22-4 供述

 フェアウェル王宮の大広間が、水を打ったように静まり返っている。誰もが息を殺して瞬きひとつせず、次に何が起こるのか──アンジェが何を言うのかを聞き逃すまいとしていた。駆けてきたバルコニーの上で、リリアンが両手を胸の前で握りしめてアンジェを見下ろしている。隣のフェリクスは驚愕を隠し切れていない顔だ。何か言いたそうだが扇子で口許を隠しているイザベラ、怪訝な表情の国王夫妻や他の王族たち。言ってしまった。ついに言ってしまった、こんな大衆の面前で、フェリクスの前で──リリアン本人の前で。アンジェは顔が一気に熱くなる。アンジェの呼気だけが、いやに大きく響いているような気がする。


(……しっかりするのよ、アンジェリーク)


 さようなら、アンジェ様。


 耳に聞こえなかった別れの言葉が、アンジェにもう一度ミミちゃんを握らせた時のリリアンの顔が、胸の奥にこびりついて離れない。


「国王陛下、王妃殿下、フェリクス様、やんごとなき皆々様……大変失礼いたしました。どうか無礼をお許しくださいまし」


 アンジェは真っ直ぐに国王を見上げ、彼の視線が自分を捉えたのをしっかりと見返してから、服の裾をつまんで足を引き、深々と最敬意を表する礼をした。国王は隣の王妃と顔を見合わせ、王妃がひそひそと何かを囁きかける。王も何度か深く頷くと、手すりに手をかけて咳払いをする。


「アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール、我が愛しきフェアウェルの子。聡明なる其方の陳情、まずは聞こうではないか」

「ありがとう存じます」


 アンジェはもう一度頭を下げ、数秒してから顔を上げた。リリアンがこちらを見ている。両手を握り締めて、顔を赤くして、困ったような、怯えたような、あるいは何か言いたそうな顔。貴女は何かを考える時、時々そうして何かを言いたそうだった。その度に何を隠しているのだろうと思っていたけれど。今は、何を隠しているのだろう?


「……リリアン・セレナ・スウィート様は、わたくしのフェアウェルローズ・アカデミーでのスカラバディです。先日の誕生祝賀会でも見事なお菓子をお作り下さり、フェリクス殿下からわたくしと揃いのブローチを下賜された、無二の親友でございます。わたくしは……フェリクス王子殿下と将来を約束しておりましたわたくしは、わたくしがこちらにいて、彼女がそこにおりますことに……戸惑いを覚えております。彼女に、わたくしの気持ちをお伝えしてもよろしいでしょうか?」


 国王は無言で頷き、リリアンの方を見た。リリアンは戸惑った様子でフェリクスを見上げる。フェリクスも戸惑った顔のままだが、リリアンの背中をそっと押した。


「アンジェ様……」

「リリアンさん……」


 アンジェの見上げる先で、リリアンがバルコニーの手すりに手をついて身を乗り出した。涙にきらめく紫の瞳がアンジェを捉える。ああ、やっとアンジェと呼んでくれた。どうかそんな顔をしないで。何も怖いことなど言わないから。


「……アンダーソンさんに、いろいろとお話を聞きましたの」

「はい……」

「聞いてよかったと思いましたわ。でなければ……今の貴女が悲しい顔をしている意味を、推し量れなかったと思いますの」

「…………」


 リリアンは洟を啜りながらアンジェをじっと見ている。アンジェもルナに借りたハンカチで目頭を拭いながら続ける。


「わたくしには想像も及ばないようなご苦労をされて……スウィート男爵のご意向もあって……わたくしとご一緒してくださっている時、どんな思いでいてくださったのかと思うと、わたくし、いたたまれなくて……」

「そんなことありません!」


 リリアンが悲鳴のように叫ぶ。


「アンジェ様は……あ、あ、アンジェ様だけが、セレネス・シャイアン……候補の私、ではなく、ただの、ただのリリアンとして、せ、接して、くださいました! お菓子クラブの人も……殿下も! 全部、アンジェ様が、お引き合わせくださって……勉強も、教えて下さって……」


