22-7 条件
「アンジェ。水を差すようで悪いけれど、それは無理だよ」
フェリクスが、困ったような──どこか怒りを押し隠したような顔で、アンジェを見る。
「セレネス・パラディオンは一子相伝で継承される称号なんだ。だから僕がセレネス・パラディオンでいる限りは、君がセレネス・パラディオンになることは出来ないよ。称号を継承するには、現任者を打ち倒し、本人から剣と魔法を託されなければいけないんだ」
「そうよ、アンジェちゃん、さすがに無理があるわ」
「大丈夫だよ、アンジェ」
イザベラが心配そうに頷き、フェリクスもいつものように優しく微笑んで見せた。
「リリアンくんは必ず僕が守る。そして僕は君のこともあらゆるものから守るよ。それだけの力を、僕は手に入れたんだ」
「正直、わたくし……朝から展開がめまぐるしすぎて感情も思考も全く追いついていないのですけれど」
エリオットからリリアンの話を聞いて。
入場してきたフェリクスとリリアンを目の当たりにして。
自分の想いを吐露して──リリアンの義父が逮捕されて。
フェリクスが挟まるだの挟まらないだの言い出して。
そして今、セレネス・パラディオンについて、初めてその存在を知らされて。
「今まで全く知らされていなかったことで、殿下がわたくしのために研鑽されていて……」
大広間の歓声は未だ途切れず、国王夫妻が前に出てバルコニーで手を振っていた。フェアウェル王国万歳。ヴィクトル国王万歳。フェリクス王子万歳。セレネス・シャイアン万歳。繰り返される音の波が、四人の会話を包み隠してくれる。
「……それが、セレネス・シャイアンがリリアンさんだったからリリアンさんを守る、と仰られても、実感がありませんわ。ねえ、リリアンさん」
「ひゃいっ」
リリアンは反射的に返事をしてしまったらしく、声を出してしまってから慌てて口を押さえる。
「それで……セレネス・シャイアンの使命ですとか、結婚の意味ですとか、いろいろ仰られて……それをわたくしが納得しなければならないということなのでしょう? それで国王陛下は婚約破棄しろと仰って……殿下は、承知していなくて……」
「……そうだよ、アンジェ」
苦い顔で頷いたフェリクスを見ていると、胸の奥がざわざわとささくれ立つ。
「せめて……先に教えてくださいませんでしたの?」
バルコニーの下から、アンジェと揃いのモーニングで一人現れたフェリクスを見た時。リリアンをエスコートしてきた時。国王が、フェリクスとリリアンの婚約をほのめかした時。フェリクスが隣にいるのに、一人きりで涙を堪えているリリアンを見た時。内臓がすべて潰れてしまうようだったあの瞬間を思い出し、アンジェは瞳に涙が滲む。時はもう過ぎてしまった、けれど今はまだ、あの時よりは手が届きそうなところにフェリクスがいる。
「どうして何の先触れもなしに、……エスコートの件すら、公文書で送っていらしたの?」
唇を戦慄かせたアンジェを見て、えっ、とフェリクスが声を上げた。
「届いていないかい? 手紙は毎日出していたよ?」
「えっ……わたくしも、毎日……」
驚いて顔を見合わせる二人を見て、リリアンがあっと叫び、険しい顔になる。
「まさか……あの男、アンジェ様の郵便まで……?」
「リリアンさん……アンダーソンさんも似たようなことを仰っていましたけれど、リリアンさんもでしたの?」
リリアンは頷く。その瞳から涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「……私はもともと、家に届く手紙の類は取り上げられてて……お母さんからの手紙もたくさん届いてたらしいんですけど、結局私のところには来なかったんです。交換日記はノートにアンジェ様のお名前があったし、ノートそのものをやりとりするものだから、手を出せなかったみたいなんですけど……」
「……なんということだ……」
「アンジェちゃんがフェリクスくんに疑念を抱きやすいように細工したということなのかしら……」
フェリクスは怒りに震え、イザベラも扇子で口許を隠し、嫌悪感も露わに吐き捨てた。
「アンジェ様……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!」
