27-8 奪還

【祥子ちゃん】


 脳内で再生される声が、甘くぬめる吐息に蹂躙されていく。


【祥子ちゃんは、昔からずっと紅茶のパウンドが好きだよねえ】


 懐かしいその声が、眼差しが、蘇る度に力が抜けて侵入を許してしまう。それは酷く甘く舌先を痺れさせ、こみ上げる嫌悪感と吐き気を押し戻すようにアンジェの内を嬲った。頭と腰を押さえられて、上体にのしかかられるような重量がかかる。両手両足は紫の髪に拘束され、身を捩っても芋虫がくねる程度の動きにしかならない。痺れが全身に回り、思考が鈍くなる。ぬるりと蠢くものとは別に、甘く熱い何かが喉奥に流れ落ちていくのが分かる。


(……凛子ちゃん……)

(凛子ちゃんと言ったの……!?)


 アンジェは身を捩る。侵入者は人間の舌よりも分厚く細長く、自分すら触れたことのない喉奥をぬらりと這う。触れたところから痺れていく。胃のあたりがカッと熱くなる。気色悪いものを噛み千切ってしまいたいが、嫌悪にもがきえずくうちに更なる侵入を許し、甘い痺れはやがて疼きとなって意識を侵蝕する。アンジェの抵抗の力が弱くなったのを見て取り、マラキオンはゆっくりと顔を上げた。金色の瞳が自分をじっと見ている。何か話そうとすると、舌が痺れてもつれる。


「り……んこ、ちゃんが、いるの……?」


 嫌悪と苦痛に浮かべた涙が消えやらぬ顔を覗き込み、マラキオンが鼻で笑う。


「いたら余と来るか?」

「凛子、ちゃんは、無事、らの?」


 呂律の回らぬ舌でアンジェは必死に喋りマラキオンを睨み上げたが、魔物は獣じみた笑みを浮かべ、むしゃぶりつくようにアンジェの唇を塞いだ。アンジェが呻くと、マラキオンが喉の奥で笑うのが振動として伝わる。


「余と共に来て確かめてみろ。いるのか、いないのか、無事なのか、そうではないのか」

「……いっ……」


 いるのか、いないのかだけでも教えてちょうだい。そう言いかけてアンジェは口をつぐんだ。マラキオンがアンジェの髪の毛をつかみ、その頬をべろりと舐め上げる。アンジェは嫌悪に身体を縮める。マラキオンは笑いながら、頬、顎、首筋を舐り、アンジェのアフタヌーンドレスの襟元に鋭い爪を差し入れた。


「さあ、どうするのだ、ルネ」


 首からデコルテを覆う部分のボタンが、引き千切るように外されていく。紫の髪がひとりでにうねり、アンジェの拘束が後ろ手に変えられる。


(何も応じては駄目よ、アンジェ……)

(意志を強く保てと、アシュフォード先生は仰った……)


「言葉で答えられぬなら、身体に聞いてもよいのだぞ」


 ドレスの布地が一気に腰のあたりまで引き裂かれてはらりとはだけた。その隙間からアンジェの白くきらめくデコルテとコルセットが露わになる。反射的な羞恥にアンジェは息を呑み、頬が染まるが、歯を食いしばって悲鳴を堪える。


(……なんでもない、なんでもないわ、こんなもの……!)

(弱みを見せては駄目……!)


「さあ、ルネ、余と共に来い。凛子のことをその目で確かめよ」

「……行かないわ!」

「はは、強気だな。ヘリオスの前で壊れるまで抱いても、理性を保っていられるかね」


 マラキオンの手がコルセットへと伸びる。紐を解くなどという上品な所作をする気は毛頭ないようで、胸の谷間に爪が差し込まれる。びっ、びりっ、と、少しずつ布地が切り裂かれ、アンジェの柔らかな羽二重が今にもまろび出そうになる──その瞬間、轟音と共にマラキオンの身体が衝撃に揺れた。


「アンジェッ!!!!!!」


 前に倒れ込んだマラキオンが、がしりとアンジェの首を掴んで自分の許に引き寄せた。憤怒もあらわなその顔は、獲物を横取りされて怒り狂う猛獣のようだ。アンジェごとぐるりと振り向いた先に、冬至祭のヘレニアのように輝く刀身を構えたフェリクスがマラキオンめがけて第二撃を放ったところだった。


「来たな、ヘリオス!」

「フェリクス様!」

「アンジェッ!!!!!!」


 マラキオンが咆え、右腕の素手のままフェリクスの剣を受ける。アンジェは魔物の左腕にがっちりと抱きかかえられる。がきんと硬質な金属どうしがぶつかる音がし、下から振り上げたフェリクスの剣がぎりぎりと唸る音が聞こえる。マラキオンの紫の髪がうねり、槍のように鋭くなりフェリクスを狙う──アンジェが息を呑むのと、マラキオンが舌打ちして身を翻すのと、ルナが双頭刀に黒い稲妻を纏わせて飛び掛かったのは同時だった。


「何人いようと無駄た!」

「クソ雑魚の台詞だな!」


 紫の髪が狙いを変えて、軽口を叩いたルナを襲う。ルナは槍の雨のような連撃をことごとく避け、弾き、だが後退を余儀なくされて下がる。フェリクスも鍔迫り合いで押し負けて一度下がる。マラキオンが右手を振ると、先刻アンジェを襲った粘土細工のような異形たちが無数に生み出され、二人に襲いかかった! 更に紫の髪の槍が二人を追撃する。あちこちで眠りこけていた来賓たちが、寝顔のまま糸でつられたように立ち上がり二人に襲い来る。二人とも黒い異形は躊躇いなく斬れるが、操られた来賓に剣を向けられず徐々に取り囲まれていく。


