22-5 覚醒
スウィート男爵が逮捕連行されたことで大広間は騒然となった。急展開に興奮して隣人に喋り散らしている者。青ざめて震えている者。平静を装っている者、興味がなさそうな者。それぞれの顔色の人数を数えたわけではないが、男爵がほうぼうに金を貸したり怪しい金融商品を融通していたというのは本当のようだった。父と兄がこれから忙しくなりそうだとぼやくのを尻目に、アンジェは衛兵に断りを入れ、バルコニーへと向かう階段を駆け上った。
「リリアンさん!」
バルコニー側の衛兵が、階段の出口の前で一度アンジェを差し止める。国王夫妻とフェリクスが顔を見合わせ、国王が笑いながら頷くと、衛兵が会釈してから横に避けた。
「アンジェ様!」
フェリクスに支えられるようにして立っていたリリアンが、その手を振り払ってアンジェを見る。アンジェもリリアンの許に駆け寄り、互いに少し躊躇い、その手と手を握り合わせた。
「アンジェ様……お母さんが……お母さんが……」
「リリアンさん……」
もともと泣いていたリリアンだが、更に大粒の涙がぼろぼろとこぼれる。
「急病で……危篤って聞いたんです……説得して馬車を出してもらって……でも、間に合わなくて、なんとかお葬式には出られたんですけど……」
「リリアンさん」
崩れ落ちそうになるのをアンジェの腕に縋って、うなだれて洟を啜るリリアン。
「わたっ、私がっ……あんな男の養子になるなんて、言ったから……お金に目がくらんで……! 二人でゆっくり、コージーヴェイルを、やってれば、お母さんまだ生きてたのに……!」
「……コージーヴェイルは、パン屋さんのお名前?」
「はい、その、コージーヴェイルベーカリーって言って……お父さんが、死んじゃってからは、二人で切り盛りしてたんです」
「そう……」
元気を出してだとか、お母さんが見ているよだとか、それでも貴女に会えて良かっただとか。思いつく言葉はどれもこれも陳腐で、リリアンの心に寄り添うには込められた気持ちが全然足りないような気がした。どうしたらいいの。どうしたら貴女を慰められる? フェリクス様はこんな時どうしていた? 抱き締めればいいの? 唇を重ねればいいの? そもそもわたくしは、貴女に触れてよいのだろうか? アンジェが考えるよりも先に、リリアンは嗚咽しながらアンジェにひしとしがみつき、その胸に顔を埋めて大泣きした。
「アンジェ様……わた……私……一人ぼっちです……誰もいなくなっちゃった……」
「一人ぼっち?」
リリアンは頷きながら涙を拭う。
「あんな男でも……面倒を、見てもらってると思ってて……父と呼んでいたんです。でももう、そう思えないし、あの家には帰れません……」
「……そうね……」
アンジェはリリアンと医務室で会った時の、コルセットの痣を思い出した。使用人が主人のコルセットを締めるのにあんな風になるまできつくするなどあり得ない。王子を誘惑しろ、義父の命令を聞けと、彼女の涙も構わずにぎりぎりと締め上げたのだろうか。あの時のリリアンの気まずそうな様子は、羞恥ではなく、嘘を取り繕うためのものだったのか。
「年齢も、ばれ、ばれちゃう、だろうし、学費なんて……払え、ないし、フェアウェルローズ、きっと、退学です……」
アンジェはリリアンとはほとんどアカデミーで会ってばかりだった。男爵からも使用人からも切り離されるフェアウェルローズ・アカデミーの日々は、リリアンにとってどんな意味を持つものだったのだろう。リリアンはいつも笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに、時に悪戯っぽく、時に子リスのようにせわしなく。少なくともアカデミーは、アカデミーでアンジェと過ごしていた時間は、リリアンにとって笑顔になれる場所だったのだ。
「嫌だあ……嫌です、アンジェ様と一緒にいたいです……」
アンジェの心臓がどきりと鳴った。顔が赤くなる。気持ちがふわふわと浮つきそうになるのを堪えて、リリアンの顔を覗き込む。
