24-6 新学期 ダメ

 フェリクスとルナは広い板の間の中央に戻って略礼をした。頭を上げたフェリクスは不敵に笑うルナを睨むと、青筋が立つほど強く拳を握り締める。触れるもの皆弾き飛ばしてしまいそうな剣呑な雰囲気で、いつもの柔和なフェリクスとは全くの別人のようだ。ノブツナがいい加減始めるぞと言いながら手を叩くと、門下生たちが壁にかけてあった自分の木刀を取り、先ほどと同じように中央に並ぶ。フェリクスはため息をついて金髪を掻きむしると木刀をルナに預け、とぼとぼとどこかの扉の奥に入り、四角い平たいクッションを二つ持ってアンジェとリリアンのところにやって来た。


「アンジェ……リリアンくん」

「フェリクス様……」

「この上に座るといい、床は硬いし冷えるから」


 フェリクスは淡々と話しながら、アンジェとリリアンにクッション──祥子的には座布団を渡す。


「ありがとう存じます」


 アンジェは座布団を胸に抱え、フェリクスを見上げた。緑と青の視線が重なる。互いの瞳に互いが映る。フェリクスは刺すような目線でアンジェをじっと見ていたが、やがてため息をつきながら顔を背けた。


「そこで……見ていくといい。僕の無様な姿を」

「……フェリクス様」


 踵を返して門下生の方に歩き始めたフェリクスを、アンジェは反射的に呼び止めた。リリアンがアンジェを見上げている。フェリクスは背を向けたまま肩越しにアンジェたちの方を振り返る。アンジェは真っ直ぐにフェリクスを見つめ、丁寧に王族に向けた礼をして見せる。


「先ほどは、お手合わせいただきありがとう存じました」

「……身の程を知っただろう、アンジェ」

「はい……けれど」


 アンジェは顔を上げてフェリクスをじっと見て、にこりと微笑む。


「ヒノモトの装束をお召しになって……変わらず凛々しいフェリクス様を初めて拝見して、アンジェリークは感激しております」

「……そうか?」

「はい」

「……そうか」


 フェリクスは素っ気なく返したが、耳朶の先が赤く染まる。


「……では、僕は稽古に行くから」

「はい。お気張りなさいませ」

「……うん」


 アンジェは再び頭を下げ、フェリクスは小さく頷くと、今度こそ中央に歩いて行ってしまった。ノブツナが爆笑しながらフェリクスの背中をばしばし叩く。王子は顔が真っ赤になって、ルナから木刀を受け取り門下生の列に加わる。ノブツナの二言、三言のあと、門下生どうしの間隔を空け、掛け声をかけながらの素振りが始まる。アンジェはほうと深く息を吐くと、傍のリリアンの方を向いた。


「……座りましょうか、リリアンさん」

「はい……このクッションどうやって使うんでしょう、寄りかかるところに当てるんでしょうか?」

「これはね、お尻の下に敷くんですのよ」

「へえー」


 二人は壁につけて座布団を並べ、それぞれその上に腰掛け、壁にもたれかかった。視線の先では門下生たちの素振りの種類が変わったようだ。


 座布団をはみ出して、アンジェのジャージの足と、リリアンのスカートとタイツの足が並んでいる。


 男たちの掛け声と、振り下ろした木刀が空気を切る音が規則正しく続いていく。門下生たちの中では、上背があるはずのルナが一番小柄で、フェリクスも比較的細身に思える。山のような大男、筋骨隆々とした男、皆が一様に同じ袴を着て同じ打ち込みをしている光景は、どこか清廉としたものを感じさせる。特にフェリクスの真剣な表情、袖口から覗く鎖骨と喉仏、素足が床を踏み鳴らすさま──


