25-5 対話 リリアン


「リリアンさん!?」

「リリアンくん!?」


 アンジェとフェリクスは互いに顔を見合わせ、どちらにともなくリリアンへと駆け寄った。リリアンが転んだのは雪かきした土まじりの雪山のところで、手で支えようとしたものの勢いは止まらずに見事に顔面から突っ込んだようだった。ようやっと立ち上がったリリアンは、コート、手袋、顔面が雪泥まみれになってしまっている。


「リリアンさん、大丈夫ですの!?」


 アンジェは泥だらけのリリアンの惨状に呆然とするが、すぐに我に返ると手袋を外し、うさぎ刺繍のハンカチでリリアンの顔を拭ってやった。フェリクスがアンジェが放り出した通学鞄と傘、同じくリリアンの鞄と傘を拾い上げ、ついた泥を払ってやっている。


「雪道をあんな風に走ったら危なくてよ……しかもリリアンさん、貴女、普通のブーツじゃない! 雪用をお持ちでないならすぐにでも贈らせていただきますわ、制服の替えは……ああ、ひとまずお部屋に戻って着替えませんと……」

「…………」


 リリアンは悔しそうな顔で俯いてブルブル震えている。アンジェのうさぎハンカチはすぐにドロドロになってしまい、フェリクスが差し出した彼のハンカチも使って、ようやく顔の泥を全て拭き取ることができた。


「手袋もこんなで……お怪我はありませんこと? ひとまず外してしまいましょう、寮まで少しですからコートもお脱ぎになって」

「…………」


 されるがままに手袋を外され、コートを脱がされ、リリアンは不貞腐れたような顔で俯いたまま何も言わない。アンジェはコートは泥がついた方が内側になるように畳み、手袋は指先でつまむようにして持ち、空いている右手をリリアンに向かって差し出した。


「さ、行きましょう、リリアンさん」


 リリアンはようやっと顔を上げると、アンジェが心配極まりない顔で自分をじっと見ているのを見て、何か言葉に詰まったようだった。怒るとも悔しがるともつかないしかめ面になり、それからそろそろと手を差し出して来る。あと少しでアンジェに触れるかというところでぴたりと止まると、開いていた手をぐっと握りしめる。


「……カッコ悪いなあ、私」

「え?」


 聞き返したアンジェから視線をそらして俯くと、リリアンは自分のコートと手袋をアンジェの手から強引に奪った。傍らで心配そう──というにはやや嬉しそうに様子を見守っていたフェリクスに向き直ると、鞄と傘を受け取ってぺこりと頭を下げる。


「殿下、ありがとうございました。お手間おかけしてごめんなさい」

「いいんだよ、リリアンくん。怪我はないかい」

「はい、ないです。……では、着替えますので、これで」

「ああ、綺麗にしておいで」


 リリアンはもう一度頭を下げると、アンジェのほうをちらりと見る。二人の目線がぴたりと重なったことをたっぷり数秒かけて確かめると、ため息とともに視線を逸らし、そのままもと来たノーブルローズ寮に向けて駆け出し──またしてもべしゃりと転んだ。


「リリアンさん!」

「──もうっ!」


 リリアンはがばりと起き上がると、またしても駆け寄ったアンジェの手を振り払う。先ほどに比べて顔面が無事だったのがまだ救いといった風情か。


「リリアンさん、石畳が凍っているから危ないわ、わたくしと手を」

「ついて来ないでくださいっ!!!!!!」


 リリアンは叫び、今度は走らずにのっしのっしと勇ましくも安定した足取りで寮へと戻って行ってしまった。正面入り口の扉が開き、その中にリリアンが入る。アンジェはその場に呆然と立ち尽くして、扉がゆっくりと閉じるさまを食い入るように見つめるしかできない。


「……アンジェ」


 フェリクスがアンジェに近寄り、自分の傘にアンジェを入れる。アンジェはフェリクスの腕のあたりを押すが、それはあまりにも力なく、フェリクスは動くどころかふらつきもしなかった。


「リリアンさん……どうなさったの……?」


 アンジェは震える声で呟く。

 同じ場所で手を差し伸べ、柔らかに触れてくれたのは、つい昨日の夜だというのに。


「……アンジェ」

「わたくし……何か、してしまったのかしら……?」


 フェリクスが見つめる先で、青い瞳からぼたぼたと大粒の涙が流れ落ちたのだった。




*  *  *  *  *




 アンジェはそれからすぐに踵を返して御者控室に向かい、祈るようにセルヴェール家の馬車の御者を探した。王宮から直接登校するなど滅多にあることではないが、もしかするといつものように制服の替えなどを持って来てくれているかもしれないと思い当たったのだ。案の定なのか祈りが通じたのか、見慣れた初老の御者の姿を見つけると、すぐさま制服の替え、予備のコートと雪用ブーツ、手袋をもってノーブルローズ寮へと引き返す。フェリクスはずっとアンジェに付き添っていたが、引き返し始めたあたりで予鈴が鳴り、アンジェに促されて実に渋々と自分のクラスルームへと向かった。


 ノーブルローズ寮の正面入り口から入寮するとすぐ右手に受付がある。そこにいた受付係にリリアンはもう一度登校したかを尋ねると、一度戻ってからは見かけていないとの回答だった。部屋まで行くか迷ったが、湯浴みをしていてすれ違うかもしれないと思い、受付とは反対側の待合スペースのソファに腰掛けた。遠くの方で本鈴が鳴っているのが聞こえる。館内の調度はフェアウェルローズカラーのえんじ色で統一されているが、古い建物だからなのか、あるいはろうそくや魔法ランプを節約しているからなのか、どこか薄暗くひんやりとしているように感じた。


