24-4 新学期 シュタインハルト別邸


 コンサートも出来そうな気がしないでもないシュタインハルト別邸は、八角形の本館と四角形の別館に分かれており、最初に案内されたのは別館だった。入口で靴を脱ぐように言われ、ぴかぴかに磨かれた廊下を進んだ先の小部屋で着替えるように言われる。男子生徒と女子生徒は別の部屋らしく、フェリクス達とは別の部屋にルナがアンジェとリリアンを引き入れ、引戸を閉めた。


 アンジェは体育や魔法実技の授業で使うジャージを持って来ていたのでそれに着替え、ルナは藍染の袴に着替える。ルナの出で立ちに目を丸くしたアンジェを見て、ルナはまたしてもニヤニヤと笑う。


「……言ってみろ」

「……ケンドーですわね」


 にこりと笑ったアンジェに、ルナは頷いた。


「ま、これは想定内か」

「ええ……防具もケンドーなんですの?」

「細かいところは知らんが、防具は竹刀の時に使うらしい。うちは木刀だから使わんよ」

「まあ……当たると痛そうですわね」


 床に座り込んで、部屋に敷き詰められた畳を珍しそうに触っていたリリアンが、ぱっと顔を上げる。


「まあ、ある程度までの怪我なら魔法で治せるからな。真剣感覚でガンガン叩け、がおじい様での信条でもあるし」

「そう……」


 いつかフェリクスの典医が、フェリクスは剣の稽古の日は痣だらけになって帰ってくると言っていたのをアンジェは思い出す。あの時はただ痛そうだな、大変だなくらいの感想しか持たなかったが、それが今こうして我が身に降りかかることになろうとは。木刀の打撃や突きはどれほどの衝撃なのだろう? 階段から落ちた時とどちらが痛いだろうか。冬至祭でマラキオンに首を絞められた時とどちらが苦しいだろうか……。アンジェは思わず自分の肩を抱いて腕をさすると、フェアウェルローズカラーである紅色のジャージの裾が、くいと引っ張られた。


「……アンジェ様……」


 上目遣いの紫の瞳。肩から落ちかかったストロベリーブロンド。最近何を考えているのか分からないと思っていたが、これはさすがに分かる。


「……心配してくださっているの? リリアンさん」

「……はい」


 頷いたリリアンの手をジャージから外させ、アンジェはその手をきゅっと握る。


「今日はいつもより口数が少なくて……初めてお話しした気がしますわ」

「……はい」


 リリアンは眉根を寄せて口を曲げ、怒っているような、あるいは泣き出しそうな顔でアンジェを見上げる。


「……アンジェ様のお決めになったことだからと、思って、……黙ってました。私、正直、いろんなことがぐちゃぐちゃで分からないんですけど……でも、でも私……」


 アンジェの瞳を、その奥底まで覗き込んで射抜いてしまいそうな、真っ直ぐな眼差し。


「アンジェ様が……私のせいで、お怪我をなさるのは、嫌です」

「リリアンさん……」


 アンジェは胸が締め付けられて、同時に予感がして咄嗟に自分の口と鼻を覆う。しかし幸いなことに何も起こらなかったので小さくため息をついて身を屈め、リリアンと目線の高さを合わせた。


