27-6 客人
「アンジェちゃん、困ったことや分からないことがあったら、フェリクスなど気にせずにいつでもお尋ねになってね、なんでも一から教えて差し上げてよ」
「人はそれぞれだもの、挟まない楽しみを極めるのも一つの道ですわね、アンジェリークさん」
「何ならお二人でわたくしたちの閨にいらしてもいいのよ、例えば今夜ですとか」
「あら、今夜は駄目よソフィー、貴女を独り占めするとお約束したでしょう」
「うふふ、ヴィー、そうでしたわ」
ソフィアとオリヴィアはそう言いながら手を取り合ってクスクスと笑ったが、アンジェは微笑んで礼をするのが精一杯だった。自分でもはっきりわかるほど全身が火照っていて、宝石の護符を身に着けていても鼻血が出るのではないかとずっと気が気ではなかったが何とか乗り切ることが出来た。アンジェは退室の礼をするとリリアンの手を取って急ぎ緞帳の外に出る。アンジェが大広間に出ると、直後にエリオットが脱兎のごとく飛び出してきて、続いてどこか惚けているフェリクス、ルナとルナにエスコートされたイザベラ、最後に沈んだ表情のクラウスが出てきた。
「セルヴェール様置いてかないでください! 俺あそこに残るとかマジ無理ッス」
「ははは、お子様には刺激が強すぎたかアンダーソン」
「いやお子様とかじゃなくて、王妃様と……大公夫人がアレとか、もう、マジ、当てられてヤバい」
「はっはっは、何がどうヤバいんだ少年ルナ様に説明してみろ、そこらへんの事情には明るいぞ? ん?」
「ほんと時々シュタインハルト先輩ウザくてぶん殴りたくなりますね」
「おうおう、上も下も血気盛んだな、受けて立つぞ思春期よ」
「そうやってすぐ下ネタ言うとこっスよ、まるきり中年のおっさんじゃないスか」
「ふふん、誉め言葉にしかならんな。どれそこで脱げ、ルナおじさんがお前の小僧をひんむいてやろう」
「ハァ!? 脱がないっすよアホなんですか!」
ルナは先日のライトニングダッシュの件でエリオットを気に入ったらしく、汗だくの少年をからかってニヤニヤと笑っている。傍らのイザベラはどこか険しい顔で俯いていたが、ルナの軽口を聞いていくうちに表情が少しずつ和らいでいった。
(イザベラ様……)
(本当に、どうなさったのかしら……)
「アンジェ様ぁ」
イザベラの様子を横目で見ていると、リリアンがアンジェの顔を覗き込んできた。気が付くと退室した時からずっとリリアンの手を握りっぱなしで、今も気を揉むのと共にかなり強く握りしめてしまっていたらしい。
「ごっ、ごめんなさい、痛かったかしら!?」
「それはいいんですけど、さっきの王妃様のお話、私、全然分からなくて……」
リリアンの紫の瞳は、何一つやましい心を宿しておらず、純粋に怪訝そうに、そして少しばかりの知的探求心を秘めて、じっとアンジェを見つめている。アンジェは愛しさだとかいじらしさだとか、壊してはいけないだとか抱き締めてしまいたいだとか、いろいろな感情がないまぜになって押し寄せて、ただただ顔を赤くしてリリアンを見つめ返すしかできない。
「………………リリアンさん」
「はい」
「わ、分からないというのは、その……」
「アンジェ。リリアンくん」
どこからが、とアンジェが言おうとしたのを、フェリクスの言葉が遮った。
「さっきは、その、母が……無神経なことを言ったね。申し訳ない」
「…………」
「僕からも謝ります。母が大変な失礼を、申し訳ない」
フェリクスとクラウスは揃って少女二人に向けて頭を下げた。アンジェとリリアンは顔を見合わせ、アンジェは未だ握ってしまっていたリリアンの手をそっと離す。その様子をじっと見つめるフェリクスの顔は未だに赤いが、二人を見つめる眼差しはどこまでも優しい。クラウスはどこか思い詰めたような表情だ。リリアンは真剣に首を傾げてアンジェを見上げている。
「……お二人とも、お顔をお上げになって」
アンジェは少しばかり険しさを残した顔で、顔を上げた異母兄弟をじっと見つめる。
「本当に、わたくしもリリアンさんも、突然あれこれと尋ねられて驚いてしまいましたわ。王妃殿下と大公夫人のお言葉では、やすやすと聞き返すわけにもいきませんもの……それなのにフェリクス様もアシュフォード先生も庇い立てしてくださいませんし……リリアンさんをお守りしたい一心でしたけれど、本当に気疲れいたしました」
「あ、アンジェ……ごめん……リリアンくんも……」
「セルヴェール、スウィート、二人とも申し訳ない、この通りです」
