25-3 それぞれの対話 フェリクス③
キスとその先をめぐるアンジェとフェリクスの攻防は永遠に続くかと思われたが、フェリクスの侍女が扉をノックした音が終了の合図となった。
「…………」
フェリクスは残念極まりないといった風情でため息をつく。それを見たアンジェが腕の力を抜いた瞬間、フェリクスがアンジェを抱き寄せて熱烈に口づけた。アンジェは抵抗するが形ばかりで、王子の手が、舌が自分をまさぐるままに身を預けてしまう。じんと痺れる脳の片隅で、フェリクスと対峙した時のことを──マラキオンに襲われた時のことを思い出す。実体などないに等しい、他の人には見ることもできない靄なのに、全身を這いまわったおぞましい感触。あれは現実だったのだろうか、それともそういう幻覚を見せられていたのだろうか。疑念が、思考が、フェリクスの手の中でゆっくりと溶けていくような気がする……。
「……愛しているよ、アンジェ。どんな時も」
名残惜しげに離れた唇で囁き、フェリクスは悪戯っぽく微笑む。触れてくれるなと自分から言い出したものの、フェリクスに触れられても少しばかりも不快にはならない。
「もう、フェリクス様。……意地悪をなさらないで」
フェリクスは返事はせずに笑い声をあげると、アンジェと自分の鼻をこすり合わせ、もう一度キスしてから布団を出た。
「アンナ、待たせたね」
「失礼いたします」
アンジェはなんとなく布団の中で寝間着を整え布団を被り直す。魔法ランプをもって入ってきた侍女はフェリクスを、フェリクスの身体の痣を見るなり小さく悲鳴を上げたが、深くは追及せずにぴしりとアイロンがけされた制服をコート掛けにかけ、木綿の素朴な部屋着のようなものをフェリクスに手渡した。フェリクスは侍女の手は借りずに自分で着替える。アンジェが見つめている痣だらけの背中が、生成りの生地で包み隠される。
「アンジェ。僕は近衛兵と朝の稽古に行ってくるからね」
着替えを終えたフェリクスは、自分のことをずっと凝視し続けていた暫定恋人のところに戻り、微笑みながらゆっくりとその頬を撫でる。
「まあ、朝からお稽古ですの? ご精が出ますこと」
「剣術は日々の積み重ねだよ、アンジェ。一朝一夕に身につくものではない」
ニコニコと笑っているだけのフェリクスだが、言葉に若干の圧が含まれているような気がして、アンジェは微笑みつつも面差しを鋭くする。
「まさしくその通りですわ。わたくしも早速始めてみようかしら」
「……好きにするといい」
フェリクスはわざとらしく肩をすくめて見せ、アンジェの額に軽くキスしてから部屋を出て行った。
一人室内残されたアンジェは、ため息をついて布団にくるまる。セレネス・パラディオンであるフェリクスを撃破するには、どれくらいの鍛錬が必要なのだろう。そもそもそれは本当に可能なのだろうか? いつか相談した時、ルナは成長曲線が垂直になることはないと言った。それほど困難なことだとルナは見込んでいるのだ。
昨日の手合わせで分かったというにはおこがましいが、フェリクスやルナが遥か高みにいる剣士なのだということも分かった。リリアンが
(……リリアンさんの旅立ちの前に、フェリクス様に勝って、セレネス・パラディオンとなる……)
(そうして、セレネス・パラディオンの証だという剣を手に入れる……)
自分で決めて、自分で言い出したことのはずなのに。
周囲はさんざん、無謀だ、やめておけと自分に忠告していたはずなのに。
(まさしく、途方もないことだわ……)
自分自身がそう言葉にしてしまうと、それだけでどこかに突き落とされたような心地になる。
(それに……ゲームの通りになるというのなら、魔物がたくさん現れるということなのかしら……?)
(魔物……)
忘れようと思っても、ふとした瞬間に、黒い靄がもたらしたおぞましい感触を思い出してしまう。更には自分の誕生祝賀会の時に片手で釣り上げられた痛みが、冬至祭の時に喉を締め上げられた苦しみが、連鎖して次々と思い出される。
【お前の美しい肢体をそんな遊びに使うてくれるな……男を誘い快楽に貶めるためのものだろうに】
耳元で囁くかのような声だった。アンジェの身体を隅々まで睨め回し、そこから引き出される快楽を貪ることしか考えていないような声だった。安藤祥子の人生でも、下心丸出しで接近する男が時々現れて、その度に凛子がアイツはやめたほうがいいと釘を刺していたっけ。祥子は今度こそ大丈夫と熱に浮かされたように言い、最終的には男に泣かされ、そらみたことかと凛子が慰める。二人の一連の流れはともかく、ああいう類の男の視線はいつになっても慣れることはない。
(同じ男でも、フェリクス様とは大違いだわ……)
先ほどのように多少強引なふるまいをしても、フェリクスに対しては拒絶の感覚が沸き上がることはなかった。それは長年の信頼関係ゆえなのかもしれないし、フェリクスのアンジェへの愛がどんな時でもダダ洩れになっているからかもしれない。それはリリアンに恋をしているとはっきり自覚している今でも変わらない、フェリクスの手は、唇はアンジェを蕩けさせる。リリアンが嫉妬するからと距離を置こうとしているが、フェリクスへの思いが消えたわけでもない……。
(どちらつかずというのは、よろしくないわ……)
それでもやはり、フェリクスとリリアンが結婚するのは許せない。リリアンを、セレネス・シャイアンという道具であるかのように扱うのを、断じて見過ごすことは出来ない。
リリアンを守るために隣に立つのは自分でありたいと、叫び出したいほどに望んでいる。けれどそのための道のりが長く険しく苦しすぎると実感して、今、フェリクスのベッドの上で彼に唇を奪われて、気持ちが潰れかけている。
【その代わり……迎えに行くぞ、ルネ……もう待てぬのだ、我が愛し子よ】
「……どこに、迎えに行くというの……」
幻聴に対する独り言が、主のいない部屋の中に薄まって広がっていく。アンジェがぎゅっと目を閉じて手のひらを握り締めると、左の頬──昨夜、リリアンが触れたあたりが、ふと熱くなったような気がした。
【──おやすみなさい、アンジェ様】
柔らかな感触だった。いつものように、とびきり可愛い笑顔だった。それだけで天にも昇る心地で、フェリクスさえも心を打たれて昏倒して。そう、そうだ、彼女をこの手で守ろうと決めたのだ。どんな困難があっても、それだけは他人に任せてはいけないと、あの日、新年祝賀会のバルコニーの下で、自分は誓ったじゃないか。落ち込んだ時にあれこれ考えるのはよくない。祥子も仕事で落ち込んだ時には、一つ一つをこなしていこう、とよく言っていたっけ。
「一つ一つ……」
セレネス・パラディオンであるフェリクスを撃破するために。
「まずは……」
アンジェは起き上がってノートを取り出し、思いついたことを書き出し始めた。
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