25-2 それぞれの対話 フェリクス②
扉が小さく軋む音が、微睡の底から意識を掬い上げていく。
それは出来るだけ音をたてないように配慮して、ゆっくりと動かされたようだった。だがそういう時に限って金具のところが僅かな音を立てたりするものだ。アンジェが目を閉じたままうとうとしていると、扉が閉まる音がして、誰かが静かに室内を歩いている気配がした。毛足の良い絨毯を敷き詰めた上を、靴ではなくスリッパで歩いている、こちらも出来るだけ音を立てないように。足音はだんだんとアンジェのほうに近づいてきて、やがてアンジェが横たわっているベッドがぽすんと揺れた。アンジェがのろのろと目を開くと、視界には布団とその先の部屋が見えるだけで誰もいない。ならばとごろりと寝返りを打ってみると、下着一枚でベッドの端に腰掛けたフェリクスが、少しばかり驚いて目を見開いたところだった。
「……アンジェ」
「……フェリクス様……今、何時ですの……」
「まだ六時前だよ」
「六時……」
室内はまだ薄暗かったが、眠るときよりは窓の外が薄青く明るいように思えた。雪が降っていたからなおさら明るいのかもしれない。肌の色の薄いフェリクスの上半身の裸体はその薄青の中にぼんやりと浮かび上がっている。何度か見たはずの彼の滑らかな肌は、鈍い赤と青の色がまだら模様のようになっている。それに気が付いたとき、アンジェは息を吞んで身体を起こした。
「フェリクス様……!」
「……見られてしまったね」
フェリクスが珍しく苦々しい笑みを浮かべる。
「ハルトフェルトが診察に来てくれていたんだ。明け方なら君は眠っているかと思ったのだが」
「これは……昨日のお稽古での……治療なさって、この状態なんですの……?」
アンジェはサイドボードに置いてあった魔法ランプをつけようとしたが、フェリクスはアンジェが刺し伸ばした手を掴んで遮り、自分の胸元へとアンジェを引き寄せた。
「昨日は診察だけで大した治療はしなかったよ、顔には痣がないからね。治癒魔法を使うと、授業中に眠くなるんだよ」
「でも……お痛みはあるのでしょう……?」
「まあね。でも大したものではないよ」
「フェリクス様……」
アンジェはおそるおそる、左肩から胸板にかけてひろがる痣を見やる。階段から落ちた時のアンジェの痣とどちらが酷いだろうか? 雪の降る夜、暖炉の日が消えた室内は息を吐くと白く曇る。
「お稽古の度に、このような痣になってしまわれるの……?」
「……アンジェ。僕の痛みを慮ってくれるのかい」
フェリクスがアンジェの手を取り、その手のひらに口づける。半ば無意識にアンジェはそれを受け入れてしまったが、脳裏にリリアンの顔がよぎり、手を引こうとする。だがフェリクスはそれを許さず、力を込めてアンジェの手をその場に留めた。
「不格好で恐ろしいだろう。……僕は自分自身で決めたことだけれど、君が同じような目に遭うのかと思うと耐えられないよ……」
「……わたくしも、自分で決めたことですわ」
「僕が守る……君も、君の大切なリリアンくんも。どうしてそれでは駄目なんだ……?」
フェリクスの声はだんだんと小さくなり、最後のほうはほとんど掠れていた。緑の瞳が苦しそうに歪み、アンジェの顔へと手を差し伸べる。滑らかな頬を手のひらで撫でて、肩を捕まえ、覆いかぶさるように唇を求め──アンジェが顎を引き、それを遮った。
【──おやすみなさい、アンジェ様】
「……フェリクス様。どうか、ご容赦くださいまし……」
「アンジェ……駄目だよ。猶予をあげる代わりに、何も変わらないと決めたじゃないか」
「ええ……けれど、どうか……」
肩を抱き寄せようとするフェリクスの腕をつかみ、アンジェは首を振る。
「リリアンさんが……嫉妬、なさいますのよ……」
「──嫉妬。リリアンくんが」
フェリクスは目を見開く。
「それは……その……君たちの仲がそこまで親密に、し、し、進展したという……ことなのだろうか……?」
「分からないのです……」
アンジェはフェリクスの手をゆっくりと自分の肩から外して降ろさせたが、フェリクスは茫然としていて為されるがままだ。
「リリアンさんのお気持ちを確かめるのが怖くて……でも、やきもちを焼く、とは仰っておりましたのよ……」
「やきもち……」
「もし……もし、わたくしが想うだけの半分、いえ十分の一でも、リリアンさんがわたくしに想いを寄せて下さっていて……やきもちを焼いて、嫉妬してくださるのなら、わたくしはそれが嬉しいですし……応えたいと思いますわ……」
「アンジェ……ああ、アンジェ!」
薄闇の中、頬を染めて俯いた暫定婚約者をフェリクスは震えながら見つめ、感極まって両手で顔を覆った。
「そうか、そうなのか……リリアンくんと……アンジェ、それはとても喜ばしいことだろうけれど、僕はそれを、僕の腕の中にいる君からしか聞きたくない……昨夜のあの瞬間に立ち会えた奇跡を、僕は
「きゃっ!?」
フェリクスはそのままアンジェに抱きついて来て、驚くアンジェを体重をかけて押し倒した。めくれたままの布団を二人の上からかけると、布団の中でアンジェの鎖骨のあたりに顔を埋める。アンジェはフェリクスの身体の痣になっていないところを押したり引いたりしてみたが、どこもかしこもがっちりと固まっており全く持って身動きできなかった。
「もう! フェリクス様! わたくし怒りますわよ!」
「怒る君も愛しいよ、アンジェ」
「あっ……、やっ……ねえ、フェリクス様!」
「アンジェ……」
「大体、フェリクス様はリリアンさんご本人のことは……駄目っ、どのように思っていらっしゃいますの!? リリアンさんも……あっ……お守りするなんて仰って、わたくしのおまけのような扱いをなさらない、で……」
「……リリアンくん自身……」
熱情に任せてアンジェの反応を楽しんでいたフェリクスは、ふとその手を止め、首を傾げる。
「……君の魅力が洗練され完成された美なのだとしたら、リリアンくんはその対極だ……不完全で、簡単に壊れてしまいそうで……僕は、彼女自身のことも悪しからず思ってはいるけれど」
フェリクスはうっとりと微笑むと、まだ息が荒いアンジェの頬を優しく撫でる。
「彼女と君を……平等に愛せということなんだね? アンジェ……」
「……違います!」
「確かに……愛が偏っていては、うまく挟まることも出来ない……」
「違いますから!」
「僕は全く持って配慮が足りていなかった……一人だけを愛しても、うまく行くはずがなかったんだ……君がそうしろというのなら、僕はリリアンくんのことも愛して見せよう。そうすれば彼女もきっと、僕が君に触れることを許してくれるはずだ」
「違うと申しているでしょう!」
「だから、それまでは、君の希望を尊重しよう。彼女が許してくれるその時まで」
フェリクスは泰然と微笑むと、アンジェの身体を抱き寄せ、赤毛に顔をうずめ──
「……やっぱり、キスだけはしてもいいかな? リリアンくんには内緒で」
「ダメです!」
「駄目と言われても、君は僕の腕の中にいるよ」
「ダメですってば!」
(どうして──)
(どうして、また、こうなるの……!!!?????)
腕にあらん限りの力を込めて突っ張りつつ、アンジェは心の中でそう叫ばずにはいられなかった。
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