27-5 貴婦人二人
誰も何も発することのできない沈黙を、緞帳の向こうの慌ただしい気配が打ち破った。
「こっ、国王陛下と、王妃殿下のお出ましですっ」
その場にいる全員が振り向くのと、緞帳が引き上げられるのと、それを待ち切れずに部屋の中に大柄な国王ヴィクトルと、彼にエスコートされた王妃ソフィアが入室してくるのはほぼ同時だった。二人とも、緑色の生地に華やかな金糸の刺繍をした礼服を身に纏っている。
「失礼、オリヴィアとクラウスが来ていると聞いたのだが……」
ヴィクトルとクラウス親子を遮る位置に立っていたイザベラがさっと脇に避ける。アンジェはフェリクスを押し退けて飛び上がり、フェリクスは少し寂しそうに頭をかき、アンジェはわたわたしているリリアンも引っ張り上げて自分とリリアンの服の裾を整える。ルナは壁際に引きながら胸に手を当てる武人の礼をして、慌てふためいたエリオットも貴族の礼をしつつその横に並び、クラウスは母の手を取り、大公夫人オリヴィアはゆっくりとその場に立ち上がった。
「おお、オリヴィア、クラウス。息災だな」
大人の男の、深い厚みを持った声が応接室に響く。
「国王陛下──」
オリヴィアの柔らかな声がそれに応える。国王ヴィクトルは、妻そして息子と同じ緑の瞳を愛しげに細めて頷きかける。その傍らに侍っている王妃ソフィアは、夫の顔を見上げ、そっとその袖を引いた。
「……よろしいかしら?」
ヴィクトルは王妃を見て、愛妾を見て、蕩けそうな顔で頷いてみせた。ソフィアは少女のように顔を輝かせるとヴィクトルの手を放し、クラウスとオリヴィアの方へと足早に歩み寄る──
「ヴィー! お待ちしておりましたわ!」
小柄な王妃は瞳を潤ませながらオリヴィアに手を差し伸べ、そのまま、リリアンがアンジェによくやるように、ぽふりと抱きついてその豊穣に顔をうずめた。
「あらあらソフィー、甘えん坊ね、皆様の前よ」
「貴女にお逢いできる日を、わたくしどれほど待ち望んでいたことでしょう、あと何日かを指折り数えて待ち遠しくて、夜もろくに眠れませんでしたわ……今日も変わらずたおやかで美しいこと、その柔らかな手でわたくしのことをしっかり捕まえていらしてね」
「ええ、そうね、可愛いソフィー、今日はもう離しませんことよ」
「ヴィー……」
オリヴィアは微笑みながらソフィアの頬に触れ、その瞳を覗き込むようにした。ソフィアの頬が赤く染まり、瞳が潤み、二人の顔が吸い寄せられるように近づいていく──
「これこれ、二人とも。それくらいにしておきなさい」
あと少しでソフィアの桜の花びらのような唇とオリヴィアの肉感ある艶めかしい唇が触れるかという時、これ以上蕩けたら溶け崩れてしまうのかというくらいデレデレした国王が、全く持って止めたくなさそうな声音で二人を引き留めた。
「あん……ヴィー……」
「ソフィー、駄目よ、可愛い子」
「……国王陛下。ならびに王妃殿下」
二人がまた熱を含んで視線を交わしたあたりで、クラウスが何食わぬ顔で口を開く。
「本日はフェリクス王子殿下の誕生祝賀会、誠におめでとうございます」
ソフィアが不服そうに唇を尖らせたが、オリヴィアはクスクスと笑いながらゆっくりと身体を離す。
「ご無礼を承知で、王子殿下のお心遣いにより参内申し上げました。王子殿下の健やかなご成長を心よりお祝い申し上げます」
「……ああ、クラウス」
ヴィクトルはクラウスの声で我に返り、誤魔化すように口元を手で覆い、あごひげを撫でた。
「息災であるか。アカデミーでの様子、フェリクスから聞いているぞ」
「王子殿下はいつも僕を慮って下さり、誠に広く深い博愛の心をお持ちでいらっしゃいます。御身の後継となりフェアウェル国王となられた暁には、陛下から二代続く名君として歴史に名を刻むことになるでしょう」