「大丈夫よ、リリアンさん。貴女は特待生なのだから、学費諸々は免除されているはずですわ」
「ほんとですか……」
「ご事情を校長先生にご相談すれば、今からでも寮に入れるかもしれませんわ。細かな費用なら、わたくしでもお助けできると思いますし、身元引受人だってお父様にお願いしましてよ」
「そんな、アンジェ様、それは駄目です、申し訳ないです」
「そうよ、なんならセルヴェールにいらっしゃるといいわ、わたくしの隣のお部屋を空けますから。それがいいわ、そうしましょう」
「えっ、ええっ!? アンジェ様!?」
リリアンがギョッとして顔を上げたのを見て、アンジェは微笑んで見せる。
「貴女はお一人ではありませんことよ、リリアンさん」
「アンジェ様……」
「わたくしもいる。アンダーソンさんもいる。ルナも、お菓子クラブのみなさんも、みんなリリアンさんのお力になってくれますわ」
「……はい、アンジェ様……」
「それから……」
アンジェは唇を引き結んで、ゆっくりと息を吸う。
「これからは、フェリクス様が貴女にお力添えくださるのでしょう?」
アンジェはずっと視線を感じていた方を真っ直ぐに見やった。リリアンが息を呑むのが気配で分かる。青い瞳の視線の先で、王太子フェリクスが泰然自若に佇んで──おらず、両手で顔を覆って天を仰いでいるところだった。
「……フェリクス様?」
「ああ、アンジェ。僕の可愛いアンジェリーク。大丈夫だから」
フェリクスは嘆息すると、そろそろと手を下ろした。その場にいる全員──国王夫妻、イザベラ、他の王族、アンジェとリリアン、バルコニーの下にいる招待客一同すらも彼の一挙一投足に注目する中、王子フェリクスは頬を染め、うっとりと呟いた。
「尊い……」
まるで極楽の園を垣間見たかのような、至福の微笑み。
「…………えっ?」
思わず聞き返したアンジェに、フェリクスは緑の瞳に涙すら浮かべながら歩み寄り、アンジェとリリアン二人の肩をそれぞれ叩いた。
「アンジェ……リリアンくん……君たちの友情、いや愛に僕はいたく感動した……これを尊いと言わずして何をもって尊いとするのだろう……どうかそのままで、二人ともどうかそのまま、ずっと僕の傍にいておくれ……」
遠くの方で誰かが盛大に咳き込むのが聞こえる。
「傍に……と、仰いますけれど、殿下」
アンジェは戸惑いながらも自分に触れるフェリクスの手に触れ、さりげなくそれを肩から降ろしながら王子を見上げる。
「わたくしたち、婚約を解消して……セレネス・シャイアンのリリアンさんとご婚約なさるのでしょう? リリアンさんがそれをご承知なさるのなら、わたくしはもう、殿下のお傍にはいられませんわ」
「婚約解消? 何を言っているんだい、アンジェ」
「何って……先ほど、国王陛下がそう仰っておられましたわ? 殿下とリリアンさんを
「僕はまだ何一つ承知していない……父上が勝手に仰っているだけだ」
憮然とした表情のフェリクスに、アンジェは思わず周囲を見回した。びくりと怯えて俯くリリアン。気まずそうに隣の者と顔を見合わせ──アンジェと目線を合わせるのを避ける王族たち。とてもニコニコと微笑みすぎて、扇子を掌で開いたり閉じたりしているイザベラ。最後に国王夫妻が顔を顔を見合わせる。
「フェリクス。まだそのような駄々をこねているのか」
「駄々ではありません」
国王ヴィクトルの呆れたような咎めるような声音に王子は顔をしかめながら応じ、さりげなくもう一度アンジェの肩を抱いた。
「父上こそこの尊みが分からないのですか」
「分かるぞ、分かるとも、我が息子よ」
国王はうんうんと頷く。アンジェはもうさりげなくするのは諦めてフェリクスの手から逃れる。
「咲き初めし百合に勝るものなぞ、このフェアウェル中を探してもあるものか。だがこれは国の危機なのだ、弁えよ」
「弁えません。僕は自分の愛と尊みにこそ生きる価値を見出したい」
フェリクスが更にアンジェを追いかけて横に寄り添う。
「……何なのですか!? 結局わたくしは婚約破棄でよろしいの!?」
「その通りだ、アンジェリーク」
