時は、ちょっと心配していたんです」
「ご心配頂いて、可愛いうさぎの刺繍のハンカチをいただきましたものね」
「えへへ、そうそう、頑張りました。……体質的に私の近くに来ると具合が悪くなってしまう人がいるっていうのはもうお話ししましたっけ」
「以前に少し聞いたことがあるような気がしますわ」
「そうでしたか……その、鼻血が出ちゃう人は、魔物を引き寄せやすいんです。何かが身体の中で悪さをしてて、それがいろいろ影響するんだと思ってるんですけど」
「まあ、そうでしたの? 道理でわたくし、鼻血ばかり出るはずですわ」
「そうですよねえ、ご無事で何よりです」
リリアンは紫の瞳を細め、ベッドに寝た状態で見上げているアンジェをじっと見た。アンジェは先ほどリリアンを抱き上げた時の記憶の断片を思い出す。魔法をまとった腕で持ち上げた少女は、畳んだストール一枚のように軽かった。アンジェの首に手を回し、柔らかな誇りにぴったりと寄り添い、照れ笑いしながら自分を見上げていたその顔は、赤く染まっていて──思い出すだけでアンジェの頬にも朱が差し込まれるようだ。
「……リリアンさん」
「わっ、アンジェ様、横になっててください、具合がよくないんですから」
「大丈夫ですわ、ありがとう」
アンジェはベッドの上に身を起こした。腰から下は掛け布団の中のままだが、目線が同じ高さになっただけで随分と話しやすくなったような気がする。アンジェは深呼吸すると、両手を布団の上で握りしめ、真正面からじっとリリアンを見据えた。
「リリアンさん」
「は、はい」
アンジェの雰囲気を感じ取って、リリアンが少しばかりたじろぐ。アンジェはクスクスと笑いながら柔らかな微笑みを浮かべて見せた。
「二人で、お話ししましょうか」
「え……」
「リリアンさんのお部屋にお邪魔したり……ピクニックをしたりするのも楽しいのでしょうけれど……忙しさを理由に引き延ばすのも良くないかと思いましたの」
「…………」
たじろいだまま、リリアンはみるみる赤くなっていく。彼女の心のうちそのままに、可愛らしい顔に浮かぶ表情がころころと変わる。そして最後には怒っているような、あるいは不安を隠そうとしているような、眉尻が下がった表情となった。
「私……ずっと、アンジェ様のお気持ちが分からなくて……」
「そう……曖昧な物言いをしてしまっていましたわね、ごめんなさい」
「あっ、あの、そうじゃなくて」
リリアンは首を振りながら身を乗り出し、布団の上のアンジェの手を強く握った。
「アンジェ様は、今でも殿下のことがお好きで……でも、私のために、私が一番って無理して言ってくださってるんだと思っていたんです。お忙しそうで、全然ゆっくりお話しできないのも……私が核心をついてしまうのが嫌なのかな、とか」
「リリアンさん……」
「殿下は殿下で、アンジェ様大好きなままだし、気が付いたらいつもいるし……結局、私と婚約することになっちゃったし」
「そうだわ、それよ、リリアンさん!」
アンジェもリリアンの手を胸元に引き寄せる。
「フェリクス様とのご婚約はリリアンさんの望むところではないと、わたくしは今でも思っておりますわ。それにお変わりはなくて? だから……わたくしが、お助けして差し上げたくて……でも、結局、わたくしが助けられてばかりで、何一つお役に立てておりませんわね」
「役に立たないなんて、そんなことないです!」
リリアンはゆっくりと首を振ると、手を取り合ったまま椅子から立ち上がり、ベッドの端、アンジェのすぐ隣に座り直した。
「アンジェ様はいつも、私のことを気にかけてくださってるの、伝わってきます」
「……ありがとう、リリアンさん」
窓の外のどこか遠くで、誰かが誰かに呼びかけている声が聞こえる。
「アンジェ様。私、とってもわがままでやきもち焼きです」
リリアンが視線を自分の膝あたりに落とし、アンジェとつないだ手をきゅっと握りしめる。
「あんまり頭もよくないし……文字もうまく書けないし。ぺったんこだし……だから、アンジェ様が気持ちを伝えて下さっても、ほんとに殿下より好きでいて下さるのかなって、どこか信じられなかったんだと思います」
「リリアンさん……」
「でも……大丈夫になりました。私、大丈夫です、アンジェ様。アンジェ様は、本当に私を一番大切にしてくださってるって、分かりました」
つないでいる手が震えているのは、アンジェだろうか、リリアンだろうか。
「私……殿下とは結婚したくないです。フェアウェルローズを卒業したら、
「……まあ、お菓子屋さん?」
「はい!」
リリアンは瞳を輝かせてアンジェの顔を見上げた。
「ケーキとか、クッキーとか、パウンドケーキとか! 可愛いお菓子をいっぱい並べて……その、そうしたら、……アンジェ様も、買いに来てくださいますか」
「……とても素敵な夢ね」
アンジェは微笑みながら、片方の手をほどいて、リリアンの頬をそっと撫でる。
「とても素敵で……可愛らしくて。リリアンさんらしい、素敵な夢だわ」
リリアンが自分に触れるアンジェの手にそっと触れる。医務室の簡素なベッドが、少しばかり軋んだ音を立てる。
「だから……お店に遊びに行くのではなくて……大切な恋人のお店を、わたくしにも手伝わせていただける?」
リリアンは息を呑み──アンジェの手に触れている両手が、それぞれ痛いほどきつく握り締められた。アンジェも深呼吸するが、胸が震えてうまく息を吸うことができない。自分を見上げるリリアンの潤んだ瞳には、泣きそうな顔のアンジェが映っている。アンジェの青い瞳にも、呆然としたリリアンが映っているだろうか?
「……駄目かしら?」
「駄目じゃ……ないですけど」
リリアンは震える声で呟いた。
「そ、そ、それなら……私のこと、り、り……」
真っ赤になって、泣きそうな顔の、聖女セレネス・シャイアン。
「リリィって、呼んで下さい」
アンジェは幼さの残るその顔をまじまじと見て、ふふ、と笑い声を上げた。
「もちろんよ、わたくしの可愛いリリィ」
「…………!!!!!」
リリアンはむにゃむにゃと何か言おうとしたが言葉にならず、アンジェにぼふりと抱きついた。アンジェもおそるおそるリリアンの華奢な体に腕を回す。触れたところが熱くてやけどをしてしまいそう。そのままガラス細工が融けるように一つになってしまいそうだ。今まで何度も触れてきたけれど、こんなに緊張しているのは初めてかもしれない。また鼻血がでたらどうしよう。誰か来たらどうしよう……。
「アンジェ様、すっごい心臓の音ですっ」
顔を上げたリリアンがクスクスと笑ったので、アンジェも涙を浮かべながら笑い返す。二人して頬を寄せ合って笑うと、こんなにも気持ちが弾むものなのか。
窓の外の中庭で、乙女ゲームのスチルそのままに花が咲き乱れていたらいいのに、とアンジェは思った。
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