「兄上……そんな、僕などまだまだです」
「殿下が人知れず誰よりも努力なさっているのを、僕は知っていますよ」
「兄上……!」
フェリクスは感激に身を震わせると父王の傍に歩み寄り、クラウスからのプレゼントにどれほど自分が感銘を受けたかを雄弁に語り始めた。体格こそ違えど、緑の瞳をうっとりと細め、頬がほんのりと上気する様は、先ほどの母后によく似ている。
「あ……アンジェ様……? アシュフォ―ド先生のお母様は、国王様の……あれ……?」
アンジェの横に立つリリアンが、困惑した顔でアンジェの服の袖を引いて囁いてきた。アンジェは事情を理解しているがこの場で何と説明したものかと、リリアンと似たような顔をすることしかできない。
「リリアンさん、後でご説明して差し上げますから……頑張ってお察しになって……」
「は、はい……」
少し離れたところでは、ルナとエリオットも似たようなやりとりをしている。エリオットの顔はみるみる赤くなり、この世のなにもかも信頼できないと言いたげな不審な目線でルナを見上げ、ルナは暗殺者でなければ見逃してしまうような恐ろしく速い手刀で少年の頭をずばしと叩き、少年は涙目で呻いた。少し離れたところに一人立つイザベラは、扇子で目以外のほとんどを覆い隠して俯いている。
(……なぜかしら、先ほどからイザベラ様のご様子、なにか違和感があるような……)
「アンジェ、リリアンくん。二人ともこちらにおいで、一緒に話そう」
「……はい、フェリクス様」
「……ひゃい……」
フェリクスの呼びかけにアンジェは平静を取り繕って微笑んで見せたが、リリアンはトラ猫が宇宙の深淵について思いを巡らせているかのような顔で返事をする。二人が互いに顔を見合わせ、ほんの数歩の距離を歩いてくるのを、部屋の中にいる全員がしげしげと見守った。
「あらあら、まあまあ、何て可愛らしいお二人なんでしょう」
オリヴィアが両手を自分の胸の前で握りしめてニコニコと微笑むと、ソフィアがそうでしょう、と嬉しそうにその腕にしなだれかかる。
「ヴィーは、アンジェちゃんにはお会いしたことがあるでしょう?」
「ええ、何度か王子殿下とご一緒のところをご挨拶させていただいてよ。少し見ない間にお美しい御令嬢になられましたこと」
「そうでしょう、そうでしょう、それでね、こちらの可愛らしいストロベリーブロンドのリリアンちゃんが、かのセレネス・シャイアンなのですわ」
「まあ……こんなに可愛らしくて、虫の一匹殺すどころか、お花摘みにも行かなそうなお顔をなさっているのに?」
「そうなの、本当に可愛らしいの……」
二人は見つめ合い指先を絡ませ頬を寄せ、見ている側が赤面しても釣りがくるほど親密に寄り添う。
「ソフィア。オリヴィア。いたいけな少女の前であまり過激な振る舞いをしてくれるな、戸惑っているではないか」
国王ヴィクトルがまたしてもデレデレしながら咎めると、王妃ソフィアがどこか強気に微笑み、オリヴィアの肩に自分の頭を乗せる。
「あら、ヴィクトル、フェリクスが挟まるって言い出したから良いのかと思ったのに」
「駄目だ、婚約はいずれ余の思うようにまとめる」
「もう……つまらないことを仰って……ねえ、ヴィー? どちらかに決めなければいけないなんて堅苦しいだけだと思いませんこと?」
「そうねえ……二人とも可愛いのだもの、二人揃っていた方が良いに決まっていましてよ」
クスクスクスと笑い合う二人に、ヴィクトルは形ばかり困って見せるものの、まったくもって止める気はないようだった。
(大公夫人が、もとは王妃様の侍女だったとは聞いたことがあったけれど……)
(こんな……こんな、雰囲気だったかしら……!?)