「リリアンさんは何も悪くありませんわ……」
「でも……あんまりです……!」
「手紙が来ても来なくても……結果は変わりませんでしたわ。わたくしは……何があっても、リリアンさんをお守りしたいの」
「アンジェ様ぁ……」
泣きじゃくるリリアン、リリアンの肩に縋るように寄り添うアンジェ。フェリクスが息を呑んだ気配に、イザベラが剣呑な目つきで王子の脇腹を扇子でぐさりと刺した。
「痛っ!」
「フェリクスくん。いい加減になさい」
「まだ何も言ってない……」
刺された箇所をさすりつつ、フェリクスはアンジェの方に向き直る。
「アンジェ……何と言って詫びればいいだろう。今日会えるからと忙しさを言い訳にせず、セルヴェール邸まで君に逢いに行けば良かった。もう君を離さないと誓ったはずなのに、僕が愚かだった。許してくれ、この通りだ」
「殿下……」
「……先ほどからずっと、名前で呼んでくれないね。それはもう君の心が僕から離れてしまったという事なのだろうか?」
「…………」
しおらしく、今にも泣きそうな顔でフェリクスは頭を下げ、アンジェに近寄ってくる。リリアンから少し離れて胸元で握り締めているアンジェの手に触れようとするが、アンジェの顔をじっと見つめると、躊躇いがちにその手を下げた。
「アンジェ……」
「……わたくし、……リリアンさんをお守りしようと決めたのです」
「アンジェ……」
「殿下への想いがなくなったと言うと……嘘になります。変わらず愛しいわたくしの殿下……けれど、リリアンさんとご一緒にご登場なさった殿下をバルコニーの下から見上げた時、わたくしの心の中で、どこか一つ、扉が閉ざされてしまいましたの」
「……アンジェ……」
アンジェの青い瞳は涙で揺らぎ、胸元のブローチと同じ色にきらめいている。
「アンジェ様……私のことなんて気にしないでください!」
「違うのよ、リリアンさん……リリアンさんがいたからというわけでもないの。気持ちの整理も、まだついておりませんわ……けれど、わたくしは……リリアンさんをお守りしたいのです……」
真っ直ぐに見つめられたリリアンは、未だ涙が止まらずに肩を震わせている。
「大変な目に遭って、これからも大変な重責を背負わなければいけないリリアンさん、なんならわたくしがセレネス・シャイアンを代わって差し上げたい……貴女を守る役目を、たとえ殿下にでも取られたくないの……」
「アンジェ……」
「殿下も大変なご苦労と研鑽を積み重ねて、セレネス・パラディオンとなられたのでしょう……それは素晴らしいことと存じますわ。わたくしには到底辿り着けない高みなのかもしれません……それでも、どうしても……リリアンさんは、わたくしがお守りしたい……」
アンジェはぽろぽろと涙を零しながらフェリクスを見上げる。
「わたくしのような、剣を持ったこともないような子女には大変な困難だろうとは思います……けれどそれでも、わたくしこそが、リリアンさんをお守りするセレネス・パラディオンになりたいのです……」
「……アンジェ。僕の愛しいアンジェリーク」
語りかけるフェリクスの緑の瞳が、ゆらりと揺れた。
「……期限を決めるよ。リリアンくんがセレネス・シャイアンとして旅立つ日までだ。それ以上ダラダラとは待てない」
「……っ」
「フェリクスくん!?」
「それまでは現状は何も変えない。君は僕の婚約者のままだ、君のエスコートをするのは僕だけだ、僕以外の男に君の髪の毛一本だって触れさせるな。そして僕はセレネス・パラディオンとしてリリアンくんを守る。君のことも守る。その上で君たち二人は仲睦まじく過ごせばいい」
「殿下……」
嘆きつつも優しく柔らかかったフェリクスの顔が、少しずつ険しく鋭い表情に変わっていく。
「何度でも僕に挑戦してくるといい、どんな時でも受け入れよう。ただし僕は手加減しないし、指南もしない。ルネティオットあたりに頼んでみるといい」
リリアンが呆然としてアンジェとフェリクスの顔を見比べている。
「期限までに、君が僕を打ち倒すことができなかったら……アンジェ、リリアンくん、君たち二人は僕のものだ。君たちはセレネス・パラディオンである僕に守られて、僕を挟むことになる」
「ちょっと……フェリクスくん!」
