24-5 新学期 対フェリクス


 ルナの祖父、先代セレネス・パラディオンであるヒノモトの侍は、その名をノブツナ・カミイズミ・シュタインハルトと言った。ノブツナは興味のない者は稽古をしていてよいと言ったが、誰もそれには応じず、木刀を持って相対するアンジェとフェリクスをぐるりと取り囲んだ。アンジェは髪飾りのリボンとブローチを外してリリアンに預け、髪をポニーテール様に高く括る。


「頑張れよ」


 ルナはニヤニヤ笑いながら自分の木刀を貸してくれた。使い込まれて傷だらけで、柄を握るとそれだけでしっくりと来るような気がする刀身。重いかと言われるとそうでもないが、軽々と振り回せるかと聞かれたら出来るとは言えないような重さ。ルナに頷き返しながら、握った柄が汗で滑るような気がして、アンジェは唇を噛む。


 フェリクスはしばらくノブツナに抗議していたが、ノブツナは笑うばかりで一向に取り合わなかった。しぶしぶと自分の木刀を持ってきてアンジェに相対しているが、未だかつてないほど嫌そうな顔でアンジェのほうをじっと見ている。ルナの腕にすがっているリリアンは、真っ青な顔で今にも泣き出しそうになっている。


「時間は……まあ、五分だな。はじめ」


 二人のちょうど中間に立っていたノブツナが、何の前触れもなくパンと手を叩く。その音に、自然体で立っていたフェリクスはため息をつきながら項垂れると、木刀を構えてアンジェを正面から見据えた。


「……アンジェ。僕の愛しいアンジェリーク」


 声音とは裏腹な、刺すような目線。

 後ろに押し返されそうな威圧感。フェリクスの体が、いつもの何倍も大きく見える。


(どうすればと、考える暇もなかった……)


 セルヴェール公爵令嬢としては、剣術の知識や経験など何一つない。頼れるのは祥子の知識と言いたいところだが、祥子も剣道とはほど遠い生涯だった。強いて言えば幕末の維新志士や新選組を取り扱った漫画やメディアミックスにどっぷりとハマっていたので、その知識があるくらいか。そうはいっても、漫画向けにアレンジされたポーズや技名を真似たところで、効果があるとは思えなかった。


「アンジェ。僕は君と戦いたくない……」


 アンジェは何も言わずにフェリクスめがけて駆け出した。フェリクスが驚きたじろぐのが見て取れる。勝てる見込みなどまずない。健闘できるだけのものも持っていない。きっとこの手合わせはアンジェにとって無様で惨めなものになるだろう。


「えいっ!」


 闇雲に振り上げて振り下ろしたアンジェの木刀をフェリクスが受け、こん、と木の音がした。受けられた木刀を返してもう一度振り下ろす。こん。こんこん。横に振ってみる。こん。こんこんこん。


(わたくしが、剣を使えないことなど、ご存知の上で手合わせをしろと仰ったのよ……)


「アンジェ……」

「やあっ!」


 ここん、こん。かん、こん、こん。


(立ち向かう……気概ですとか……そういったものを、見る、意図のはず……)


 ルナは目を見開いてニヤニヤし、リリアンはアンジェが預けたリボンとブローチを握り締めて真っ青な顔をしている。周りを取り囲んだノブツナの門下生たちのどこか冷ややかな目線がこの身に刺さるようだ。


「アンジェ……」


 フェリクスは巧みに木刀を操り、アンジェの攻撃とも言えない攻撃をことごとく弾く。最初に立っていた場所からまだ一歩も動いておらず、動作や佇まいは余裕そのものだが、顔だけが悲壮感に満ち満ちて戸惑っているのがよく見て取れる。


(でもきっと、闇雲に打っているだけでは、見透かされる……)

(考えるのよアンジェリーク……フェリクス様を出し抜く一手を……)


 こん、こんこん。


「……アンジェ」


 フェリクスは苦々しく呟くと、木刀を握り直した──その瞬間アンジェの全身に強烈な悪寒が走り、咄嗟に後ろに跳び退る。フェリクスは何も変わらない、ただ木刀を構え直しただけだ。だが飛び退いた先でフェリクスと目線が合ったら、身体がその場に縫い付けられてしまったように動けなくなってしまった。脂汗がだらだらと垂れる。恐ろしい、フェリクスの緑の瞳が、その木刀の切っ先が恐ろしい……。