アンジェは微笑みつつ混乱しつつ必死に考える。リリアンはアンジェの隣でまだ宇宙トラ猫の顔をしていて、フェリクスは何も変なことは起こっていないとばかりの平静な表情、クラウスは少し目つきが険しい。ルナは武人の立ち方をしつつ肩を震わせていて、エリオットはもう取り繕う気はないらしくあんぐりと口を開けて妙齢の貴婦人二人を凝視している。イザベラはソフィアとオリヴィアを睨むように見つめているが、詳細な表情は扇子の下に隠れて見えなかった。
(イザベラ様……?)
「ねえ、ねえ、アンジェちゃん、聞いても良いかしら?」
「はい、王妃殿下、わたくしにお答えできることでしたら何なりと」
「こちらにいらして……」
王妃はニコニコしながらアンジェを手招きすると、アンジェの耳元に唇を寄せる。
「アンジェちゃんとリリアンちゃん、どちらがどちらなの?」
ひそひそとした囁き声は耳朶にくすぐったい。
「どちら……とは、何のお話でございますか?」
「あら」
ソフィアは驚いたようにアンジェから顔を離し、オリヴィアの方を見上げる。
「……教えてくれなかったわ」
「まだなのかもしれなくてよ、ソフィー」
「そんな、そんなことがおあり? アンジェちゃん、だって、リリアンちゃんと良い仲なのでしょう?」
「よっ……!」
さも当然と言わんばかりに尋ねられ、アンジェは言葉に詰まった。
「よっ、よっ……良い、お友達で、スカラバディではありますわ……!」
「あらあら、まあまあ、本当にまだなの? フェリクスが挟まるなんて言うから、わたくしてっきりもうそういう仲なのかと思っていましたわ」
「確かに……わたくしはお慕い申し上げていますが……その、……わたくしたち、良いお友達です……」
「まあまあまあまあ、可愛らしいこと、真っ赤になって……! ご覧になってヴィー、初々しいわ」
アンジェは顔がどんどん赤くなるのに耐えきれずに、ハンカチを手に握りつつ両手で顔を隠した。リリアンが横できょとんとしていて、フェリクスとヴィクトルが二人して眩しそうに天を仰いでいて、後の面々は震えたりげんなりしたり呆れたりしているだろうが確認したくもない。
「アンジェちゃん、だったら尚のこと、フェリクスの申し出が一番だと思いますのよ、ね、ヴィー」
「そうねえ……」
「な、何のお話ですの」
「何のって……」
ソフィアとオリヴィアはふふふと笑い、互いの瞳の奥を愛し気に見つめる。
「殿方も、時には必要でしょう……?」
「そうね、わたくしたちにはない素晴らしいものをお持ちなのだもの」
「アンジェちゃん、さすがにフェリクスともまだということはないでしょう?」
「陛下のご子息なのだから……ねえ? きっと、素敵なのではなくて?」
二人から匂い立つような円熟した雰囲気が、頭の芯まで痺れさせるような気がする。視界の隅でルナがうずくまったのが目に入った。フェリクスが顔を真っ赤にしつつどこか嬉しそうにニコニコとしている。リリアンは本当に分からないようで真剣に首を傾げている。二人が言っていることは、祥子の経験があるから大体は推測で分かる。だがそれを分かると言ってしまうと、何かに負けてしまうような気がする。
「わ、わ、わたくしたちの間には……どなたも、必要ありませんわっ!」
公爵令嬢アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールは、そう叫ぶのが精いっぱいだった。
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