「男の人が鍛錬してるところ、カッコいいですよね」

「えっ」


 リリアンの声に、アンジェは見惚れていた自分に気がついてぎくりとする。


「分かります。殿下もルネティオット様も、カッコいいです」


 リリアンは微笑みながら曲げた膝に腕を回し、その上にもたれかかるようにしてアンジェの顔を覗き込んだ。


「リリアンさん……」

「アンジェ様。本当は私の部屋とか、森とか、そういうところがいいんだと思うんですけど……」


 久し振りに、こんなにも正面から、リリアンの瞳を見たような気がする。


「聞いてもいいですか……アンジェ様のこと」

「……ええ、そうね。わたくしもリリアンさんとゆっくりお話ししたいと思っていましたの」

「……けど、何から聞いたらいいのか、分からなくなっちゃいました」


 アンジェが頷いて見せると、リリアンは顎を膝にのせて視線をつま先に、その向こうの中央で稽古をしている門下生たちに移した。背中からストロベリーブロンドが落ちかかり、先の方が床につきそうになっているのが見える。


「……何でも、聞いてちょうだい」

「じゃあ……」


 リリアンは膝の上の両の手をぎゅっと握りしめた。


「アンジェ様……さっき、マラキオンに襲われていませんでしたか」


 リリアンは体を起こし、意志の強いまなざしでじっとアンジェを見つめる。


「あいつを追い払う時にお使いになった魔法で……後半、急に早く動けるようになりましたよね?」


 射すくめられる、あるいは心の奥底まで覗き込まれる。そんな感覚は体を震わせて委縮させる。これから彼女は私を責めるのだろうか、糾弾するのだろうか、或いは魔物の手先として退治するのだろうか? 嫌な未来の想像に、めちゃくちゃになってしまった心臓を吐き出してしまいたい。


 けれど、この紫の瞳から逃げるのは、もっと怖い。


「……ええ、そうよ。わたくしはあの魔物に取り憑かれているのでしょう?」

「いえ……」


 リリアンは首を振る。


「取り憑かれるというのは、もっと……体や意識を乗っ取られて、魔物の道具のようになってしまうようなことです。アンジェ様は今、マラキオンに目をつけられてしまったんだと思います」

「……そうなんですのね……」

「何か……体を寄越せだとか、連れていくよだとか、そんなことを言われませんでしたか?」


【さあ……余にその身を預けろ。望むものを手に入れてやろうぞ】

【その代わり……迎えに行くぞ、ルネ……もう待てぬのだ、我が愛し子よ】


 アンジェはマラキオンの言葉と、全身を這い回ったおぞましい感触を思い出し、身震いして自分の両肩を抱き、リリアンに向かって頷いて見せた。


「……言っていましたわ……」

「やっぱり。それに応じてしまうと、アンジェ様はマラキオンに乗っ取られてしまうんです」

「そうなんですのね……」

「私、お助けしようとしてたんですけど、ご自分で祓えたみたいで良かったです。アンジェ様はすごいです」


 リリアンはにこりと笑うと手を伸ばし、震えているアンジェの手にそっと触れた。自分より少しだけ大きなアンジェの手を、アンジェの太ももの上で両手で包み込む。


「アンジェ様。……私、セレネス・シャイアンはやめません」


 アンジェの手を握っているリリアンの手も、誤魔化し切れないほどに震えている。


「私の力を必要としている人がいると、ずっと王国の守護神ヘレニア様に言われていましたし……建国の女神セレニア様をお救いしたいです」

「……そう……」


 アンジェはそう応じるのが精一杯だった。へそのあたりにぽっかりと大きな穴が開いて、そこに何もかも引きずり込まれてしまいそうだ。壊れたように走り続ける心臓が、真っ先にそこに入って止まってしまえばいいのに。感情を顔に出さないように訓練していたはずなのに、今の自分が笑えているかどうか分からない。


「でも……」


 リリアンがアンジェの手を持ち上げて自分の胸元に引き寄せる。必死な様子の紫の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。


