27-7 招喚


「ルネ……さあ、行こう」


 マラキオンの紫の髪が、身に纏う異国の布が、それ自身が意志ある生き物であるかのように中空をうねり広がる。アンジェは咄嗟に立ち上がったが、その状態で足がすくんで身動きが取れなくなった。身体を支えようとテーブルに伸ばした手がぶるぶると震えている。一歩、また一歩とこちらに近付いてくる度に、身体が大きく厚く膨れ上がっていくような気がする。息が苦しい、手足が動かない、金色の瞳から目をそらすことが出来ない──


「……マラキ、オン……!」


 昏睡したはずのテーブルのメンバーのうち、クラウスが呻いた。テーブルに伏す形から両腕にありったけの力を込めて身体を起こそうとしているが、背中に岩でも乗っているかのようにその形から動くことが出来ない。


「マラキオン……! なぜ……!」

「そちに用はない、ルネを迎えに来たのだ」


 マラキオンは醒めた口調で呟くと、クラウスに向かってゆるやかに手を振った。その瞬間、クラウスの頭が強烈にテーブルに打ち付けられ鈍い音がする。呻くクラウス、かけていた眼鏡が歪むが、震える手を隣の異母弟へと伸ばす。


「セルヴェール……逃げなさい……」

「あ、アシュフォ」

「逃げなさい……魔物は貴女の同意がない限り、共に連れて空間を飛ぶことはできない、捕らえられても助けが来るまで意志を強く保つんです……! スウィートを起こして! 殿下……フェリクス!」


 震えているクラウスの手がフェリクスの腕に触れた。服を手繰り寄せるようにしてその腕をつかみ揺さぶるが、フェリクスの身体は力なく揺れるだけだ。


「起きなさい、起きろ……フェリクス!」

「無駄だ、みな夢を見ている頃合いだろう」


 マラキオンが笑いながらフェリクスとクラウスが座っている椅子を力任せに蹴り飛ばし、二人は床に投げ出される。クラウスが異母弟の頭を庇うようにして自分の側頭部をしたたかに打ち付けた。


「先生! フェリクス様!」

「僕たちはいい、逃げなさいセルヴェール!」

「ゴミムシがうるさいぞ」


 マラキオンがフェリクスを庇うクラウスの背中を蹴りつけた。鈍い音と呻き声。アンジェはじりじりとあとずさり、その手が眠り伏すリリアンの背中に触れる。


「ルネ……さあ、余と共に来い。この世の悦びの全てを与えてやろう」


 マラキオンの言葉は、怯える子猫をおびき寄せるように甘く柔らかい。けれど、だからこそ、その目線に絡めとられると吐き気を伴う怖気が走る。周囲がいやに静かだ、たくさんの参賀客が、使用人が、衛兵がいるはずなのに、誰も気が付かないのか、あるいは眠らされてしまったのか? この目線から逃れなければ。捕まってしまう、捕まったら何をされるか分からない……。


「り、りり、リリアンさん、起きて、リリアンさん」

「んん~……、ミミちゃんなあにい……んふふふふふ」


 アンジェがリリアンの背を揺すると、聖女セレネス・シャイアンはむにゃむにゃと寝言を呟き、楽しそうににんまりと笑った。


「リリアンさん、起きて……!」

「無駄だ、ルネ、人間はこの眠りに抗えぬ……心地の良い夢からわざわざ抜け出す者はおらぬ。お前のように、余のしるしを受ければ別だがな」

「……っ……」

「お母さん、ちょっと待っててね、今アンジェ様と一緒にイチゴをバターにしてるから……溶けちゃう前に混ぜないと爆発しちゃうからぁ、ふふふ……ううん……なあにいミミちゃん……」


 マラキオンは手を伸ばせばアンジェに触れられるかというところまで迫ってきた。二メートルは優に超えるであろう大男を見上げ、アンジェはずるずると後ろに下がる。リリアンの寝言の笑い声が耳の奥でぐるぐると渦巻いているような気がする。


「……こ、来ないで……」

「逃げろ、セルヴェール……!」


 クラウスの叫び声は掠れている。アンジェは唇を噛み、リリアンの背を揺すっていた手を自分の胸元に引き寄せる。汗でぬめる手のひらを握ると、いつかのようにバチバチと火花が散った。マラキオンはアンジェの手元を見て、小馬鹿にしたように笑みを浮かべる。


「無駄だ、あの日は不意を突かれただけだ。その程度の魔法なぞ前戯にもならんぞ」

「ええ、そうね、そうかもしれなくってよ……」


(お願い、どうか)

(うまくいって──!)