 フェリクスは息を吞んで目を見開いた。アンジェはフェリクスの瞳をじっと見たまま、じりじりと距離を詰める。怖い。この人に近づくのが怖い、分厚いぶよぶよした壁に押し返されそうになっている。どうしたらいいの。どうしたら認めてもらえる? いや、どうしたら彼に一太刀入れることができる? 木刀を持つ手が、支える腕が重たく痺れてきた。緊張と不安が背中にべっとりと貼りついて、重くのしかかるようだ。


<苦戦しているな、ルネ>


「……えいっ!」


 こん。歯を食い縛って振り下ろした一撃とも言えぬような振りは、案の定あっさりと弾かれた。悲しそうな、憐れむようなフェリクスのまなざしに焦燥感が募る。いけない、焦っては。身体が重くなる、良くないことを考えてしまう、変な声が聞こえてくる。脂汗が肌を伝って気持ち悪い。まるで見えない無数の舌に素肌を舐られているよう。


<お前の美しい肢体をそんな遊びに使うてくれるな……男を誘い快楽に貶めるためのものだろうに>


 不意に、見えない何かがアンジェの両の手首をがしりと掴む感触がした。


「……痛っ……!?」


 アンジェは思わず身を屈める。丸めた背中の上に重みがのしかかる。耳元で荒い息遣いと笑い声が聞こえる。木刀を握る自分の腕の周りに、黒い靄がまとわりついているのが視える。


(……何……!?)


<さあ……余にその身を預けろ。望むものを手に入れてやろうぞ>


 この重さに、この声に、覚えがある。


「アンジェ!? 済まない、どこか捻ったか!?」

「…………っ」


 見上げたフェリクスは慌てた様子でアンジェを見ているが、それだけだ。周囲を見回す。門下生たち。ガイウス。ルナの兄たち。ノブツナ。ルナ。誰も彼も先ほどと変わらない、少し呆れて、ルナだけはニヤニヤとしてアンジェ達を凝視しているだけ──リリアンが、顔をしかめて首をかしげ、食い入るようにアンジェを見つめている。腕が言うことを聞かない、身体が重くて身動きが取れない。


<その代わり……迎えに行くぞ、ルネ……もう待てぬのだ、我が愛し子よ>


「マ……ラキオン……!」


 耳のあたりを濡れた何かが這う感触にアンジェは呻く。


(そうだ……わたくしは今、ペンダントもブローチも、何も身に着けていないのだわ……!)

(それで、こんなにも、やすやすと……!)


<いい子だ、ルネ。悶える顔をもっと見せておくれ>


 フェリクスがアンジェの顔を覗き込もうとしている、彼には何も見えていないが、下卑た笑い声が耳元で漏れる。リリアンがルナを揺さぶりながら何か話し、彼女をこちらに引っ張ってこようとしている。危ない、駄目、誰もこの恐ろしい魔物に近づけてはいけない。何とかしなければ。誰の手も借りず、この場を切り抜けなければ。震えてガチガチと鳴る歯を食い縛りながら、アンジェは不意に階段から転落した時のことを思い出す。その後にフェリクスの典医が言っていたことも。


【必要な時、いざという時、火急の時に即座に適切な魔法を使えるのは才能ですぞ】


(それは……)

(まさしく今だわ!!!)


 アンジェはありったけの力で顔を上げて後ろに飛び退き、フェリクスから距離を取った。全身を悪寒のようなものが走る。どうにかしなくては。強く念じるとそれに応えるように、木刀を握ったままの指先からぱちぱちと火花が散るのが見える。


(これを……どうしたらよいの!?)


「……てやっ!」


 衝動に任せて木刀を素振りすると、切っ先が振り下ろされた瞬間に耳元でギャッと悲鳴が聞こえた。


<何をする!>


 効いた! もう一度振り下ろすとまたしても悲鳴が聞こえ、靄が消えて身体が軽くなった。先ほどの不安と緊張に固まっていたのが嘘のようだ。少し離れたところでフェリクスが呆然としているのが見える。


「フェリクス様!」


 彼のまなざし、未だ愛しい婚約者。吸い寄せられるようにアンジェが駆けるとどよめきが起きる。身体が軽い、とても早く動ける、まるで空を飛んでいるよう! フェリクスが顔をしかめ腰を落として木刀を構える──がん! 今までで一番硬い音がし、木刀を落としてしまいかねないような衝撃がアンジェの手を襲った。


