第25話 それぞれの対話

25-1 それぞれの対話 フェリクス①


 祥子が持っていたアレが、どうしても今欲しいと思った。


 薄く降り積もる雪の上にフェリクスが昏倒したとアンジェが気がついた時は、離れたところにいた護衛官達が血相を変えて全力疾走してきたところで、フェリクスを守るように取り囲み周囲を警戒した。リリアンはもうとっくにノーブルローズ寮の扉の向こうだ。平穏そのもので下校時刻もとっくに過ぎ、雪降りしきるアカデミー内で他に何か動くものがあるはずもない。フェリクスはうわ言を口走っており、アンジェはその場にへたり込んでしまい、どちらもろくな説明も出来ず、そのため護衛官の判断で二人ともすぐさま馬車に移動、王宮へと運ばれた。フェリクスは自分を抱えていくという護衛官を必死に拒絶し、アンジェを抱えようとする護衛官を引き剝がし、アンジェの肩をがっしり抱いて馬車に乗り込んだ。


 王宮に着き典医にかかる頃にはフェリクスの症状はすっかり落ち着いており、人の良い典医はニコニコ笑いながら何の問題もないと診断し、今夜は過度な運動や興奮するようなことは控えるようにとやんわりと釘を刺した。昏倒したその瞬間、護衛官たちはフェリクスがボウガンか何かで射抜かれたと判断したのもあり、鮮烈の理由をかなり厳しく追求されたが、フェリクスは頑なに「原初の楽園セレネ・フェアウェルを見た」としか答えなかった。アンジェもフェリクスよりは遠慮がちに尋ねられたが、「リリアンさんとご挨拶をしていたら、フェリクス様が背後で倒れてしまわれましたの」としか答えなかった。


 アンジェは自宅に帰りたいとフェリクスに申し出たが、それは敢えなく却下された。というよりもフェリクスの侍女がアンジェを見るなり泣き出し、今日はどうしても泊まってほしいと懇願されたので、それに折れた形だった。アンジェがフェリクスと婚約破棄したら、侍女はもうアンジェと近しく会うことはできないのかもしれないと思い詰めていたようで、アンジェが泊まると聞いて、涙もそのままに嬉しそうに微笑んだ。幼い頃から妹のように可愛がってくれていた彼女だからこそ、アンジェの宿泊を喜ぶ笑顔はアンジェの心を打った。


 フェリクスと共に夕食を取った後、制服やジャージを明日に間に合うよう洗濯してくれるというので早々と寝間着に着替える。明日もアカデミーの授業があるので有難かった。フェリクスが少しだけ公務の書類に目を通すというので、その横で授業の予復習をするそぶりをするが、何一つ頭に入って来ない。


【──おやすみなさい、アンジェ様】


 囁くようなリリアンの言葉が、いつまでも耳の奥にこびりついて離れない。


(……手が、こう……)

(顔が……近づいて……)

(……ちゅっ、って……)


 ほんの数秒の動作を何度も脳裏で再生してしまう。リリアンが触れた左頬のその箇所だけがいつまでもじんじんと熱い。思い出せば思い出すほど、息遣い、肩にかかった手の重さ、微かに触れた髪の毛、つま先立ちから降りる時の僅かな振動など、細かなことが気にかかり、その度に心臓が跳ね上がる。先ほどから教科書とノートを広げて鉛筆を構えていても、一文字も読んだり書いたりすることができていなかった。


(馬車から降りて……エスコートされるわたくしをじっと見ているな、とは思っていたわ……)

(フェリクス様に……やきもちを、焼かれていたということなの……?)

(……直前に、確かにフェリクス様のほうを見たような気がする……)


 アンジェはちらりとフェリクスのほうを見る。稽古でできた痣の治療も終えたフェリクスは、すっかり元通りできびきびと公務をこなしており、アンジェの視線には気が付かない。


(やきもちを……焼くということは……)

(その……つまり……)


 導き出される結論はとても甘く、身体全体が痺れるようだ。


(リリアンさん……本当に……?)


【アンジェ様の好きっていうのは……その……】


 誰も聞いていないだろうに、それでも恥ずかしそうに、少女はアンジェの耳元に唇を寄せてきた。


【……き、キス、したり、とか……?】


 正直、自分では、具体的なことは何一つ想像できていなかった。いつかルナにからかわれて真剣に考えようとしても、頭がふわふわするばかりでうまくいかなかった。そうした接触はアンジェはフェリクスとしかしたことがなかったし、安藤祥子の交際経験も男性ばかりだった。同性を愛しく思い、仲良くなりたいと思い、手をつないだその先にあるもの。頬にそっと触れた感触は、その先がどれほど甘美なものであるのかを否が応にも想像させられる。彼女に触れても良いものなのだろうか? 触れたらどんな感触がするのだろう……。


「…………」


 一文字も進まない勉強ノートを見下ろして、今日の交換日記の担当が自分でなくてよかった、と内心思う。何を書こうかとさんざん迷って、書いたら書いたで何度もそれを消して、どうしたものかと一晩中悩んだに違いない。


(……リリアンさん……)


 安藤祥子が持っていた、スマホという光る板が欲しいと心の底から思った。あの板には友人からの手紙が届き、祥子から送り返すこともできる。その場で対面していなくても、空間をつないで会話をすることができる。リリアンに、どうしてあんなことをしたのかと今すぐ尋ねてみたかった。ルナに、こんなことがあったが自分はどうしたらいいのかと聞いてみたかった……。


「さあ、終わったよ、アンジェ。待たせてしまって済まなかった。ホットチョコレートでも一緒にどうだい」

「……ありがとう存じます」


 いつもの調子に戻ったフェリクスは、先ほどのアンジェとリリアンがどれほど尊くてどれほど素晴らしくて自分の心を感動に打ち震わせたのかを延々と語り続けた。明日も登校するから早く寝よう、自分は別室で寝たいと訴えてみたが、別室で眠るのは却下されてしまった。アンジェが眠るまでずっと手を握っている、といういつか言った冗談は、フェリクスはかなり気に入っているようだった。


「おやすみ、アンジェ。僕の愛しいアンジェリーク。良い夢を見るんだよ」


 布団の中で手を握り、鼻先をこするようにして囁きかけてきた王子のまなざしはどこまでも優しい。


【私……すごく……やきもち焼きだから……】


 アンジェはリリアンの声が頭に反芻するたびに胸が痛くなったが、その手を離すことはできず、やがて眠りに誘われた。







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