27-9 聖剣

 マラキオンが消えた瞬間、眠りながら動かされていた来賓たちがばたばたとその場に倒れ伏した。黒い異形たちはマラキオンと同じようにぼろぼろと融けて消え失せてしまい、アンジェを拘束していた紫の髪も同じように消えた。アンジェは身を起こそうとしたが、両腕の痺れと震えが酷く、体重に負けて芝生の上に再び倒れ伏した。


「アンジェ!」


 フェリクスが駆け寄ってくるが、アンジェは震える手を必死に持ち上げ、手のひらを彼に突き付けた。フェリクスが驚いて立ち止まるのを確かめると、その手を──指二本を自分の喉の奥に突っ込む。手が震え、涎がだらだらと出続けていて狙いが定まらない。


(とにかく──)

(吐き出さないと……!)


 マラキオンを介して流れ込んできた、あるいは口移しで飲まされた液体は、度数の高い酒を飲んだ時の感覚に似ていた。アンジェ自身は酒はほとんど飲んだことがない、乾杯酒をグラスに一杯、時間をかけてゆっくりと飲む程度だ。それでもグラスが空になる頃には頬が火照り気分が良くなるので、体質的にあまり強くないのだろうとは思っている。あの液体はそんな可愛らしい酒ではなく、学生時代の祥子の同僚が、バカ騒ぎをしながら度胸試しにショットグラス一杯を飲み干す、そういった類の酒によく似ていた。祥子も一口、二口、試しに飲んでみた記憶ある。喉から食道、胃にかけて火が転がり落ちていくような感覚、あれをもっと煮詰めて強烈にして、更に頭の芯が痺れるような甘く爛れた味と香り。アルコール分だけだとしても既に危険な状態だし、魔物相手に酔っぱらうだけで済むはずもない。そんな液体は、一刻も早く自分の身体から追い出したかった。


「アンジェ、アンジェ!?」

「ふぇ……こな……い……で……」


 フェリクスはアンジェの静止の合図に一瞬たじろいだものの、すぐに駆け寄ってズタズタになったモーニングのジャケットを脱ぎ、アンジェの背にかけた。アンジェは倒れたまま震える指を喉に入れようとする。フェリクスは苦痛に顔を歪め、震えている身体を抱き起こし、アンジェの口から手をどけさせる。アンジェはフェリクスの顔を見ようとするが、目の焦点が合わなかった。触らないで、フェリクス様、触れたら危ないものかもしれない……。


 フェリクスがぎりと歯ぎしりする音。身体が持ち上げられて胃が圧迫され、涎が出続けている口にフェリクスの骨ばった指が突っ込まれ、喉の最奥を的確に突いた。アンジェは激しくえずき吐瀉物がぶちまけられる。それは紫色のぬらぬらとした液体で、胃液と混ざって酷いにおいがした。地面に落ちた端から、魔物たちと同じようにぼろぼろと形が崩れて消えていく。一度えずくと何度もうねりが押し寄せて、アンジェはフェリクスの腕にしがみついて吐き続けた。最後の最後、大きなゼリー状の塊がずるりと吐き出され、それらもあっという間に消えてしまった。


「アンジェ……」


 酷いにおいだけが残されている。フェリクスの手には、アンジェの口の周りと身体には、灰汁のような残滓がまだまとわりついている。


「ふぇ……り……」


 痺れはまだ消えないが、目の焦点は合うようになった。アンジェを膝の上に抱きかかえて、泣きそうな──いや、泣きながらその顔を覗き込んでいる若き王子。顔は血や煤のようなもので汚れ、見上げる範囲で見るだけでも上着はズタズタになっており、垣間見える素肌には赤いものが滲んでいる個所もある。


(……見られたく、なかったわ……)


 動かぬ身体とは裏腹に思考は少しずつ聡明さを取り戻しつつあった。魔物に捕らわれ、人質のように扱われ、得体の知れぬ液体を吐いたアンジェを彼はどう思うだろうか? その液体がどのように体内に入るに至ったかを想像して──グラスを渡され、飲まなければ殺すと強要されたとでも思ってくれるだろうか? ……そこまで純真ではないだろう、そこまで阿呆ではないだろう。彼ならば的確に、もしかすると事実以上に酷いことを想像してしまうはずだ。あるいはその瞬間を、既に遠目に見てしまったのかもしれない。彼の目を見ることが出来なくなって視線を逸らすと、双頭刀にこびりついたすすを払っていたルナが、へろへろに疲れ果ててゾンビのような歩き方をしているエリオットが、顔面蒼白で必死にこちらへと走っているリリアンが、それぞれアンジェとフェリクスの方へ向かってきているのが見えた。


