25-4 対話 フェリクスあるいはリリアン
アンジェがノートにあれやこれや書きつけては首を捻ったりしている傍らで、侍女も暖炉に火を焚べ、朝食の支度やら、執務机の備品の補充やら、洗濯とアイロンを終えたアンジェの制服の用意やら、それからバスタブを持ち込んで湯浴みの準備やらと細々と動き回っていた。窓の外がすっかり明るくなり、バスタブに魔法で湯を沸かして心地良さそうな湯気が立ち昇った頃、フェリクスが真冬だというのに汗だくになって帰って来た。その頃にはテーブルは暖かな朝食が二人分完璧にセットされ、フードカバーをかけられていた。
「お帰りなさいませ、殿下。私はお時間まで下がらせていただきますので、何かありましたらお呼びください」
「ああ、ありがとう、アンナ」
フェリクスに向けて完璧な礼をして見せた侍女は、フェリクスの執務机の椅子から立ち上がっていたアンジェの方を向き、にこりと微笑む。
「セルヴェール様、殿下のお世話をお願いしてよろしいでしょうか」
「お世話?」
「お茶ですとか……まあ、いろいろと。お召し物などは私が後で取りに行きますので、そのままに。よろしくお願い申し上げます」
侍女はニコニコしながらアンジェにも頭を下げ、足取り軽く部屋を退出していった。フェリクスは汗だくになった木綿の服を粗雑に脱ぎ捨てると、温かな湯が満ちたバスタブにじゃぼんと浸かる。
「ああ……この時間が最高に素晴らしいと毎朝思うんだ。君もおいで、手足が温まるよ」
「女の湯浴みは時間も手間もかかりますのよ。今からでは登校に間に合いませんわ」
「それもそうか。じゃあここに腰掛けて、足先だけでも浸すといい。君の手も足もいつも驚くほど冷たいじゃないか」
「まあ、よろしいの? 冬はどうしても冷えますの」
侍女が湯浴みの支度をしていた時から温かい湯に触れたくてたまらなかったアンジェは、寝間着をたくし上げてバスタブのへりに腰掛け、いそいそとつま先を湯船の中に差し入れた。初めは針を刺すような痛みを伴ったが、徐々に馴染み、やがて熱が足先から全身へと広がっていく。
「ああ、温かいですわ」
「よかった」
フェリクスは自分の肩あたりのへりに腰掛けたアンジェを見上げてニコニコと微笑んでいる。足先がフェリクスの腕に触れ、アンジェは咄嗟に離れようとしたが、フェリクスの手はアンジェのふくらはぎのあたりを優しく撫で──そのまま、足首を掴むと、一気にアンジェを湯の中に引き入れた。
「きゃあっ!?」
寝間着のままバスタブに落ちたアンジェをフェリクスが受け止め、クスクスと笑っている。
「ちょっと……もう、フェリクス様! 悪戯が過ぎますわ!」
「ごめん」
「寝間着が台無しですわ、びしょびしょどころではなくてよ!」
「どうせもう着替えるだけだろう」
「せめて髪を結わせてくださいまし!」
「あはは、いいよ、手伝おうか」
「大丈夫ですわ!」
ばしゃばしゃともがきながら大騒ぎするアンジェを、フェリクスは笑いながら胸の上に抱き寄せた。温かい風呂の中で怒り続けるのはなかなか難しい。結局フェリクスの思うようにアンジェは愛されて、ぬるくなった湯の中で寝間着を脱ぎ捨てる羽目になった。
(どうして……)
(どうしてこうなるの、フェリクス様……)
「ほら、しっかり拭くよアンジェ、風邪をひいたら大変だ」
ふかふかのタオルでフェリクスに身体の水滴を拭われながら、アンジェは毒づかずにいられなかった。
二人とも制服に着替え、朝食をやや急いで食べ終えた頃、侍女が再びやってきた。侍女はさりげなく室内を見まわしてアンジェの寝間着が水没しているのを発見すると、一瞬だけにんまりと笑ってしまったのをアンジェは見逃さなかった。妹のように可愛がってくれてきた侍女だからこそ、新年会の顛末を聞いて思い詰めていたのだ。昨夜から今日にかけて、なし崩し的に互いへの想いが復活したらと、あれこれと配慮していたのだろう。
「お世話になりました、アンナさん」
「セルヴェール様、またいつでもいらしてくださいまし。アンナはお待ち申し上げております」