フェリクスとクラウスははきつい物言いのアンジェに同じような顔でたじろぐ。アンジェは驚いているリリアンを見つめてにこりと微笑むと、そのまま横目にフェリクスとクラウスを見る。
「ああ、なんだか小腹がすいて喉が渇きましたわ……そういえば、今日のフェリクス様の誕生祝賀会では、とても美味しい外国のお菓子もご用意されているのだとか……リリアンさんとご一緒にいただくのを、わたくしとても楽しみにしておりましたの。ねえ、リリアンさん、ご一緒に珍しいお菓子をいただけたらどんなにか素晴らしいでしょう! あら、ちょうどそろそろお茶の時間ではなくて、フェリクス様?」
「お茶だね、アンジェ!」
フェリクスはこれから戦場にでも行くかのような凛々しい顔になって、傍らの執事に茶会の席を用意するよう命じた。クラウスが安堵した表情でもう一度頭を下げ、リリアンは呆然としてアンジェの顔を見上げる。
「……アンジェ様」
「なあに?」
「アンジェ様、すごいです……怒ってるのに、喧嘩になってないです」
「……そんなに、驚くようなことでして?」
アンジェがきょとんとして聞き返すと、リリアンはしみじみ頷いた。
「私、駄目なんです、つい売り言葉に買い言葉というか……意地っ張りになっちゃって。リオとも喧嘩ばっかりです」
「……そうねえ……アンダーソンさんは、相手にも原因があるのではなくて……?」
「そっかあ……こうやればいいんだ……」
先日の試験後の二人のやり取りを思い出したアンジェは曖昧に笑うしかできない。リリアンは自分の顎に拳を当てながら、何やらひとしきりぶつぶつと呟いては頷いていた。
エリオットがルナに反論できなくなって半べそをかいた頃には、大広間のガーデンへと続くテラスに茶会の席の用意が整い、一同は恭しくそちらへ案内された。
「ぴゃあああああああ……!!!!!!!」
冬の午後の柔らかな日差しが差し込むテラス席には、ワゴンやケーキスタンドの上に色とりどりで形も目に楽しいケーキやお菓子たちが整然と並べられている。リリアンはしょぼくれて申し訳程度に自分をエスコートしていたエリオットの手を離すと、目をキラキラさせてテーブルへと駆け寄る。
「見て下さいアンジェ様! 見たことないお菓子がたくさん! 可愛いです!!!」
「本当ね、素晴らしい眺めですこと」
「気に入ってくれたかい、リリアンくん。近隣諸国からも使節団が来ていただいているから、彼らの祖国のお菓子をお出ししているんだよ」
「はあー……なるほどおー……どれも美味しそうですねえどれから食べよう……」
「好きなものを好きなだけ頂くといいよ、さあ、座ってお茶にしよう」
フェリクスの掛け声で一同は用意された円卓にそれぞれ腰掛けた。クラウスは辞退しようとしたがフェリクスがどうしてもと引き留めて彼の隣に座らされる。フェリクスを挟んでクラウスの反対側にはアンジェ、リリアン、エリオットと続き、クラウスの隣にはイザベラとルナが続く。円卓をぐるりと取り囲むとエリオットとルナが隣り合わせになることになり、哀れなエリオット少年はルナにニヤつかれてげんなりとため息をついた。給仕のメイドがめいめいのお菓子をとりわけ、温かな紅茶をカップに注ぐ。周囲は魔法ストーブが置かれていて寒くはないが、それでも紅茶から立ち上る温かな湯気は、どこかほっと心を和ませてくれた。
「なるほどお……これはアーモンドミルクを使ってるんですねえ……なるほどなるほどお……」
リリアンは次から次へとお菓子を食べては分析し、ぶつぶつと呟いては首を捻ったり頷いたり唸ったりしている。挙句の果てには執事から紙と鉛筆を分けてもらい、何やらこまごまとメモまで始める始末である。
「うわあ、すっごい独特な香り! 何のスパイスなんでしょう? ね、食べてみてください、アンジェ様」
「まあ、本当だわ」
今日の主役である十八歳の王子がテラスでお茶をしているとみて取るや、祝辞を述べに来る輩が次から次へと列をなし、フェリクスは微笑みながらもそれに応じていた。給仕たちが順に並ぶよう指示し、執事が一人ずつの時間と間の休憩をみながら案内しているのだが、どうしてもせわしなくなってしまう。
「ん~~~~、ピスタチオ……! ピスタチオが入ってました……! リオも食べてみてピスタチオ好きでしょ」
「おう」
大抵の者は名前を名乗り、祝辞を述べ、フェリクスがアンジェとリリアンを褒めちぎるのを満面の愛想笑いで聞いた後、テーブルの一同を褒め称えた。クラウスを当たり障りなく持ち上げ、隣のイザベラの段になると、途端に目の色が変わる。