「無事か、アンジェ。おもくそ吐いてたが、魔物に何かされたのか?」

「ルナ……!」


 心配そうに顔を覗き込んできたルナに、アンジェは必死に取りすがった。


「あの……ルナ、あの……! あの子が……! ルナ……!」

「あの子? 子リスか?」


 アンジェは首を振る。凛子の名前をフェリクスの前で言ってよいものかどうか分からない。それ以前に、その名前を口にしてしまうのが怖い。アンジェを誑かすためだけに、あの魔物がついた巧妙な嘘なのかもしれない。けれど本当に凛子が、凛子の記憶を持つ誰かがいて、マラキオンに囚われているのかもしれない。それが恐ろしい。アンジェが名前を呼んだら、それが現実になってしまうような気がして。


「ルネティオット……」


 フェリクスが心配極まりない顔でルナとアンジェを見比べた。


「アンジェは……あの魔物に……」


 王子もまた、その先の言葉を口にすることが出来なかった。青ざめた頬に流れる涙を拭いもせず、アンジェを抱き締めるしかできない。ゾンビのようにげんなりと歩いているエリオットが、必死極まりない顔のリリアンが一同の許にたどり着く。はるか遠く、大広間からこちらに向かう道に、クラウスがイザベラの手を引いて歩いているのが見える。


「アンジェ様っ、アンジェ様、大丈夫ですか!?」

「一生分走った気がする俺……」

「アンジェ様、アンジェ様、アンジェ様!!!!!!」


 リリアンはぽろぽろと涙を流しながらおそるおそるアンジェの手に触れようとする。アンジェはそこにこびりついた灰汁のような汚れを思い出し、びくりとその手を引っ込める。リリアンはそれを見て酷くショックを受け、へたりとその場に座り込む。


「アンジェ様……あの……私……」

「リリアンさん……」

「そんな……あの魔物が、そんな、酷いことを……?」

「アンジェ……!」


 リリアンが、フェリクスが必死にアンジェに取りすがる。エリオットは呻きながら芝生の上にごろりと転がってしまう。ルナは一同を見まわし、必死に自分を見上げているアンジェを見ると、しかめ顔のままひとつため息をついた。


「……アンジェ。お前が言いたいことがあるのは分かったが、先に確認させろ」

「……ええ、ルナ。あまり……その……避けて……」

「どこまでもお人よしだな、お前は」


 ルナは泣き笑いのような顔をすると、どかりとアンジェの前に座り込む。


「……薄い本か?」

「うすっ」


 アンジェはギョッとした勢いでよろけて倒れそうになった。フェリクスが慌ててそれを支えてやる。アンジェは何か言おうと口を開くが何一つ言葉が出て来ない。こんな時に何を言うの。


(でも……)


「薄い、本と、……言える、かも」


 舌の痺れに抗って必死に話すアンジェに、ルナの顔は一気に深刻な顔になった。一方のフェリクスたちは訳が分からずに首を傾げる。


「……海苔は使ったか?」

「使わ、ない」

「……Rの指定が入るか?」

「入る……けれど、人による」

「…………」


 ルナは深刻なまま、首を傾げ──


「二十八ページだとして、何ページ目ごろには出てくる?」


 アンジェも首を傾げ──


「……五ページ、までには?」

「アンジェ、ルネティオット、いったい何の話をしているんだい?」


 見かねたフェリクスがおずおずと話に入って来たのを、ルナはまじまじと見る。まじまじと、まじまじすぎるほどまじまじと見て、次いでアンジェの横に座り込んでしまったリリアンを見て、ふっと笑みを浮かべた。


赤ちゃんべべは、何もされていないわけじゃないが、真に深刻になるようなことはされちゃいない」

「本当か!」

「本当ですか!」

「回復したら本人に聞けよ」


 ルナはいつもの調子に戻ってクックッと笑う。軽薄な態度だが、しかしアンジェはどこか安堵していた。ルナには何をされたのかが伝わった。あとは、何を言われたのかをどこかで伝えて相談すればいい。


「アンジェ、済まない……僕のせいだ……」


 ボロボロのモーニングのポケットからフェリクスはハンカチを取り出し、アンジェの口許を拭ってやった。そのまま、泣きながら、アンジェを力の限り抱き締める。嗚咽に震える胸の感触が、アンジェの頬のあたりに伝わってくる。