 アンジェは深呼吸をした。魔法を発動する時の悪寒にも似た感覚が、全身から指先へと集まっていく。目の奥がチカチカする、指先が疼く──


「リリアンさん、起きて!」


 アンジェは魔法を纏った自分の掌で、リリアンの無防備な背中をばしんと叩いた!


「ぴゃっ!? 何っ!?」


 リリアンが悲鳴を上げて飛び上がる。アンジェの掌に、薄いガラスを握り潰したかのような鋭い痛みが走る。気色ばんだマラキオンが、アンジェとリリアンへとそれぞれ手を伸ばしてくる──アンジェはその手が自分に触れるよりも先に太い手首をがしりと掴み、狙いを定めてピンヒールを力いっぱい蹴り出した!


「おっごっ!!!???」

「えっ、えっ!?」


 固いモノと柔らかいモノが潰れる感触、アンジェは蹴り抜いた股間より少し上を蹴り、手首も離してマラキオンから離れた。マラキオンは内股で股間を押さえて呻く、リリアンが呆然としてアンジェとマラキオンを見比べる、マラキオンがぎろりとアンジェを睨む。


「悪戯が……過ぎるぞ、ルネ!」

「リリアンさん、逃げましょう!」

「逃がさぬ!」


 マラキオンの紫の髪がうねりながらアンジェに迫り、咄嗟に避けたアンジェと、テーブル側に避けたリリアンは分断されてしまう。股間を押さえたままマラキオンは右手をかざし、手のひらから黒い塊が生まれてはぼとぼとと床に落ちる。それらは塊ごとに身震いし、粘土細工のようにひとりでに人間や四つ足の生き物の形を成していく。


「ルネ、逃がさぬぞ!」


 怒りに満ちた目でマラキオンが咆え、生み出された異形達がアンジェめがけて飛び掛かって来た! アンジェは靴を脱ぎ捨て、スカートをからげ持って走り出す。リリアンが慌てふためきながらテーブルをばしんと叩くと、眠りこけていた一同がそれぞれ唸りながら動き出した。


「あれ、兄上……僕はピクニックをしていて……」

「フェリクス! セルヴェールが攫われてしまう、剣を出しなさい!」

「えっ、何ですか、兄上、何が……」

「ディヴァ・ブレイズを出しなさい、セレネス・パラディオン!」


 クラウスの叫びにフェリクスが息を呑む。顔を上げたイザベラは、呆然としてぽろぽろと涙を流しているが、ルナがその肩をぽんと叩き、だが焦りもあらわに周囲を見回す。


「ねえ、リオ、起きて! 起きてってばあ!」

「んー……いやあ、俺は全然経験なくて……えへへへへへおっきいっスね……」

「リオ起きて! 大変なのお願い!」

「んっだようるせえなあ、もう少し寝かせろよ……いって!!!!!」

「寝ぼけてないで、アンジェ様が大変なんだってば!」


 リリアンに手加減なしで叩かれたエリオットが、頭をさすりながらようやく顔を上げた。大広間を走るアンジェに聞こえたのはこの辺りまでだった。大広間のテラスから庭園へとでて闇雲に走っているが、異形たちが次々に飛び掛かってきてはアンジェを引き倒そうとする。一つ一つの力は大したことないが、引き剥がそうとするうちに他のものが飛び掛かり、マラキオンが迫りくる。アンジェは走りながら腕にしがみついた異形を引き剥がし、スカートに絡みついたものを振り落とし、それでも猶も走った。息が苦しい。少女が悪者に追われて逃げる場面は、アニメでも実写でもたくさんあった。空の城の秘宝を求める悪者。コスチュームが可愛い、惑星を司る魔法少女。痛快な少年漫画のヒロイン。パンデミックもの。ゾンビもの。襲い来る巨人から逃げ惑う群衆。みんな必死に逃げていた、けれど最後には助かったのだ。魔物が人を連れ去るには同意がいるのだとクラウスが言った、捕まらないように、捕まっても、同意しないよう、助けが来るまで持ちこたえる──