 リリアンの顔がくしゃりと歪む。


「それなのに……私……アンジェ様の、大切な場所を壊して……」


 ぽろりぽろりと落ちる涙が、手すりに摑まるリリアンの手の甲を濡らしていく。


「ごめんなさい、アンジェ様……ごめんなさい……!」


 リリアンはぎりぎりとアンジェまで音が聞こえるほど強く歯を食いしばり、手すりにしがみついて俯いた。傍らのフェリクスが困惑しつつ、アンジェへの態度と比べると随分控えめにリリアンの背に手を添える。そのままの沈痛な面持ちでアンジェの方を見下ろし、おそるおそる口を開いた。


「アンジェ……弁明をさせて欲しい」

「弁明? どなたの何に対する弁明ですの?」

「後生だ、どれだけ僕を罵ってくれても構わない……話を聞いてくれ」

「聞きませんわ、フェリクス様」


 アンジェはゆっくりと首を振った。


「お優しいフェリクス様……愛しいフェリクス様。わたくしの婚約者でいらしたフェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル様。何かご事情があることくらい、アンジェにも分かりますわ……貴方のお言葉の通り、貴方を信じて、お待ち申し上げていたかった」

「……アンジェ……」


 フェリクスの瞳にはアンジェが、アンジェの瞳にはフェリクスが、それぞれ映り込んでゆらりと揺れる。


「けれど……どんなご事情がおありだったとしても……わたくしではなくリリアンさんと共に立つとお決めになられたのなら、真っ先にあの子を守り慈しんでやるべきではありませんの!? あんなに苦しそうで、泣き腫らした瞼をして……結局フェリクス様も、セレネス・シャイアンが必要なだけで、リリアンさんご自身のことなど見ていらっしゃらないのだわ!」

「アンジェ……」

「リリアンさん!」


 アンジェが叫ぶと、リリアンはびくりと肩を震わせた。


「リリアンさん、……さようならだなんて仰らないで……わたくし、貴女がお決めになったなら、彼でも、……フェリクス様でも! 祝福いたしますわ、それで貴女を見限ったりなどいたしませんことよ」


 アンジェはリリアンただ一人を見上げて語りかける。涙で視界が歪むが、目を閉じてはいけない、彼女をしかと見つめなければ。


「けれど、それなら……幸せでいてちょうだい、幸せに笑っていらして……貴女が笑っていてくださるなら、わたくしはそれでいいの……」


 アンジェは一歩前に出る。リリアンがびくりと身体を震わせる。


「もしも貴女が、セレネス・シャイアンだからですとか、他に行くところがないからですとか……ご自分ではどうしようもないことが理由でそこにいらっしゃるなら……選ぶことなんて出来なくて、そんな悲しいお顔ばかりしていないと立っていられないような場所しかないと仰るのなら……わたくしのところにいらして……貴女が好きなの、リリアンさん……貴女には、笑っていて欲しいの」


 アンジェはリリアンに向かって手を差し出して見せた。


「わたくし、女ですけれど……貴女が笑っていられるよう、全てを尽くしますわ。寂しい時は手を繋いで、悲しい時は涙を拭って、嬉しいことは共に分かち合いましょう。セレネス・シャイアンなんてお辞めになってしまえばよろしいじゃない、わたくしがお慕いしているのは、そんな肩書や能力ではありません事よ」


 リリアンは手すりから目いっぱい身体を乗り出してアンジェを見た。アンジェはにこりと微笑み、零れかけた涙を拭う。


「貴女ご自身でお選びになって……幸せに笑っていられる場所を。わたくしはリリアンさんの決断を尊重いたしますわ。そして……その上で、わたくしをお選びいただけたら、何よりの喜びですわ」

「……アンジェ様……」

「アンジェ……」


 見つめ合う少女二人、口許を押さえて震えるフェリクス。次に誰が何を発現するのか、大広間中の招待客が、アンジェとリリアンの友人が、家族が、ルナが、イザベラが、王族が、国王夫妻さえも見守る──


 がしゃん!

