幕間
7-4 【幕間】王子殿下のインテルメッツォ
キスをした後の顔に、似ていると思った。
「なんて可愛らしいうさぎの刺繍なんでしょう……このハートはわたくしの髪の色に合わせて選んでくださったそうなのです。嬉しい心遣いですわ」
授業が終わったら、特別な用事がなければ貴賓室で一緒にお茶をする。少しでも一緒にいる時間を増やしたくて願い出た決めごとは、一年を経た今も変わらず続いていた。美味しいお菓子を持ち寄る日もあれば、珍しいお茶を試してみることもあるし、家族や学友についての話に花を咲かせることもある。アンジェが話す日もあるし、フェリクスが語らう日もあるし、我慢できずに人払いをしてその柔らかな唇をついばむ日もある。
「つぶらな瞳が、また愛しさを倍増させますわね……ハートを抱き締めているという絵柄もいいわ。ねえ、そう思いませんこと、フェリクス様」
王子フェリクスの婚約者アンジェは、今日はフェリクスと肩が触れ合うほど近くまで椅子を寄せて、スカラバディにもらったというハンカチを眺めてばかりだった。なんてことはないシルクのハンカチに、丁寧だが素朴なタッチで刺されたうさぎの刺繍。スカラバディが自分で刺したというその刺繍がアンジェの心を捕らえたようで、テーブルの上に置いては眺め、撫で、うっとりと目を細め、刺繍を褒めたりスカラバディを褒めたりと忙しい。この調子でどれくらい時間が経っただろう。
「フェリクス様にいただくプレゼントも、勿論素晴らしいものばかりですのよ……けれど、全く思いもしなかった方から心づくしの品をいただくというのは、こんなにも人の胸を打つものなんですのね……」
「そうだね、アンジェ」
フェリクスは微笑みながら右手をアンジェの右肩に乗せ、彼女の身体を抱き寄せた。アンジェはされるがままに身を任せ、フェリクスの胸に頭をもたせかけるが、目線は相変わらずハンカチを眺めてばかりだ。フェリクスの胸板に当たる巻き毛の感触がくすぐったく心地よい。
「何とお優しい方なのでしょう、わたくしのスカラバディは……まだお知り合いになって何日もないというのに、わたくしを気遣ってくださって……とても可愛らしい方ですけれど、その美しい内面が溢れて輝いているようですわ……」
「そうだね、アンジェ」
同じ相槌を打ちながら、フェリクスは首をかしげ、アンジェの横顔を覗き込んだ。頬は上気し、瞳は潤み、肌はきらきらと輝いて。見事な赤の巻き毛も、男子生徒の視線を奪ってやまない果実も、すべてフェリクスの腕の中にある。
「あの見事なストロベリーブロンド! わたくしにはあれはもうピンク色に見えるのです……小さなお顔をあの髪が縁どって、本当に愛らしいわ……瞳が紫色ですし、すみれの花を飾ったらとても似合うと思いますの。すみれの季節まで待ち切れないわ、どこかに咲いていないものかしら……」
熱っぽく、ずっと自分のスカラバディについて語り続けている婚約者。確かにアンジェのスカラバディの少女は小柄でとても愛くるしい外見をしていた。フェリクスだって入学式で初めて見た時は思わず目線を奪われたのだ、可愛らしいものが好きな婚約者が夢中になるのも頷ける。話している相手が男子生徒ならこちらも気色ばむが、あの小動物のような少女だと思うと──二人して並んで頬を寄せ、手を取り合い、仲睦まじく笑い合う絵面を想像すると、それだけでなにか感動にも似たものが全身に滾る。
「…………」
「あっ、ごめんなさい、わたくしったら自分の話ばかりして……フェリクス様、退屈でいらしたでしょう?」
「いいんだよ、アンジェ」
腕の中で我に返ったアンジェは、おろおろしながら自分を見上げた。髪がくしゃりと胸板に押し付けられる。困っている筈の顔は潤んだ瞳も赤らんだ頬もそのままで、よく熟れた果実が食べられるのを待っているかのように、甘い香りを孕んでいるような気がする。フェリクスは衝動に任せ、アンジェの髪に顔を埋め、舌で水音を鳴らした。
「…………っ……」
きらめく青い瞳に、自分が映る。
「アンジェ」
自分の右腕に彼女の頭を押し付けるようにして、唇を肌に這わせ、悩ましい吐息を塞ぐ。何度もついばみ、侵入し、その心までも吸い尽くして、恋人の身体から力が抜けるまで繰り返す。ゆっくりと身体を起こし、至近距離で顔を覗き込む──フェリクスの瞳に映るアンジェは、耳朶まで赤くなっている。
「もう、フェリクス様……」
困ったような声。
上目遣いに見つめる青い瞳に、自分が映っている。
「……口づけなさるなら、人払いをしてくださいまし」
フェリクスは笑ったが何も言わない。護衛官たちは髪にキスしたあたりで二人からは見えないところに退出している。気が付いていない恋人が可愛くて、可愛いアンジェが愛しくて、フェリクスはもう一度熱烈にキスをした。
スウィート嬢の話をしている時の君が可愛いことは、言わないでおこう。まだ君自身も気が付いていないのかも知れない。心が繊細なうちに他人が茶々を入れたら、美しい芽を詰んでしまいかねない、それは絶対に駄目だ。尊い輝きを孕んで芽吹いた花を、この特等席で、自分の手で愛でたいのだから。
「……アンジェ」
唇を離し、額に軽く口づけて、フェリクスはもう一度アンジェの顔を見る。
「……フェリクス様……」
甘く熱い吐息が自分の名前を呼ぶ。
青い瞳がきらめいて蕩けて、うっとりと自分を見上げている。
世界一可愛い君の、世界一可愛い顔を見るのは、僕だけでいい。
そのハンカチは素敵だけど、君にこんなにも可愛い顔をさせることは出来ないよ。
「アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク。愛しているよ」
王子はクスクスと笑いながら、婚約者を優しく抱き締めたのだった。
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