 あまりにも館内に物音がせず、受付係が何かの帳簿をめくったり、どこかに書きつけたりする音までもはっきりと聞こえた。なので階上の方からぱたぱたと誰かが降りてくる足音は、それこそ待ち切れないほどにアンジェの耳に響き、指先が希望にチリチリと疼いた。やがて館内奥側の階段へと続く廊下から現れたのは、フェアウェルローズ指定のジャージを着たリリアンだった。


「……リリアンさん」

「……アンジェ様!?」


 立ち上がって声をかけたアンジェに、リリアンはびくりとして飛び上がる。咄嗟にあたりを見回し、他に人が──フェリクスがいないかと探したようだが、待合室にはアンジェしかいない。それを見て安堵したのか、少女がため息を漏らしたのを見て、アンジェはリリアンに近寄った。


「あの……制服の替えと、コートと手袋と、雪用ブーツをお持ちしましたの。わたくしの物なのでリリアンさんとはサイズが合わないかもしれないですけれど……」

「…………」


 リリアンはアンジェが手に抱えている布の袋をちらりと見る。


「……アンジェ様のですか?」

「ええ、そうよ」

「今日は、お城からいらしたんじゃなかったんですか」


 淡々と尋ねたリリアンにアンジェは一瞬息が詰まるが、親指の爪を人差し指に食い込ませながら平静を装う。


「ええ、そうよ。どうしてご存知なの?」

「……毎朝、スズメが教えてくれます。お二人が着いたよって。今日はご一緒のご到着だったみたいだから……」

「まあ、スズメが?」

「……監視とか、そういうつもりじゃなくて……私が毎朝楽しみにしてるのを、その子が覚えちゃったみたいで。まあ、いいかなって、聞いてました」

「そう……セルヴェール家の馬車が来てくれていたので、備え付けの予備を持って来ましたのよ」

「……そうでしたか」


 曖昧に微笑んだアンジェを見て、リリアンは顔をしかめて口をつぐんだ。王宮からフェリクスと一緒に登校した、つまりフェリクスと共に一夜を過ごしたことをリリアンは知っていたのだ。フェリクスと何をどこまで致しているのかをリリアンに話したことはないが、全くの子供というわけでもないのだ、ある程度の想像はついているだろう。アンジェは今すぐ言い訳をまくし立てたくて堪らなくなったが、リリアンの横顔を見ると、言葉など何の意味も持たないように思えてくる。


「……お着替えはなさる? 雪用ブーツだけでもお使いになった方がよろしくてよ」

「制服と、コートと、ブーツでしたっけ」

「ええ、あと手袋も」

「じゃあ、コートとブーツだけお借りしても良いですか」

「勿論よ」


 アンジェは布袋からコートと雪用ブーツを取り出した。リリアンは待合室の椅子に腰かけて靴を履き替え、コートに身を包む。どちらもリリアンにはやや大きすぎるようだが、ジャージだけの先ほどよりは随分暖かそうになった。


「ありがとうございます。明日お返しします」


 リリアンがブーツを部屋に置いて来るのを待ち、ノーブルローズ寮を出発する。先ほどは学生がひっきりなしにアカデミーの校舎を目指して歩いていた通りは、今は誰もいなかった。空は曇天だが雪は降っていない。その代わり、積もった雪や雪かき後の雪山がじわりと融けて、きわめて滑りやすい状態を作り出しているのが見て取れる。


「……行きましょう、リリアンさん」

「はい」


 雪用ブーツとはいえ用心して歩かないと危険だ。リリアンは先ほどを思い出したのか、たった数段の寮の階段を手すりにつかまりながら降りた。


「大丈夫ですの?」

「だ……いじょうぶですっ」

「……さあ、お捕まりになって」


 アンジェがリリアンに向けて手を差し出すと、リリアンはとても驚いた様子でぴゃっと声が漏れた。


「……アンジェ様、……わざとですか?」

「わざと? 何がですの?」

「…………」


 リリアンは答えない。アンジェを見て、差し出されたアンジェの手を見て、口をへの字に曲げて俯く。


「……リリアンさん?」


 アンジェのコートを着たリリアンが、むくれた顔のまま、耳のあたりが赤くなる。


「アンジェ様の意地悪……」

「えっ?」


 アンジェは首を傾げたがリリアンは答えず、アンジェの手をそっと握った。二人は静まり返った校内を横に並んで歩き出す。二人とも手袋をしていないから、ひんやりと冷たい互いの手。紫の瞳が横目にアンジェを見上げる。何か言いたそうな、だが教えるつもりはないような、そんな何かを含んでいるような気がする眼差し。きらきらとしていて、可愛らしくて、見ているだけで頭の芯が痺れていくよう──どちらも何も話さないうちに、ノーブルローズ寮からアカデミー本館までの道のりは終わってしまった。クラス棟にさしかかって分かれる直前、リリアンは鞄から交換日記を取り出し、無言でアンジェに渡してきた。


「ありがとう、リリアンさん」


 静まり返った校内の遠くから、各教室の授業の声が聞こえてくる。アンジェは出来るだけ小さな囁き声で礼を言うと、リリアンはぷいとそっぽを向き、そのまま自分のクラスルームのほうへと歩いて行ってしまった。アンジェは一人廊下に残され、渡されたばかりの交換日記を入れたリネンの袋を見る。鍵付きは相変わらずだが、リリアンと二人で選んだ水色の表紙のものだ。


 今日のリリアンは、何かおかしい。けれどその理由が分かるようで分からない。


「……何なのかしら……」


 アンジェは首を傾げながら交換日記の袋を通学鞄にしまい、自分のクラスルームへと向かったのだった。


 

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