 

 唐突にグラスが割れる音が、緊迫感ある空気を壊した。会場後方、ワインなどを提供するバーの近くから、品のないゲップの音がして周囲の者が顔をしかめる。杖をつき、よたよたと立ち上がった赤ら顔の男、丸々と太ったリリアンの義父、スイート男爵その人だった。


「……ったく、さっきから聞いてりゃ負け犬がぴーぴーぴーぴーうるさいですなあ」

「……負け犬?」

「アンタだよ、アンタ」


 濁った意識の──だからこそ敵意がむき出しの視線がアンジェを捉えた。にひゃりと音がしそうな笑みを浮かべると、真っ直ぐに保つことのできないぐらつく腕を上げてアンジェを指差す。


「王子との婚約解消になったからって、うちの娘を騙そうって魂胆かあ? メスガキが着飾って喚いたって、セレネス・シャイアン様には勝てねえんだよぉ」


 がっはっはっは。下卑た笑いの手本のような笑い方に、周囲はざわついて眉をひそめた。男爵は周囲の反応など気が付いていない様子で、ふらつきながらアンジェの方に歩いて来る。時々よろめいて近くの招待客にぶつかりそうになり、慌てて人々が避ける。


「ガキどもの綺麗ごとじゃ飯は食えねえぞ。きったねえパン屋の娘をあそこに立たせるのにいくらかけたと思ってんだ。金だよ、金カネ。自分で稼いでから愛やら恋やら語れよお」


 バルコニーの上のリリアンの顔から、見る間に感情が消え失せていった。手すりにしがみついていた手をゆっくりと降ろし、その場に棒のように立ち尽くす。


「俺は金が好きだ……どんなに威張り腐ったお貴族様でも、金がなくなりゃ明日は乞食だ。どいつもこいつも俺をバカにしやがって! ようやっと男爵になって、セレネス・シャイアンを手に入れたんだ……行けるとこまで行ってやるぜ」


 男爵はとうとうアンジェの前までやって来た。酒の匂いがあたり一面に漂っており、アンジェも周囲の人々も顔をしかめる。誰の守りもなく立ち尽くすアンジェを、男爵は上から下まで、それこそ舐めて値踏みするように見回すと、はん、と鼻を鳴らした。


「きっれいに着飾ってまあ、お気楽なこった。王子一匹捕まえられないでピーピー泣いて、他になーんにも心配事なんてねえんだろう。その服にいくらかけたんだか知らないが、中身がお行儀ばっかり勉強してる生娘じゃあ、男を咥え込んでおくのは無理ってか、がっはっは」

「なんですって……?」

「お父様、やめて!」


 アンジェは気色ばんで眉を引き上げる。バルコニーの上でリリアンが悲鳴を上げるのが聞こえる。


「ずいぶんお酒をお召しになったようですけれど……お金をお持ちでしたら、殿下への不敬な発言や皆様への粗野な振る舞いも許されるとお思いになっての行動でいらっしゃるの?」

「ああん? 小難しいことばかり言ってて全くもって分かりませんな」


 小馬鹿にしたように耳に手を当ててみせ、げらげらと笑うスウィート男爵。こんな男のために、リリアンはバルコニーに立たされて泣いていた。母の死に目にも会えず、ろくな教育も受けられないまま、フェアウェルローズ・アカデミーに放り込まれた……。


「いいことを教えてやろう……人の生き死にもな、金で買えるんだ。金を持ってる奴が結局勝つんだよ。セレネス・シャイアン様だって金で俺の娘になった……その金も、母親が死んじまったことにすれば俺の懐に戻って来たけどなあ!」

「……今、何と仰いましたか、お父様」

「ああ!? きったねえパン屋のきったねえ母親なんか生きてたってロクなもんじゃねえ、俺が何もしなくても遅かれ早かれくたばってたに違いねえって話だよ」


 その瞬間。


「……まさか……お母さんは……病気じゃなかったの……?」


 目を見開いたリリアンが、自分の両肩を抱いた。そこが竜巻の中心であるかのように突風が吹き出す。


「リリアンさん!?」

「リリアンくん!」


 フェリクスがリリアンに手を伸ばすが、電撃のようなものにばちんと弾かれた。彼の護衛官も同じように弾かれ、フェリクスよりはるか後方まで吹き飛ばされる。リリアンの身体がふわりと空中に浮かび、結い上げていた髪がとけて背中に広がる。その髪の一本一本が白金に発光して空中に浮かぶ。