「イザベラ王女殿下、噂に違わぬお美しさに目がくらんでしまいそうです」
「フェアウェル王家に特有の緑の瞳が、実に聡明に輝いていらっしゃいますな」
「どうですか、この後、ご一緒に一曲踊っていただける栄光を、私めに与えては下さいませんか」
目の色を変えるのは大抵が若い男だ。背筋をぴしりと伸ばしたイザベラは、扇子で口許を隠しつつもにっこりと微笑む。
「お誘いありがとう存じます、ロージャー卿。ですが生憎と連れがおりますのよ」
それを言われる度に、ルナが取り澄ましてふふんと鼻を鳴らして見せ、イザベラがこれ見よがしにじっとルナを見上げる。そうすると大抵の者はたじろいで頬を染め、適当なことを口走った後に、すごすごとその場を離れるのだった。
(イザベラ様、大人気だわ……)
(虫よけがいる、というのがよく分かるもの……)
王女イザベラは、次の誕生日で十七歳となる今でもまだ誰とも婚約していなかった。フェリクスが幼いころに早々とアンジェと婚約したのとは対照的だ。婚約していないということは求婚すればそれが承諾されるチャンスがあるということで、イザベラは国内の名門貴族、隣国の王子や大貴族など、ありとあらゆる貴公子から求婚されている。そのなかのどれを選ぶのか、はたまた全く思いがけない者を候補に挙げるのか。国王やイザベラの両親が話し合い決めるべきことではあるが、誰がイザベラの夫となるのかは国民の最大の関心ごとの一つであった。
(イザベラ様……)
婚約の意志について、イザベラ自身の意見が反映されるかどうかは分からない。相手によっては、フェリクスとアンジェ以上に繊細なバランス感覚が求められることもあるだろう。
(それにしても、今日のイザベラ様はなんだかおかしいわ……)
(お元気がないように思えるのだけれど……)
あの応接室で大公夫人に挨拶してからというもの、イザベラは口数が少なかった。先ほどだって、アンジェに代わって真っ先にフェリクスとクラウスを説教しそうなものだが、イザベラは押し黙ってこちらを見ているだけで誰にも何も言おうとはしていなかった。
(ルナも、少しだけ、様子がおかしかったし……)
(会が終わったら、人目を気にしなくてよいところで話を聞いてみましょう)
リリアンのお菓子の解説を聞き流しつつ、アンジェはお茶を一口含んだ。横目にフェリクスと、彼に挨拶をするべくやって来た相手をまじまじとみる。それは頭に華やかな模様の布をぐるぐると巻きつけた、異国情緒あふれる一団だった。
「フェリクス王太子殿下、この度はお誕生日誠におめでとうございます。デーセル王国のラギオンと申します」
「ありがとう、ラギオン、お会いできて光栄だ」
フェリクスは完璧な微笑みを浮かべ、膝の上で手を組んで見せる。ここまでの流れはもはや定型句と言ってもいいだろう。先の疲れだろうか、変化のない繰り返しに、なんだか頭の芯が痺れて眠いような心地になってきた。アンジェは口は開かずに深呼吸して、あくびをしたい欲求を堪える。
「フェアウェル王国には、王子だけでなく王女もいらしたのですね。フェリクス殿下によく似て美しい姫だ。私と一緒に踊っていただけますか?」
「ありがとう存じます、ですが生憎と連れがおりますのよ」
「やあ、それは残念ですな」
にこりと微笑んで見せたイザベラに、しかして使者は特に深追いもせずに肩をすくめると、アンジェの方に向き直った。
「おや、こちらにも美しい姫がおるではないか──」
明るい茶色だった瞳がぎらりと金色に光り、その虹彩が円から蛇のような縦長のものに変わる。
「余はこちらの姫をいただくとしよう。構わぬな、王子よ」
「……えっ?」
アンジェは目を見開いた。使者は笑いながら頭のターバンを取る。濃い紫色の髪がばさりとあたりに広がる。はだけた胸元から見える褐色の胸板。覗き込むと眩暈がするような眼差し、耳の奥まで舐られているような淫靡な声──
「ああ、是非ともそうしてくれたまえ……」
フェリクスの瞳の焦点が定まっていない、王子はろれつの回らない口調でそう言ったかと思うと、ばたりとその場に昏倒した。見ればテーブルに座している者も、執事もメイドも、並んでいる使節団も、皆ぐったりと倒れ伏し眠りこけてしまっている。
「迎えに来たぞルネ、余の愛し子よ──!」
「……お前は……マラキオン!!!」
アンジェの声は、両手を大きく広げて見せた男の哄笑にかき消された。
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