「ふぇり……」

「おいコラ、一人で盛り上がるんやない!」


 不意に誰かの声と、ばしんと音がしたかと思うと、フェリクスの身体がぐらりと揺れた。王子は呻きながらアンジェを抱き寄せ背後を振り仰ぐ。アンジェがフェリクスの視線の先を追うと、怒髪天を衝く勢いで怒り狂う小さな人物が空中に浮遊していた。


「ぼんやりしくさって、お嬢こんな目に遭わせて! 朴念仁! アホ!」


 その人物は子供のような甲高い声で喋ると、ぽかりぽかりとフェリクスの頭を殴る。一同はギョッとするが、フェリクスは苦い顔で殴られるがままになっている。


「だから四六時中持って歩け言うたんや! 油断しくさって! 今は有事の時なんやて言うとるやろ!」

「返す言葉もないよ、ブレイズ……」

「ノブやったらこないな大惨事になる前にちゃっちゃっちゃーって片付けよるで! なんなんほんと、これだから現場を知らん奴はあかんのや! なあルナちゃん!」

「まさしくだな」

「済まない、本当に……」


 見えない椅子でもあるかのように虚空に腰掛け、腕組みをして怒っているその人物は、五歳程度の子供ほどの身長しかないようだった。だが体つきは成人女性のそれで、全身は真っ白い肌に金と赤の模様が隈取りのように走っている。アンジェは錦鯉のようだな、と頭の隅で思いつつ、フェリクスの方をのろのろと見上げた。


「フェリ、くす様……その方、は?」

「アンジェ、話して大丈夫なのかい」

「おっお嬢もう話せるん? はぁー丈夫やな、さっすが自分の婚約者ぶちのめそう云うタマは根性も作りも違うわあ、どっかのど忘れ王子よりよっぽどうちの主にふさわしいわあ」


 錦鯉模様の人間はふわりと飛び上がって空中で宙返りをすると、アンジェの目の前までやって来た。くりくりとした金色の瞳がじっとアンジェの顔を覗き込む。


「……アンジェ、前に話しただろう。彼女が聖剣ディヴァ・ブレイズの化身だよ」

「せや、気難しゅうて扱いも難しい古代剣の精やで」

「まあ……」


 アンジェは驚いて目を見開く。身体を起こそうとするが力が足りず、見咎めたフェリクスにがっちりと抱え直されてしまった。


「ご機嫌がある剣だとは聞いていましたけれど……人の姿をして、お話しできるとは思いませんでしたわ」

「せやろ。王子様は剣の腕は立つけど危機感が足りんてアカンわ」


(関西弁を話すとも思いませんでしたわ……)


 アンジェが内心呟いたのを知ってか知らずか、ブレイズはアンジェの隣で驚いて口許を覆っているリリアンの目の前まで飛んできた。


「アンタがセレナやね。見事な戦いぶりやないの、男に背負われて狙撃とか聞いたこともあれへんわ」

「あっ、あのっ、そそそ、そうですね、あのっ」


 褒められたリリアンは顔を真っ赤にして動揺する。


「アンタもこの子背負ってようけ走ったわあ、面白い魔法の使い方すんのやね」

「わっ、えっ、マジすかあざす!」


 自分が褒められると思っていなかったエリオットも、飛び起きて顔を赤くしつつ動揺する。


「せやしセレナ、アンタに少しばかり仕事してもらわなあかんえ?」

「えっ?」

「結界がこない弱まってたら、マラキオン以外もとんちき魔物がぽこぽこ湧いて出てくるかも分からへん。ヘレニア様にやり方聞いて、さっさか封印してこよや」

「えっ!?」


 ブレイズはリリアンの手をぐいぐいと引っ張って立ち上がらせた。フェリクスとアンジェの方を見ると、ふふふと笑う。


「この子ちょっと借りるわあ」

「えっ、えっ!? はいっ! アンジェ様っ無理しないでくださいっ!」


 訳も分からず動揺しているリリアンを連れて、ブレイズは王宮の方へと飛んで行ってしまった。あちらこちらに倒れ伏している来賓たちが、呻いたり動いたりし始めている。残っていた吐瀉物の臭気も、風に流されていつの間にか消えていた。


「リリア……」

「アンジェ? アンジェ!? アンジェ……」


 リリアンの名前を最後まで呼び終えることが出来ないまま、アンジェの意識はそこで途切れた。


 



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