「もちろん、リリアンさんのためですけれど……わたくしのためでもありますの」


 アンジェの青い瞳に映るリリアンが、何か言いたそうに中途半端に口を開く。


「確かに、怪我をすることもあるでしょう。けれど、やると決めたのは他でもないわたくしですわ。それをご自分のせいなどと仰らないで」

「でも……」

「しばらく慌ただしかったし、今度のお休みにでもゆっくりお話しいたしましょう。ピクニックには少し寒いかしら、またリリアンさんのお部屋にもお邪魔したいわ」

「アンジェ様……」


 リリアンが瞳を潤ませた瞬間、ぶはっとルナが噴出して盛大に笑った。


「おじい様に会うだけなのにフラグ立ててどうすんだ、赤ちゃんべべ・アンジェ」

「フラグって……」

「思いっきり死亡フラグだろ」

「フラグってなんですか?」

「……フラグというのは」


 無邪気に聞いてきたリリアンに、ルナは更に笑い、アンジェは苦笑いしながら続ける。


「物語の定石というのかしら……死んでしまう登場人物が、死ぬ前に『この戦争が終わったら恋人と結婚するんだ……』などと言っていると、死んでしまった時の悲しみが増すでしょう? だから、この戦争が終わったら、のような発言は、後々の展開で死んでしまうことの目印のようなもので……それをフラグというのですわ」

「えっ、嘘っ、じゃあアンジェ様死んじゃうんですか!?」

「死なないわ、死ぬわけないでしょう、あくまでも物語の中でのことですわ。ルナのおじい様にご挨拶するだけで、怪我だってすると決まったわけではないのに」

「やだ! アンジェ様死なないで! やだあ!!!」

「きゃあ、ちょっと、リリアンさん!」


 リリアンはアンジェにがっしとしがみつくとびゃーびゃー泣き出してしまい、しがみつかれたアンジェは夕日のように真っ赤になってしまい、ルナは畳の上にうずくまって笑い転げたのだった。




*  *  *  *  *




「アンジェ、着替えたかい。……おや」


 小部屋から出てきたところに、ルナと同じ袴に着替えたフェリクス、ルナの兄ラインハルト、剣術部主将ガイウスが待っていた。リリアンは泣き止んでもアンジェにしがみついて離れようとせず、くすんくすんとしゃくりあげながら濡れた瞳でフェリクスを見上げる。


「あ、あ、アンジェ様は……死んじゃったりしませんか」

「死ぬ? 何がどうしてそんな話になっているんだ? それよりもそれ以上その神々しい光景を僕に見せつけるのはやめてくれないか、もう自分が抑えられなくなってしまいそうだ」

「そうよ、リリアンさん、わたくしは死んだりしませんから、淑女らしく節度ある振る舞いをいたしましょう?」

「いや、だが、もう少し……もう少しだけそうしていて欲しい……」


 平静を装っているがフェリクスは頬を染めプルプルと震えていて、ルナも口許を押さえて震えているばかりで、フェリクスと同学年の男子二人は、無表情ではあるがやや呆れたような視線でアンジェとリリアンを見ている。


(どうしましょう)

(印象が悪くなるのは避けたいわ……)


「リリアンさん、お願いよ、わたくし死んだりいたしませんから、ずっとこのままではお稽古に参加できませんことよ」

「それでいいんです……アンジェ様死んじゃう……」

「大丈夫ですから!」

「そうか……リリアンくん、アンジェの身を案じているんだね? 君はお母上を亡くされたばかりだから余計に胸に来るものがあるだろう……そんなにも必死になって……何と美しくいじらしい心根だろう」


 アンジェが必死になればなるほどリリアンは更に必死にアンジェにしがみつき、フェリクスがその度に感極まって涙さえ流している。男子二人が呆れてため息をついた頃、ルナが肩を震わせつつもリリアンの制服の首元を掴み、べりっとアンジェから引きはがした。


「子リス、おしまいだ」

「嫌ですっアンジェ様っ助けて!」

「聞き分けろ、もう子供じゃないだろう。もうすぐおじい様が来るから、大人しくしないなら馬車で待ってろよ」

「…………」


 ルナに吊るされてぱたぱた暴れていたリリアンは、真剣な口調で言われてようやく大人しくなる。ルナはやれやれと苦笑いしながらリリアンを下ろしてやると、リリアンは制服を握り締めてしょんぼりと俯いた。アンジェはその様子にいたたまれなくなったが、何か言うよりも先に、ラインハルトがわざとらしくため息をついた。