「そんなわけないだろう、アンジェ!」
しびれを切らして叫びつつフェリクスの手から逃れたアンジェに、親子の声が重なった。
「僕はずっと、君がセレネス・シャイアンだと思っていた……だからこそ君を守る為に、ようやっとセレネス・シャイアンを守るための騎士の称号を得たんだ。ところがセレネス・シャイアンはリリアンくんだった、僕は彼女も守らなければならない……それと僕の伴侶とは何の関係もない! アンジェどうしてさっきから僕から離れるんだ!?」
「婚約破棄だと思っているからですわ!」
「それはない、絶対に!」
「きゃあ、おやめになって、殿下!」
フェリクスがもう一度アンジェに手を伸ばし、それこそ抱き締めようとしたので、アンジェは両手を中途半端に振り上げて叫ぶ。
「お聞きになったでしょう……わたくしのあさましい心の内を! わたくしはリリアンさんに恋をしてしまいましたの、殿下の婚約者にふさわしくありませんわ! ですから国王陛下の勅言どおり、婚約破棄なさいませ!」
「何を言うんだ、アンジェ……」
アンジェを捕まえようとにじり寄りながら、フェリクスが叫び返す。
「僕たちはそのままでいいと、あの夜熱く誓い合ったじゃないか!」
「ではわたくしと婚約破棄なさらないで、リリアンさんはどうなさると仰るの!?」
アンジェはリリアンと手を取り合い、じりじりと後退しながら叫ぶ。リリアンはアンジェとフェリクスを見比べながら泣きそうな顔で慌てふためいている。
「国のためにその力を継承するのが大切なのでしょう、それこそヘリオスの御名を持つ殿下のお役目なのではなくて!?」
「アンジェ、違う、僕たちはそのままでいいんだ!」
「そのままそのままって……」
アンジェの背がバルコニーの手すりに当たった。もうこれ以上は下がれない。近寄るフェリクス、怯えるリリアン、それを庇うアンジェ。フェリクスの手がそっとアンジェの頬に触れる。
「そのままと仰るなら、……そのままの定義を教えてくださいまし!」
「ああいいとも!」
フェリクスは何故か誇らしげに胸を張った。
「アンジェ……君がリリアンくんに恋をしたことくらい、とっくに気が付いていたよ。リリアンくんを想い見つめる君のまなざしのなんと美しいことだろう! 君たち二人が共有する秘密を語る唇の、なんと甘美なことだろう! リリアンくんもアンジェとはまた違って……素朴で素直な人柄が外見に滲み出ているようでとても愛らしい……だから君はリリアンくんに恋をして、リリアンくんはそれを受け入れる。そして僕は君たち二人の間に挟まる! 僕は二人とも愛でる! これだ!」
何故かその瞬間、アンジェとフェリクスの口論に聞き入っていた招待客から大きな歓声と拍手が上がった。いいぞ、殿下。あのお二人の仲睦まじさは浴びただけで脳がやられる。挟まれるものなら俺だって挟まりたい。殿下にだけ許される神の偉業だ。たくさんの声、特にフェアウェルローズ・アカデミーの生徒の声が多く飛び交うが、アンジェにはそれらを聞いて理解するだけの余裕がない。
「それは……重婚なさるか、どちらかを妾にするということですの!?」
「違う! 挟まるんだ!」
「じゃあ何なんですの、そんなことが許されるはずないでしょう!」
「だから……ああ、……ルネティオット!」
フェリクスは苛々と叫び、バルコニーから身を乗り出してルナの姿を探した。ルナは長椅子に突っ伏して笑ってばかりいたようで、目尻の涙を拭い眼鏡をかけ直しながら顔を上げる。
「ここにいるぞ、殿下」
「アンジェに説明してやってくれ!」
「御意」
ルナは肩を震わせながら頷くと、周囲を見回し、招待客の中から自分のスカラバディのグレースと、お菓子クラブメンバーのもう一人を連れてきた。フェリクスがそれをじっと見ている。アンジェもリリアンも、固唾をのんでルナの様子を見守るしか出来ない。
「不肖ルネティオット、僭越ながらご説明申し上げる。──グレース、シャイア」
ルナはグレースともう一人のメンバーを、自分の両脇に立たせた。きょとんとしている二人の顔をそれぞれ覗き込んでニヤリと笑う。