フェリクスのエスコートで自室を出ようとする二人を眺め、侍女は深々と、だが嬉しそうに礼をして見せたのだった。
* * * * *
昨夜から今朝にかけて降り積もった雪は、いつにもまして寒さを倍増させる。アンジェは昨日と同じ服装なので雪用ブーツを持っておらず、またしてもイザベラの予備を借りることになったが、足のサイズが合わずに断念した。代わりにと持って来られたのは、持ち主がもはや不明だという古びた雪用ブーツだったが、アンジェの足にぴったりの大きさだった。
雪降りしきるノーブルローズ寮の正門。寮の入口から次々と生徒が現れては、寒さに驚き、積もった雪に驚き、自分たちが歩くところは既に雪かきがされて石畳が露出していることに安堵する。アンジェとフェリクスはそれぞれ一本ずつ傘を差し、寮から出てくる生徒の一人一人をじっと見ている。
「アンジェ……」
「なんでしょう、フェリクス様」
「やはり、傘は一本にしよう。こちらにおいで。体が冷えてしまうよ」
「嫌ですわ。リリアンさんに見られたくありませんの」
アンジェはにっこり微笑みつつもきっぱりとそう言った。やはり人の目がある場所だと拒絶しやすいしフェリクスも深追いはしてこない。傘を一人一本で差して並ぶと当然できる、一人分ほどの隙間ですら、フェリクスは嫌がっていたのだ。
「アンジェ……僕はさみしい……」
「今朝がたあれだけのことをなさって、まだそのように仰いますの?」
「だが……」
「リリアンさんとわたくしを平等に愛するのでしょう。平等に、等しく距離をお取りなさいませ」
「リリアンくんが来るまでは君を愛でたっていいじゃないか」
「わたくし、未だにそれが二股や浮気にならない理由が一向に分かりませんわ。平等に愛してくださるならわたくしたちから適切な距離を取る、それしかないでしょう……あら」
アンジェの視線の先、寮の入口のドアから、見慣れたストロベリーブロンドが揺れるのが見えた。いつかと同じように毛糸の帽子を被り、自分の傘を開きながらきょろきょろしている。
「リリアンさん」
アンジェが声をかけると、リリアンはこちらのほうをぱっと振り向いた。紫色の瞳が少し離れたところのアンジェとフェリクスをじっと見つけると、僅かばかり大きく目を見開く。
「……殿下、アンジェ様。おはようございます」
「おはようございます、リリアンさん」
「おはよう、リリアンくん、今日も元気だね」
「…………」
【──おやすみなさい、アンジェ様】
あの声と感触は、本当に昨日の出来事だったのだろうか? 少しだけ開いて、真珠のような白い歯が少しだけ覗いているあの唇が、本当にわたくしに触れたのだろうか? 考えただけでアンジェは自分の顔が赤く染まっていくのが分かる。リリアンはゆっくりとこちらに歩み寄りながら、アンジェが自分をじっと見つめているのを見返している。笑うでもなく、怒るのでもなく、探るような顔。あるいはその人の顔を見ながら、何か考えている顔。やがてリリアンはしかめ面になると、深々とため息をついた。それは悲しいとは少し違う、何かを諦めた時の音だ、とアンジェは思った。
「……ちょっと離れればいい、とか……」
リリアンはアンジェにも聞こえるか聞こえないか程の小さな声で呟く。
通学鞄と一緒に胸の抱えていたのは、もう一本の傘だ。
「……こうすれば、怒らないだろうとか……」
「……リリアンさん?」
どうなさったの。アンジェが尋ねようとしたその時、リリアンはぐすりと鼻を啜り、涙を浮かべた瞳でキッとアンジェを睨み上げた。
「そんな、小手先で、どうにかなると思わないでくださいっ!」
言うが早いか、手にしていた傘をアンジェの手に押し付けると、そのままぱたぱたと走って行ってしまう。数メートル離れたあたりでべしゃりと雪の中に盛大に転び、アンジェとフェリクスはギョッとする。
「リリアンさん!?」
「リリアンくん!?」
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