「フェリクス様! ルナ!」

「ルネ……余と共に来い、さもなくばこやつらを嬲り殺してくれよう!」

「アンジェ、駄目だ!」

「ははっテンプレ悪役に泣けてくるぜ!」

「ほざけ、ゴミムシども!」


 マラキオンが破裂するように笑ったその瞬間、背後から飛来した閃光が魔物の頭蓋を打ち抜いた! 大柄な体躯がぐらりと揺れるが、両足を踏ん張って転倒を免れ、身体だけがぐるりと背後を振り向く。振り向きざまに吹き飛ばされた首のあたりから、新しい顔が恐ろしい速さで再生していく。


「セレナ! 貴様何をした!」

「ギャー再生したキモイ! やばい!」

「えっじゃあどこ狙えばいい!?」

「知らん分からんとにかく撃ちまくるしかねえだろ!」

「分かった!」


 マラキオンの掌から黒い稲妻が迸った先で、リリアンとエリオットが──リリアンをその背に背負ったエリオットが、稲妻を避けて空中を駆けあがっていった!


「リリアンさん! アンダーソンさん!」


 リリアンはエリオットの背の上で目に見えぬ弓を弾くような動作をすると、矢のような閃光がリリアンの背後に何本も現れる。紫の瞳を細め狙いを定めると、閃光がすべてマラキオンの方を向く。マラキオンが放った黒い稲妻が次々と二人を狙うが、エリオットはリリアンごと紙一重で避け続ける。


「アンジェ様を放してっ!!!!!!!」

「小癪な!」


 リリアンの手の中に光で出来た弓が現れ、閃光が次々にマラキオンめがけて発射された! マラキオンは舌打ちしてアンジェの首を掴み自分の眼前にかざす。ギョッとしたリリアンが両手をかざすと、アンジェに当たるかというぎりぎりのところで閃光は軌道を変え、あたりの芝生やらなにやらに激突した。


「さあ、ルネごと余を撃ってみよ、セレナ!」

「くうう、リオあいつ卑怯! 卑怯!」

「魔物に卑怯とか正々堂々とか通じねえだろ! うおっ!」

「もー!!! じゃあ……こうだっ!!!」


 閃光の軌道が直線ではなく曲線になり、急カーブしながらマラキオンを狙う。リリアンは一つ一つ軌道を見極め、アンジェに当たりそうになる直前に手をかざしたり腕を振ったりしてうまく避ける。閃光のいくつかはマラキオンの脇腹やら背中やらに当たるようになり、魔物の反撃はさらに苛烈になり、エリオットは雷の残像が尾を引くほど強力に魔法をかけて、空中を縦横無尽に駆け回る。


「ガキどもがちょこまかと逃げよるわ!」

「リリアンくんその意気だ!」


 異形と来賓の包囲を抜け出せたフェリクスが再びマラキオンに斬りかかった。紫の髪が一刀両断され、王子は一気に間合いを詰める。ルナは彼のところに異形と来賓が行かぬよう壁役として食い止めている。マラキオンはずっとアンジェを脇に抱え、時に盾にしていたが、リリアンが攻撃方法を変えてから明らかに不穏な顔になっていた。だが決してフェリクスたちが優勢というわけではない。フェリクスとルナはあちこちから流血し、エリオットも息が上がり始めている。閃光を打ちつつ、エリオットが避け切れない稲妻を弾いているリリアンも顔面蒼白になりつつある。


(このままでは膠着して押し負けてしまう……!?)

(わたくしにも……)

(できることが、あれば……!)


 アンジェは藻掻きながらあたりを見回した。身体に力を込めると、魔力が動く気配を感じる。魔法はまだ使えるようだ、どうしよう、どうしたらいい?


(なりふりなど構っていられないわ……)


 アンジェはマラキオンに物理的に振り回されながら必死に周囲を探る。フェリクスの剣がマラキオンの腹を狙い、僅かに傷をつけるが反撃に遭う。リリアンの閃光が外れて周囲で爆発する、もう一本、アンジェを掠めた閃光が、空中で急激に方向を変えるのが見えた──アンジェはその瞬間、力いっぱいマラキオンの腕に嚙みついた!


「ギャッ!!!!!」


 口が爆発したかと思うような衝撃と共にリリアンの魔法の矢が直撃し、アンジェはマラキオンの手を離れて空中に放り出された。フェリクスが血相を変えて駆け寄り、アンジェとマラキオンを結ぶ紫の髪を両断する。床に落ちた衝撃にアンジェは呻く。リリアンが歓声を上げるのが聞こえる。


「ルネ!」


 金の瞳を怒りに燃え上がらせたマラキオンが叫んだ。


「今日のところは引いてやる、だがお前は必ず余のところに来る……!」


 マラキオンの身体が少しずつ融けてぼろぼろと崩れていく。アンジェの許にフェリクスが駆け寄る。


「忘れるな、ルネ、お前は余のものだ……!」


 その叫びを残して、マラキオンの身体は霞が消えるように消えてしまった。


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