イザベラがギョッとしてまたフェリクスを扇子で刺そうとしたが、フェリクスの手が直前でそれを止めた。そのまま扇子をイザベラから奪い取ると、拳で力の限り握り締める。ばきん、ぱきりと乾いた音がして、フェリクスの手の中で扇子が歪む。
「フェリクスくん! 何をなさるの!?」
「やってみるといい……アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク。僕が君を想って積み重ねてきたものがどれほどのものなのか……道のりの入り口に立つだけでも違うだろう。それでも僕を超えて、僕の許から去りたいというのなら、好きにするといい!」
アンジェを見るフェリクスのまなざしは、未だかつて見たことがないほどの怒りにぎらぎらと燃えていた──邪教審問の時のフェリクスが、これに近しい状態だっただろうか? あの時よりも更に煮えたぎる衝動が、扇子を握り潰したままの拳をぶるぶると震えさせている。リリアンは青ざめ、フェリクスとアンジェを見比べ、どちらにつくことも出来ずに呆然と立ち尽くす。イザベラも唇を噛んでリリアンに寄り添う。アンジェは真正面からフェリクスを見返す。フェリクスの怒りの感情を真正面から受け取るのはこれが初めてだ。
けれど──怖くはない。
フェリクスはもう、アンジェにとって、超えるべき壁となったのだから。
「……好きにさせていただきます、殿下」
涙をためた瞳のままでにこりと微笑んで見せたアンジェを見て、フェリクスはひどく傷ついたような顔をし──、ぼそりと呟いた。
「もう一つ、条件に追加だ」
「何なりと」
「……殿下ではなく……今まで通り、フェリクスと呼んで欲しい。……さみしいよ、アンジェ……」
フェリクスの顔が真っ赤になったのを見て、アンジェは目を見開き、クスクスと笑った。
「承知いたしましたわ、わたくしの大切なフェリクス様」
「ありがとう……」
涙目でうつむいたフェリクスに、こめかみに青筋を立てたイザベラがむこうずねを力いっぱい蹴飛ばし、フェリクスは呻いてしゃがみ込んだのだった。
* * * * *
「……リコ」
一同ようやっと落ち着き王族と共に階下の大広間へ降りると、見知った顔がわらわらと集まってくる中で、エリオットが神妙な表情で近付いてきた。その後ろには彼と同じ青い髪の夫婦──エリオットの両親が、目を真っ赤にしながらこちらを伺っている。リリアンは二人の顔を見てあっと声を上げた。
「旦那様! 奥様!」
「リリアンちゃん……」
「リコちゃん、リコちゃん……綺麗になって……」
「奥様ぁ!」
リリアンはぱたぱたと駆けると、アンダーソン子爵夫人が広げた腕の中に躊躇いなく飛び込む。
「リコちゃん、ごめんなさいね、エリオットったら今まで貴女のこと何も言わないのよ……知っていればすぐにでも助けたのに……本当にごめんなさい……」
「奥様……いいんです、リオはいっぱい助けてくれました」
「リコちゃん……」
夫人はぼろぼろ泣きながら、実の母親のようにリリアンをきつく抱きしめる。
「もう心配いらないわ、アンダーソンがリコちゃんの身元引受人になりますから……フェアウェルローズの諸費用も出させてちょうだい」
「そんな、奥様、いけません、私なにもお返しできるものがありません」
「違うのよ、いただいていたのはわたくしたちの方なのよ。あんなに美味しいパン、フェアウェル王国中を探してもどこにもないわ……食べる度に家族が笑顔になって、みんなコージーヴェイルのパンが大好きだったの……」
「奥様……」
「いただいた喜びをお返ししているだけなのよ。だから遠慮なく受け取ってちょうだい。どうしても気になるというのなら、またリコちゃんのお菓子と、コージーヴェイルのバケットパンを焼いてちょうだい」
「はい……はい……奥様……奥様……!」
横で眺めていたエリオットは、アンジェが自分を見ているの気が付くと、気まずそうに視線を逸らし、鼻の下をこすった。
「……俺に……できること、まだ、あったな、って思ったんス」
「そう……」
アンジェも微笑みながら、涙をハンカチで拭いた。
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