27-10 眼差し


 目が覚めると、見知ったベッドの天蓋が目に入ってきた。


(これは、知っている天井ね……)


 アニメの台詞を思い出しつつ、アンジェは一度開いた瞳をゆっくりと閉じた。身体が酷くけだるく熱を含んでいて、眩暈と共にどこまでもベッドに沈み込んでいきそうな感覚になる。喉の奥あたりが灼けるように熱いのは、先ほどの嘔吐の影響だろうか。


「……起きたか、アンジェ」


 左側から声がして首をのろのろと向けると、ベッド脇の椅子に座ったルナが足組みをして、更に頬杖をつきながらこちらを見ていた。眼鏡は外して髪は下ろし、着ているものも男性用ではあるが寝間着だ。


「ルナ……今、何時? 祝賀会は……」


 室内の風景は、王宮に泊まる時のいつもの客室だった。アンジェが掠れる声で言うと、ルナは笑いながら大きくため息をつく。


「お前は本当に真面目っつうか……」

「だって……」

「もうぼちぼち夜が明ける。祝賀会は終わったよ」

「どんな様子でしたの……?」

「その前に、お前、身体はいいのか?」


 ルナが身を乗り出してきて、アンジェの頬に自分の手の甲を当てる。ルナの手は骨が太く、肌も温かで心地よい。アンジェが目を細めると、ルナは険しい顔をしながら席に戻る。


「……まだ熱いぞ。寝れないなら話してやらん事もないが無理はするな」

「ルナは……寝たの? 怪我をしていなかった?」

「ん? ああ、まあ、気にするな、怪我なら魔法で治してもらったし、若い身体なら一晩徹夜くらいどうってこたない」


 ルナはクックッと笑うと、グレーの直毛をかき上げるようにしながら伸びをした。


「ユウトも最後の方はオヤジ臭くなってたからなあ。徹夜なんてしたら一週間は後を引いたな」

「分かりますわ、祥子もよく後悔していましてよ」

「ショコラはまだそんな歳じゃなかっただろう」

「そんなことなくてよ、三十を過ぎてからは肩こりも酷くて苦労していましたの」

「それはお前がデスクワークだからだな」

「そうかもしれませんわ」


 アンジェも笑ったが、笑いの振動が全身に響き、顔をしかめて身体を縮めた。


「……やっぱり無理はするな。しっかり寝ておけ」

「でも……ルナに、聞いていただきたいことがあって……」

「……ちなみに、この部屋にいるのは私だけじゃないからな。反対向いてみろ」

「えっ?」


 アンジェが首をぐるりと動かすと、途端に視界がストロベリーブロンドで一杯になった。


「りっ、りりり、リリアンさん!?」


 ギョッとしたアンジェは半身を起こしたが、すぐに腕が震え出し、ぼふりと布団の上に倒れ込む。そのまま横目で見上げる。見えるのは髪ばかりで顔は見えず、髪の隙間から寝間着と肩甲骨の線が見える。リリアンはアンジェの騒ぎにも微動だにせず、肩のあたりが規則正しく上下していた。


「寝て……いらっしゃるの?」

「ようやく寝たとこだな。ずっとお前を治療してたんだ」

「まあ……リリアンさんが? 魔法で治して下さったということなの?」

「ま、そうなるな」

「まあ……」


 赤い顔で呆然とするアンジェに、ルナはクックッと笑い声をあげる。


「しっかしまあ……想像はついたが、生身でエロ同人展開をこの目で見ることになるとは思わなかったぜ」

「えっ、どっ……ルナ!」

「いや、考えてもみろ。敵の魔物はヤリモクで、得体の知れん体液か何かを飲まされて……時間がたっても心とは裏腹に身体が疼く、あの快楽を忘れられない……主人公は自ら赴き、ついに魔物の手に堕ちる! なんて腐るほど見てきただろ」

「ええっ、待って、テンプレは分かりますけれど具体的に何がどうだったのか何一つ覚えていなくてよ!?」

「覚えてないならそれでいいと思うがね」


 ルナはニヤニヤ笑いながら自分の口許を手で隠した。


「殿下を出禁にしといて正解だったとは言っておく」

「えっ、そんな痴態を晒したんですの!? それをリリアンさんがずっとご覧になっていたの!?」

「気になるなら後で本人に聞きな。大したことはしちゃいないぜ」

「もう……教えてくれたっていいじゃない」

「言葉攻めされたいんならいくらでも教えてやるぞ?」

「それは言葉攻めでなくて、羞恥プレイなのではなくて……?」

「確かにな」


 アンジェは上体をねじるようにしてなんとか身体を起こし、ベッドのヘッドボードに枕を挟んでよりかかった。リリアンは変わらずに規則正しい呼吸をしている。


「それで……祝賀会はどうなったんですの? わたくしのせいで台無しにしてしまって……」

「…………」


 ルナが言葉を選びながら語ったところによれば、眠らされていた来賓はほとんど大きな怪我もなかったらしい。しかし社交中に急に眠気に勝てずに倒れたことを不審がる者は多かった。加えて、操られて戦いの現場となった庭園で目を覚ました者もおり、人によってはアンジェがえずく様子や、気を失ってどこかに運ばれていくのを見たのかもしれない。祝賀会会場の雰囲気に不穏なものが混じり始めたのを見て取るや、国王ヴィクトルがアンジェとの婚約を破棄し、リリアンとの婚約を正式に成立させるようフェリクスに説いた。