「お母さん……アンタが……殺したの……?」


 紫の瞳から流れる一筋の涙が、太陽の欠片のように眩く発光する。リリアンは空中に浮かんだまま両手を前に突き出して構えた。それは冬至祭でマラキオンと対峙した時と同じ構えだ。


「クソガキが! 公爵令嬢を失脚させてそこに座らせてやったのは俺だぞ!」

「……アンジェ様も……お前が……!」


 男爵はこめかみに青筋を立てながら吼える。リリアンの瞳の虹彩が紫から金色に変わり、両掌に光が集まって来る。ガラスを掻くような耳障りな音が当たりに響き、招待客が悲鳴を上げる。王族を護衛官たちが守る。


「許さない……許さない……許さない……!」

「やれるもんならやってみやがれ!」

「リリアンさん、駄目よ!」


 アンジェは咄嗟に叫び、リリアンと男爵の間に立ちはだかった。


「アンジェ様……危ないですから……! 私の手なんて汚れたっていいんです……!」

「フェリクス様! 後ろからリリアンさんを捕まえて!」

「おう!」


 フェリクスがリリアンの背後に回る、リリアンは手を振り払おうとするが、フェリクスはなお手を伸ばして少女の手首を掴む。電撃が彼の手を襲い、王子は顔をしかめたが、手は離さずに無理矢理少女を引き寄せ、両腕を抑え込むように抱き締めた。


「殿下っ……離して、離してくださいっ……!」

「駄目だ……リリアンくん、堪えろ……」

「お願いですっ……お母さんが、お母さんが……」

「リリアンくん……!」


 リリアンの髪から光が失われ、もとのストロベリーブロンドに戻る。リリアンはフェリクスの腕にしがみついてわっと泣き出し、フェリクスはその背をそっと撫でてやった。


「……それで恩を売ったつもりか、公爵令嬢! お前をもとの婚約者に戻せってか! おめでたい女だな!」

「何を仰っているの?」


 男爵はその場にへたり込んで口ばかりギャアギャアと喚き立てている。アンジェは彼を見下ろし、チラリと周囲を見回すと、にこりと微笑んで見せた。


「悪人を捕まえるのも裁くのも、セレネス・シャイアンではなく、司法でしてよ」

「父上、罪状なに?」


 すぐ横まで歩いてきていた、警察兵の儀仗服を着た兄アレクが、内ポケットから手錠を出しながら隣の父に尋ねる。


「そうだなあ」


 母と揃いのモーニングの出で立ちで、最高裁判所裁判長のバッジを付けたセルヴェール公があごひげをいじりながら首を傾げる。


「まあ……スウィート嬢の母親の殺害、もしくは殺害教唆。スウィート嬢とアンジェリークへの傷害教唆。子女への心理的虐待、脅迫行為。違法金利営業に、王族への不敬行為。それから、まあ、公爵令嬢への公衆の面前での名誉棄損もつけるかね、現行犯としては。余罪多数は間違いないが……」

「じゃ、それで逮捕で。いい具合に自白魔法にかかってくれたもんだな」

「逮捕の罪状くらい自分で言いなさい」

「いつもは言ってるって。多すぎだよ今日は……」


 兄アレクは呆然としているスウィート男爵の目の前に座り込むと、鬼のような形相で睨みつけた。


「スウィート男爵。諸般の罪の現行犯および自白により逮捕する」


 両手を乱暴に引き上げ、がしゃんと手錠がかけられる。周囲からばたばたとアレクと同じ儀仗服を着た警察兵や衛兵が集まってきて男爵を取り囲み、衛兵たちが引き立てて連れて行ってしまった。


「お父様、お兄様、ありがとうございました」

「アンジェリーク。よく頑張った」

「金も権力も名声もな。てめえの欲望じゃねえ、自分の大事なモンを守るためにあるんだよ」


 父と兄はそれぞれアンジェを抱き締め、その背を優しく叩いた。それは温かくて、アンジェはこぼれた涙を拭いた。




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