「お前たち、今からちょっと、私を取り合ってみろ」
「えっ……えっ、ルナ様を、シャイアさんと取り合えばよいのですか?」
「そうだ」
「しゃっ……シャイアさん! ルナ様は私のものよ、あちらにお行きになって!」
「まあ、グレースさん! 先にわたくしこそがルナ様を好きになったのよ! あなたこそあちらに行かれてはどう!?」
二人はルナの振袖の袖にしがみついてぐいぐい引っ張りながら口論を始める。ルナはニヤニヤしながらバルコニーにいるフェリクス、アンジェ、リリアンを見上げた。
「これが──よくある、二股だとか浮気だとか、そういったモンだ」
フェリクスが深々と頷いた。アンジェは何が何だかわからないが、とりあえず傾げそうになる首をなんとか縦に振って見せる。ルナはクックッと笑い声を上げ、グレースの背中を叩いて顔を突っ伏した。
「さて、続いて──二人共、今度はイチャついてみろ」
「えっ、ええっ……!?」
「やるしかなくてよ、グレースさん……!」
「シャイアさん、いつもわたくし、貴女の髪が羨ましいと思っていましたの……」
「まあ……わたくしはグレースさんの細くて長い指が好きですわ」
二人は手と手を取って見つめ合い、微笑み合い、頬をすり寄せる。ルナはその二人の肩をがっしと抱き、ぴったりとくっつく二人を少しばかり引き離すと、二人をしっかり両腕に抱くような格好になった。
「これが、いと聡き我が殿下の仰る、挟まった状態」
「…………」
呆然とルナたちを見下ろすアンジェとリリアン。うんうんと嬉しそうに頷いているフェリクス。
「……と、いうことだ! アンジェ! リリアンくん!」
「申し訳ありません……わたくし頭がおかしくなったのかしら……ぜんっぜん分かりませんわ! 結局二股ですの!?」
「違う、まずアンジェとリリアンくんが恋仲になって、僕がそこに挟まるんだ!」
「こっ……恋仲になったら! どなたも、挟まらないで、いただきたいわ!」
アンジェの叫びに、またしても招待客から歓声が上がる。そうよそうよ、お二人はお二人だからこそ至高なのよ! 百合を愛でるなら壁になるべきだ! いくら殿下でも、百合に挟まるなんて言語道断でしてよ! やはりフェアウェルローズ・アカデミー生徒の声が多く、会場は異様な熱気を帯びてくる。
「だいたい……殿下! フェリクス様! 挟まるんだかなんだか存じ上げませんけれど、どのようなお立場でも、リリアンさんの隣にお立ちになるなら、誰よりも彼女を慮り慈しみ愛でるべきでしょう! こんなに愛くるしいリリアンさんを、震えさせて怯えさせて涙を流させるなんて、いくら殿下でもわたくし許しませんことよ! リリアンさんのことはきっぱりすっぱり諦めて潔く身をお引きあそばせ!」
「ああ、アンジェ、そうだ……感情を爆発させる君も素敵だ……!」
「わけの分からないことを仰らないでくださいまし!」
アンジェは抱き着いてこようとしたフェリクスをなんとか押し返すと、隣で呆然としているリリアンの方に向き直った。
「リリアンさん、後生ですわ……貴女がお選びになったことを、わたくし尊重するつもりですけれど、どうか誰がリリアンさんを一番大切になさるか、それをしっかり見定めてからお選びになって……! 殿下でも、彼でも、わたくしでも……」
鬼気迫る勢いでまくしたてるアンジェに、リリアンは怯えつつこくこくと何度も頷いて見せる。
「さあ、どなたをお選びになるの、リリアンさん!」
「リリアンくん、僕を選んではいけない、アンジェを選ぶんだ! そして僕を挟んでくれ!」
「あの……私……」
ぐいぐい迫って来る二人を涙目で見比べると、リリアンはがばりと頭を下げた。
「ごめんなさい、急すぎて今は何も決められないですっ!」
「そう……ですわよね……」
「そう……だな……」
アンジェとフェリクスは、互いに手を取り合いながらがっくりとうなだれたのだった。
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