「殿下。参りましょう」

「あ、ああ、そうだな」


 フェリクスは我に返って面差しを正す。ラインハルトはもう一度ため息をついて軽く頭を下げ、歩き出したフェリクスの後に続いた。そのガイウス、ルナが続き、アンジェとリリアンも顔を見合わせて後に続く。別館と本館をつなぐ渡り廊下を進み、本館の扉が開けられる。中はアカデミーの大講堂、あるいは競技コートがまるまる入るのではないかというほどの広さで、鏡のように磨き上げられた板の間だった。中には袴姿の若者が十人ほどたむろしており、入ってきた一同、特にアンジェとリリアンを見て驚いた様子だった。ラインハルトのようにルナと同じグレーの短髪の青年二人は、ルナの上の兄二人だろうか。その他は剣の達人だと名の通った近衛兵など多少見たことのある顔もあったが、それ以外は知らない者ばかりだった。みなそれぞれフェリクスに挨拶をし、ちらちらとアンジェ達の様子を伺っていたが、やがて正面、渡り廊下とは違う方向の入口に向かって、何列かに分かれて整列した。最前列はルナ、ラインハルト、それからグレーの短髪の青年二人とフェリクスだ。その他は後ろに並び、剣術部主将ガイウスは最後尾に並び、ちらちらとアンジェとリリアンのほうを見ながらこほんと咳払いをする。


(……隣に、並べということ?)


 アンジェはリリアンと顔を見合わせ、隊列からややはみ出す形でガイウスの隣に並んで立った。ガイウスはどこか安堵したような顔で二人を見て、それきりずっと前を向いている。誰も何も喋らず、緊張にアンジェの手のひらがじわりと湿ってきた頃、正面の扉ががらりと開いた。


「おはようございます!」


 一同、ぴったり揃って叫んだかと思うと、腰を直角に曲げて深々と礼をする。アンジェとリリアンはギョッとするが、慌てて同じように頭を下げる。


「……うむ。揃っているな」


 低いようによく通る声が聞こえた。衣擦れの音が揃って聞こえ、一同が顔を上げたのが分かる。アンジェもそろそろと顔を上げると、リリアンも同じように顔を上げたところのようだった。正面入り口の扉を開けて入ってきたのは、皆と同じ藍染の袴を着た壮年の男──鼻が低く皴深く、目は切れ長で皓々と光り、もとは黒かったであろう白髪をきっちりと髷に結った、祥子の感覚で言えば壮年の侍に外ならなかった。侍は一同を見回して何度か頷くと、アンジェとリリアンを見つけ、二人を見比べ、あごひげを触りながら首をかしげる。


「……シズカ。あやつらか?」

「はい、おじい様」

「どちらだ」

「ジャージの……赤いほうです」

「ふむ」


 アンジェが今まで聞いたどんなルナの声よりも真剣な声が聞こえてくる。侍はあごひげを触りながらアンジェのところまで歩いてくる。裸足で無造作に板の間を歩いているのに、衣擦れの音も足音もほとんどしない。侍はアンジェの目の前までやってきて、まじまじとアンジェを見る。思ったほど身長は高くない。もしかするとフェリクスよりは低いかもしれない──


「事情は聞いておる、お嬢さん。話すよりも見せてもらったほうが早かろう」


 侍はそう言うと、後方、整列した最前列のほうを振り仰いだ。


「フェリクス。この子が、お前の運命の女神なんだな?」

「しっ、師匠! それは……!」


 フェリクスが顔を真っ赤にして叫び、ルナがごふっと吹き出し、侍はかっかっと快活な笑い声をあげる。


「お前がお嬢さんの相手をしなさい」

「え?」

「手合わせだ」

「師匠、しかし、アンジェは」

「手合わせだよ、お嬢さん。セレネス・パラディオンと相対したご様子を拝見して、それから話を聞かせていただこう。どうするかね、受けるかね」


 侍はアンジェの顔を見て、ルナとそっくりにニヤリと笑う。


「──ぜひとも、お受けさせていただきます」


 にこりと微笑み返したアンジェの手は、汗でぐっしょりと濡れていた。





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