「アンジェ!?」


 フェリクスが焦っている。アンジェは応えず、柄をしっかり握り直して木刀をめちゃくちゃに振り下ろす。先ほどと何も変わっていない筈なのに、フェリクスの動きが酷く緩慢に見える、端正なその顔から哀れみが消えて、猛禽類のようなまなざしでアンジェを睨む。怖い、捕まってしまう、その前に打たなければ! がん、がん、がががん! 受けるだけの彼の剣の速さが徐々に増していく、アンジェはそれでも諦めずに木刀を振り回し続けた。


「師匠! これはどうしたらいいのでしょう!?」


 アンジェの猛攻を受け流しつつ、だが泣きそうな顔でフェリクスが叫ぶ。


「どうとはなんだ、どうとは」

「僕はアンジェを打つなど出来ません! 時間切れを待てばいいのですか!?」


 この世の終わりとばかりに叫んだフェリクスに、ノブツナは呆れた声で肩をすくめる。


「阿呆。負けたいなら負けてしまえ。所詮お前はその程度か」

「アンジェ……!」

「身を打たなくとも勝つ方法はいくらでもあるだろう」

「あっそうか……」


 フェリクスは言うが早いか、アンジェの剣を受けるでなく横に退いてかわすと、横ざまにアンジェの木刀の刀身めがけて自分の木刀を振り下ろした。空気がぶうんと唸ったとアンジェが思った刹那、手の中で何か爆発したかのような衝撃が走り、気が付くと木刀が手から落ちて床に転がっていた。


「ああ……」

「そこまで」


 全身から力が抜けて膝をつくと思ったが、膝は曲がらず、アンジェは棒が倒れるように横ざまにまっすぐに倒れていく。波が引いていくように、身体から何か細かい粒子が一気に抜け落ちていくのが分かる。


「……アンジェ。済まない」


 フェリクスの腕がアンジェを支え、そのまま軽々と抱き上げた。温かで優しい感触。ああ、つい先ほどまで、射貫くような眼をしていたのは本当に貴方なのだろうか? 全身をまさぐり重くのしかかる恐ろしい魔物はもういない。フェリクス様の腕の中はいつでも温かくわたくしを包んで下さる。


「アンジェ様!!!」


 リリアンが目を真っ赤にしてアンジェに駆け寄ると、その手を両手でしっかりと握りしめた。握られたところがほのかに温かくなり、そこからとろりとしたものが身体の内側に流れ込んでいくような感覚があった。身体から抜け落ちた粒子があった空虚の隅々まで行き渡り、それらがもう一度アンジェの身体を作り上げていくかのようだ。


「……アンジェ、子リスが言ってたんだが、お前……」


 ルナも近寄ってきてアンジェの顔を覗き込んだが、言葉を続けるのを躊躇っている。リリアンも心配そうな顔でずっとアンジェの手を握っているが、何かを言おうとはしない。先ほどの様子からするに、リリアンはきっとマラキオンが視えたのだ。そしてそれを視えていないルナに話した。ルナに事情を話しておいて心底良かったと、アンジェは大きくため息をつく。


「ありがとう、ルナ……まだ、何も、仰らないで……」


 ルナが頷き、リリアンがアンジェの手を抱き締め、フェリクスが首を傾げる。ノブツナと他の門下生たちも次々とアンジェ達のところまで歩み寄って来る。ノブツナは見るからに上機嫌で、あごひげを何度も触りながらアンジェの顔を覗き込んだ。


「立てるかね、お嬢さん」

「はい……フェリクス様、降ろして下さいまし」

「……ああ」


 フェリクスはすごく嫌そうな顔で、だが素直にアンジェを床に降ろしてやる。まだアンジェがふらつくのを見て取ると慌ててその肩を抱き、自分の胸に寄り添わせるようにして立たせた。ノブツナは一連のフェリクスの行動を見て目を丸くし、それからかっかっと威勢よく大笑いする。


「フェリクス……お前、どんだけ過保護なんだ」

「アンジェリークは僕の婚約者です、当然のことです」

「当然ねえ。さっきまで打ち合ってただろうに」

「おじい様、無駄です、殿下はこの点だけはお聞き入れになりません」


 ルナがニヤニヤ笑いながらさりげなくリリアンをアンジェの方に押しやった。リリアンは一度離れたアンジェの手をもう一度握る。そこからまたあのとろりとしたものが流れ込んで来る。ノブツナはその様子もまじまじと眺めていたが、あごひげを触りながらふむ、と鼻を鳴らした。