「……ルネ。さあ、こちらへ来い。もう余は怒っておらぬ、お前の悪戯など可愛いものだ」


 痛みから立ち直ったらしいマラキオンが、大股に歩きながら少しずつアンジェとの距離を詰めてくる。アンジェは諦めずに走ったが、とうとう追いつかれ、左腕をがしりと掴まれてしまった。抗い難い強い力で引かれ、体の向きを変えさせられる。顔面蒼白なアンジェの顔を見て、魔物の口の端から細長く先が割れた、蛇のような舌がちろりと出るのが見えた。走ってくる途中、何人も人を見たが、誰もかれもその場に頽れて眠りこけてしまっていた。


「無駄な抵抗をするな、ルネ。余と共に来るのだ」

「わたくしが、承諾しなければ……連れていけないとアシュフォード先生が仰ったわ!」

「そうかそうか」


 マラキオンは至極楽しそうに笑う。蹴られるのを用心しているのか、紫の髪が縄のようになってアンジェの全身をぐるりと拘束する。口の端から見える、人間にはありえないほど尖った牙。いつの間にかこめかみのあたりに、金色の角が左右一本ずつ生えている。ここは庭園のどのあたりだろうか、立木はあるが見晴らしは悪くない。大丈夫、見つけてくれる。きっと。


「それは確かにそうであるな。よく聞いておったぞルネ、褒めて遣わそう」


 甘く爛れたような香りが、鼻の奥から脳髄まで侵入してくるようだ。顔の造形そのものは目の覚めるような人間の美丈夫だが、ひとつひとつ人間と違うところを見つける度に、嫌悪感が吐き気となって腹の底からこみあげてくる。


「わたくしは……たとえ死んでも承知しなくてよ!」

「死なれるのはつまらんなあ、死んだ女を抱く趣味はない」


 マラキオンは笑いながら、アンジェが身に着けている宝石を一つずつ外していった。イヤリング。ネックレス。ブローチ。フェリクスから十六歳の誕生日に贈られたきらめきたちが、一つまた一つと無造作に芝生に投げ出される。魔物は宝石に触れると痛みを伴うようで顔をしかめるが、それで手を止めるというわけでもない。アンジェは指輪を両手で握り込んで守ろうとしたが、抵抗虚しく、あっけなく外されてしまった。


「さて……これで余計な守りもなくなった」

「そんなことをしてもわたくしは承知しないわ、フェリクス様なら分かって下さる!」

「大した自信だな、ルネ……可愛いものだ。その自信を粉々に砕いたお前は、どんな声で鳴くのであろうな?」


 笑う度に、男の太い首で喉仏が動くのが見える。身をよじるアンジェは拘束されたまま空中に持ち上げられ、魔物と同じ目線の高さになる。


「ルネ……お前がどれほど強がろうとも、お前は必ず余と共に来る」

「行かないわ!」


 アンジェが叫ぶと、髪飾りを取られて背に広がる赤い巻き毛が揺れた。マラキオンの手がその赤毛に触れ、アンジェの頬に触れ、親指で唇に触れる。甘い香りが口腔から侵入してくるようでアンジェは唇を引き結ぶが、顔を背けようとしても、髪を引っ張られて前を向かされた。痛みに呻く表情を金色の目がじっと見つめているのを感じ、全身が怖気だつ。


「来るのだよ、ルネ……」


 熱を含んだ囁きと共に、マラキオンの手がアンジェの肩を、腰を這う。


「凛子がお前を待っているのだ」

「──えっ?」

「共に来い、安藤祥子」


 思わず聞き返したアンジェの唇を、目を細めたマラキオンが悠々と塞いだ。




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