「アンジェ様が、セレネス・シャイアンなんてやめてしまえって言ってくださって……嬉しかったんです」

「……リリアンさん……」

「けど……アンジェ様、まだ、殿下のことがお好きなんですよね?」

「え?」

「学校でもエスコートしていただいているし……さっきも、殿下のこと、うっとり眺めていらして……」


 聞き返したアンジェを見上げたリリアンの頬が、みるみる赤くなっていく。


「わ、私のこと……助けようとして、……す、す、好きだなんて、言って、くださったんですよね?」

「……違うわ、違うのよ、リリアンさん」


 アンジェも必死に首を振る。稽古の声と足音がいやに遠くから聞こえるような気がする。


「貴女を……お慕いしているのは、本当ですわ……」

「……そうなんですか?」

「ええ、そうよ」

「…………っ……」


 リリアンは息を呑み、アンジェの手を離して自分の口を手で隠す。


「い……いつから、ですか……?」


 リリアンは顔どころか、顔を隠している指先まで赤く赤く染まっている。アンジェの耳の中で心臓の鼓動が嫌に大きく聞こえる。リリアンは何を言っているのだろう? 何をわたくしに伝えようとしているの?


「……自分の気持ちに気が付いたのは……アンダーソンさんに初めてお会いした時ですけれど……」


 この胸の内をそのまま伝えたら、それは貴女の心の奥まで届くのだろうか?


「初めて……入学式で、お見かけした時から……」


 忘れもしない、世界中の鐘が体の中で打ちなされたかのようなあの瞬間。


「じゃあ……ずっと……?」


 リリアンの問いに、アンジェは少しだけ躊躇ったが、小さく頷いてみせた。あれからいろいろなことがあった。貴女を見かけるたびに、貴女にお逢いするたびに、貴女とお話しするたびに、いつも幸せでふわふわと飛んでいくような心地だった。時々ぽろぽろと涙を流す貴女が可愛くていじらしくて、他の誰でもないこの手で守って差し上げたい。ただ……それだけなの、リリアンさん。想いは胸の中で渦巻くばかりで、ちっとも言葉になって飛び出していかない。リリアンさん、リリアンさん、リリアンさん。このまま想いが胸にたまり続けたら、爆発して粉々になってしまうのではないか。


「あの……ちなみに……」


 リリアンは声を潜めて尋ねる。


「アンジェ様の好きっていうのは……その……」


 身を乗り出して、唇がアンジェの耳元に寄せられる。


「……き、キス、したり、とか……?」

「……きっ」


 思わずアンジェはリリアンの両肩を押して自分の体から遠ざけた。全身が火を噴いたように熱い。リリアンが驚いて自分を見上げている。肩に触れてしまった手が震えて、離すことも引き寄せることもできなくなってしまう。


「……お、女の子を……好きになるなんて、経験がありませんの……だから、どうしていいのか、自分でも分からなくて……」

「……はい……」


 リリアンがアンジェの手の中で頷いている。それだけでどうして、こんなにも、頭の奥が痺れるのか。


「でも……リリアンさんが……わたくしを受け入れて下さって……」

「…………」

「そうしたいと、……仰るなら……」


 アンジェが何よりも美しいと思うリリアンの紫色の瞳に、アンジェ自身が映って揺れている。期待と不安が入り混じって、世界がぐらぐら揺れているような気がする。リリアンはアンジェには永遠と思えるような時間、実際はそれでも数十秒はそのままでいて──やがて、ゆっくりと、首を振った。


「……ダメです、やっぱり、アンジェ様……」

「……そう、ですわね……ごめんなさい、わたくしばかり盛り上がってしまって……」


 衝撃を受けたのを隠し切れなかったアンジェを見上げ、リリアンは更に首を振る。


「そうじゃなくて……」


 リリアンは頬を染めて視線を逸らす。


「私……すごく……やきもち焼きだから……」


 打ち合い稽古をしている門下生たちの中で、フェリクスが放った鋭い踏み出しが、ずどんと道場全体を揺るがす。


「……えっ?」


 聞き返したアンジェに、リリアンは顔を赤くするばかりで何も答えなかった。

 

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