「セルヴェールさん。貴女は儂が思ったよりもよく頑張りなすった。稽古が終わったら話を伺うから、今日は端でその子と一緒に見ていくといい」

「はい……貴重なお時間をありがとう存じました」


 アンジェが膝を折り、ドレスを着て王族に相対した時のような改まった礼をしてみせると、ノブツナは目を見開き、それから大声で笑った。


「見ろ、シズカ、貴婦人とはいついかなる時も斯様であれ」

「私が礼も言えない野蛮人であるかのようなことを仰らないでください」

「そこな小動物のような童も一緒に夕食を食べて行ってもらえ、母御が喜ぶぞ」

「そうでしょうな」


 ルナは祖父相手には強く出られないらしく、苦笑いしながら肩をすくめて見せる。困っているルナなど滅多に見られないのでアンジェが微笑みながらその様子を眺めていると、ずっとアンジェの肩を抱いていたフェリクスが、僅かにその手に力を込めた。


「師匠……よろしいでしょうか」

「おう、どうした、もう稽古を始めるぞ」

「その前にもう一度手合わせさせていただきたいのです」

「駄目だ、一度だけだ」


 ノブツナは首を振ったが、真剣な表情のフェリクスも同じく首を振る。


「アンジェではありません……ルネティオットに頼みたいのです」

「私と?」


 ルナが眉を顰めると、フェリクスは頷いて見せた。


「アンジェの立ち回りが思いのほか良かったとしても、それはあくまで武芸が未経験の令嬢が、という意味合いでしかありません。アンジェはセレネス・パラディオンを……僕を倒してその称号を得ようとしています。それがどれほど無謀なことなのかを見せて、諦めさせるのが、今日の趣旨でしょう」

「……うむ」


 ノブツナが曖昧に唸ったのを見て、フェリクスはアンジェの肩を握る手にさらに力を込めて進めた。


「同じ女子生徒であるルネティオットとの手合わせなら、アンジェも自分と比較がしやすいでしょう……どうか、お時間いただくことはできませんか。お願い申し上げます」


 フェリクスはアンジェから手を離し、身体の脇にぴったりと添え、深々と頭を下げてみせる。ルナは嬉しそうにニヤリと笑い、他の門下生たちはどよめき、アンジェとリリアンは顔を見合わせる。ノブツナは腕組みをしてしばらく唸っていたが、やがてため息をつきながら渋々と頷いた。


「……いいだろう。好きにしろ」

「ありがとうございます!」


 フェリクスは頭が膝につくのではないかというくらい更に深く頭を下げた。王子が身体を起こしてルナの方に向き直ると、ルナはアンジェが落としたままの木刀を拾ったところだった。


「ルールはどうする、殿下」

「いつも通りだ。時間無制限。反則は急所のみ。参ったと言った方が負け」

「魔法は?」

「君は使わないんだろう? なしでいい」

「ほうほう」


 ルナはニヤつきながらアンジェの手を引いて自分の隣に引き寄せ、フェリクスに見せつけるように背後から抱きつく。


「可愛い可愛い運命の女神様が見てるんだぞ。自分に一番有利にしなくていいのか?」

「……挑発しても無駄だぞ、ルネティオット」


 フェリクスは吐き捨てるように言うと、ルナを睨み、アンジェを見据え──何か言いたそうだったが何も言わずに目線を逸らした。


「ほれ、やるならとっととやれ、稽古の時間が減るぞ」


 ノブツナがぱんぱんと手を叩くと、集まっていた門下生が壁際のほうまで下がっていく。フェリクスとアンジェの時は、門下生らは数メートル離れたあたりで様子を伺っていたが、今のように広い本館の壁際ぎりぎりまで下がると当事者の二人はかなり小さく見える。アンジェとリリアンもなんとなく皆に従い、剣術部主将のガイウスの近くの壁にもたれかかった。


「あの……ヴェルナーさん」

「……はい」


 アンジェが遠慮がちに話しかけると、ガイウスは抑揚なく応じる。


「今日は皆様の貴重なお時間を頂戴してありがとう存じます。……一つ、伺ってもよろしいかしら」

「俺に答えられることでしたら」


 ガイウスはアンジェではなく中央の二人とノブツナを見ている。アンジェもそれに倣って視線をそちらに向ける。祥子の記憶にある現代日本の剣道では、試合前に向かい合った二人はしゃがんでいたような気がしたが、フェリクスとルナは二人とも自然体で立ったまま向き合っていた。その間、およそ十メートルほどか。