「殿下は反論したんだがな……」


 怒り狂うフェリクスは、ベルモンドールとの関係や自分の母親たちのことすら引き合いに出して父王の勅言を断ろうとしていた。しかしヴィクトルも心得ていて、「祝賀会会場の不穏な空気のまま諸国の使者を自国に帰すわけにはいかない、セレネス・シャイアンは一人しかいないが、セルヴェール家の子息は他にもいる、イザベラあたりに選ばせればいい」と返しフェリクスを激昂させた。しかし国王は「彼女を邪教徒として追放しても良いのだ」と更に凄み、フェリクスは怒りに震えながら要求を呑んだ。フェリクスはアンジェと婚約破棄したわけではない、アンジェとの婚約の進退について誰も公に向けて口外しないように、と何度も父王に念を押し、ブレイズに振り回されてへろへろになっているリリアンと共にバルコニーに立った。


「そんなことになっていたのね……」

「何も発表しないほうがかえってやましいと思うがね。陛下はご自分は二人抱え込んでるくせに、なんでそこまでこだわるんだか」

「わたくしがどうこうより、セレネス・シャイアンとの婚姻に重きを置いているように思えますわ……」

「ま、どうせ、テンプレ展開的には、聖女の力が国の加護だとか魔力の源だとか、そんなんだろう」

「あけすけに仰いますこと」

「お前としちゃ、婚約破棄に一歩前進したってとこか?」

「リリアンさんがフェリクス様とご婚約してしまって、むしろ後退していますわ」

「難儀だなあ、お前も」


 ルナはクスクスと笑ったが、アンジェはゆっくりと首を振った。


「こんなの……難儀のうちにも入りませんわ。あの魔物はもっと恐ろしいことを言ったのだもの」

「お、そういや何か言いかけてたな」

「ええ……」


 アンジェは隣のリリアンにちらりと視線を送る。リリアンは二人が話している間、少しばかり身じろぎしたり首の向きを変えたりしたが、起きる気配は一向になかった。アンジェの位置から見ると、ストロベリーブロンドから形の良い耳がぴっと飛び出し、その向こうにふわふわした頬だけが見える。


「…………」

「……アンジェ?」

「リリアンさんは、寝ていても可愛らしいこと……」

 

 アンジェはリリアンを見つめる姿勢のまま動かない、動けない、ルナがその横顔を見ながら遠慮がちに呼びかける。アンジェは瞳を閉じてマラキオンの声を思い出した。大人の男の深い声。ゆっくりと細められた金色の瞳。


「……マ、ラキオンは、こう言ったの」


 瞳を開けて、布団の上で力の入らない拳を握り締めて、アンジェは呟く。


「……凛子が待っている、と」


 ルナが息を呑む気配が伝わってきた。アンジェがルナの方を向くと、親友は口を開きかけたその顔のまま、凍り付いてじっとアンジェを凝視していた。


「……凛子だと?」

「ええ……」

「凛子……リリコが、転生してたってことか? クソマラ野郎のところに?」

「分からない、分からないの、ルナ、それしか言われてなくて」


 アンジェの青い瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれる。


「名前を言われただけ……ただそれだけだわ。生きているだとか死んでいるだとか、元気なのか、病気や怪我をしているのか……何も……分からなくて……でも……」

「アンジェ、アンジェ。ショコラ。大丈夫だ、落ち着け、息を吐け」

「ルナ……」


 話すうちにうまく呼吸ができなくなっていったアンジェは、立ち上がったルナに背をさすられ、ゆっくりと息を吐いた。


「ルナは……いつか言ってくれたわね」


 ルナの腕にすがるようにしながら、アンジェは呟く。


「わたくしも他人事ではないと……今、凛子ちゃんが現れたらどうするんだ、リリアンさんとどちらを取るんだと」

「……ああ、言ったな」

「リリアンさんは、変わらず大切で愛しい子だわ……凛子ちゃんも、大切なお友達よ。わたくし……安藤祥子のことも、とても大切にしてくれた……」

「そうだったな、よく見てたよ」

「ルナ、ねえルナ……ルナや、フェリクス様や、……リリアンさんや、アンダーソンさんが……わたくしを大切に思って、怪我までして、守ってくださって……リリアンさんをお守りしたいのに、守られてばかり……」


 アンジェは手の甲で涙を拭った。持ち上げる腕がまだけだるさを含んでいて重く煩わしい。


「でももしも、もしも本当に凛子ちゃんなら……わたくし、助けて、助けに行かないと……」

「……それじゃ、クソマラ野郎の思うツボだろう。お前を堕とすためについた嘘だってこともありうるぞ」

「ええ……そうね……ええ……分かってるわ……」


 アンジェは頷きながら自分の肩を自分で抱いた。思考が煮詰まるとともに、震えが、眩暈がぶり返してきたようだった。ぐらぐらと部屋が回る感覚に呻くと、ルナがアンジェを引き倒して布団に寝かせ、肩まで掛け布団をしっかりとかけた。


「今すぐ結論を出そうとするな。しっかり休んで食えるものを食って、身体もメンタルもぴんしゃんしてる時に考えろ」

「ええ……そう……そうね……」

「とりあえず寝ておけ。飲み物ととかいるなら持ってきてやるから」

「ええ……大丈夫、何もいらないわ」

「そうか、じゃあ寝ろ」

「ええ……」


 横になったアンジェの瞳から、ぽろり、ぽろりと涙がこぼれ、枕とシーツに染みを作った。


「…………」


 見開かれていた紫の瞳が、何かを覆い隠すように、ゆっくりと閉じられた。






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