「フェリクス様とルナ、どちらがお強いのですの?」

「見れば分かります」


 素っ気なく答えた先で、はじめ、というノブツナの声が聞こえた。その瞬間ルナがフェリクスめがけて飛び出した、とんとんとん、と軽い足音、後ろに長く靡くグレーのポニーテール。カァン! 打ち付けられた木刀の音が良く響く、アンジェは高校野球のホームランの音のようだと思う。カァン、カキン、カカカカン! 打楽器のように打ち鳴らされる木刀、ルナが薄く笑いながら低く構え、下から猛烈な突きをフェリクスに浴びせている。受けるフェリクスは険しい顔で、一歩、二歩、じわじわと後退して行く。だがぎろりとルナを睨むと、繰り出される連撃の隙間を縫うように上段から一気に振り下ろした! ずだん! フェリクスが踏み込んだ音が爆発音のようにあたりに響く。ルナは身を捻って横に避けたようだ、ずだん、ずどん、ずばん! 踏み込みと連撃がルナを追う、二人は横向きに走りながら互いに鋭く打ち合う──


「……ルナのほうが、余裕があるようにお見受けしますわ。とても速くて……」

「そうですね」


 アンジェの言葉に、ガイウスは相変わらず視線は二人を追いかけたまま頷いた。


「ただ……フェリクス様の攻撃を、直接受けるのは避けているのかしら? フェリクス様の剣は、ルナよりも……力がありそうに思えます」

「よくご覧になっていますね」


 ガイウスの答えは素っ気ない。


「どうした殿下かかって来い!」


 咆えたルナの猛攻がフェリクスの受けを潜り抜け、肩のあたりを鈍い音とともに打ち付けた。


「あっ……!」


 アンジェは悲鳴を上げそうになったのを、口許を覆って堪えた。顔をしかめてフェリクスは身を引く、ルナは容赦なく追撃する。カァン! カンカンカァン! ぎろりと燃えるまなざしで繰り出したフェリクスの突きがルナの二の腕を掠める。ルナはニヤリと笑って身を沈め、更に激しく足を狙って突きを繰り出す。


「ああっ……フェリクス様っ……!」


 アンジェは息を吞むしか出来ない。藍色の袴のいつもと違う姿の彼に、見惚れる暇もなかったというのに。フェリクスは激情に歯を食い縛りルナを睨むが、いくつかの攻撃が彼に命中する。アンジェは顔を背けたくなるのを堪える。リリアンがアンジェの服の裾を掴むが、その手がぶるぶると震えている。


「……カミイズミ門下生で、一番強いのは間違いなくルネティオット、次点が殿下です」


 ガイウスが独り言のように呟く。


「俺はようやく門下生の末席になれましたが……それでも険しい道のりでした」

「ヴェルナーさん……」


 フェリクスとルナは木刀でぎりぎりと鍔競り合った状態で、その場をゆっくりと回転していく。フェリクスの額に青筋が浮かび、だんだんとルナの木刀を押し下げていくが、ルナはニヤニヤしながら木刀をぐるりと回したかと思うと、フェリクスの脇腹に強烈な一撃を叩き込んだ。


「ぐっ……!」

「セレネス・パラディオンとなられた殿下の道のりは、俺の辿った道の何十倍も険しかったことでしょう。その殿下でも、鍛錬狂いのルネティオットにはまだ届かない」


 怪我の痛みに呻く間もなく、フェリクスは木刀を構え直してルナと相対する。互いを睨みながら広い板の間を走り、時に呻き時に咆え、強烈な一撃を相手めがけて放つ。


【やってみるといい……アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク】


 新年祝賀会でのフェリクスの言葉が、アンジェの脳裏にまざまざと蘇る。


【僕が君を想って積み重ねてきたものがどれほどのものなのか……道のりの入り口に立つだけでも違うだろう】


 激しい怒りに燃えていた、緑色の瞳。


【それでも僕を超えて、僕の許から去りたいというのなら、好きにするといい!】


(フェリクス様……!)


 やがてアンジェの目の前で、フェリクスの喉元にルナの木刀が突きつけられる。


「……参った」


 ヘリオスの名を継承する王太子にしてセレネス・パラディオンたるフェリクスが苦々しい顔でそう呟いたのを、アンジェは遠くから見つめることしか出来なかった。




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