22-3 告白
帰り道にある川を渡る橋で、夕陽を見ながら話す時間が好きだった。
「もう……やだ……死にたい……」
学校の自販機でそれぞれ飲み物を買って、欄干に寄りかかりながらちびちび飲む。飲み終わったらなんとなくまた歩き始めるから、少しでも長くいたくて、でもせっかく買った温かいものが冷めるのも勿体なくて、少しずつ。コーンスープの缶を手袋を外した手で包みながら、自分の吐く息が白く曇り、風に流されて行くのを見ている。隣の親友は缶のフタすらも開けず、欄干に突っ伏してばかりだった。祥子はそれを見て苦笑いする。
「もう。何で私より凛子ちゃんの方が落ち込んでるの」
「だってー……悔しいんだもん……」
祥子の目線の先で、ミルクティー色に染めた真っ直ぐな髪が首と一緒にマフラーの内側に入り込んで、縁のところが柔らかくたわんでいる。
「祥子ちゃんのことOKしないとか、ほんっと信じらんない……」
「そう?」
「祥子ちゃん、可愛くて、カッコよくて、頭も良くて、部活もカッコいいとか完璧超人じゃん、なんで駄目なのさ船越いい……」
「あはは、ありがとう、せっかく一緒にチョコ作ってくれたのに駄目でごめん……」
「謝らないでよぉ……」
祥子はため息をつき、親友の肩をぽんぽんと叩き、視線を遠景に移す。川岸はどちらも田んぼや畑、まばらに家があって遠くには冬枯れの山。見慣れた光景は何一つ変わり映えしなくて、心が明るくなりそうなものなどどこにも見つかりそうになかった。
「あーあ。凛子ちゃんが彼氏だったらいいのになあ」
「……何それ」
「優しくて、私のこと大好きじゃん。船越よりめちゃくちゃ彼氏みあるよ」
「何それえ。じゃあ祥子ちゃんが私の彼氏になってよぉ」
「……凛子。好きだぜ」
「……変っ!!! あははははは」
「凛子、愛してるぜ、すぐにでも結婚しよう」
「あはは、あははは、やめてよぉ変すぎて泣けてくる」
親友は顔を上げて、目尻を拭いながら笑った。その顔は少し元気がない以外はいつも通りで、祥子は内心安堵する。
「ねえ、そう言えば、凛子ちゃんはチョコ渡せたの? 確か予備校の人って言ってたっけ」
「あ……うん。渡せたよ」
「どうだった? もう返事きた?」
親友は祥子の顔をまじまじと眺め、それからにこりと微笑んで見せた。
「うん。……今のまま、友達でいようって」
「そっか……二人共失恋だね」
正面から風が吹いて、祥子の髪が後ろになびく。
それを手櫛で直すさまを、親友がじっと見つめていたような気がした。
* * * * *
エリオットが泣いている間、アンジェはぼんやりと祥子の記憶を思い出していた。祥子がアンジェと同じくらいの年頃で、親友の凛子──リリコと一緒に失恋を慰め合った記憶。想い人そのもののことなどもう殆ど覚えていないが、ほろ苦い会話は鮮明に思い出すことが出来た。リリアンのことも、誰かと話しているうちにまた微笑むことが出来るようになるのだろうか。それともずっと、リリアンを見る度に、この胸は痛み続けるのだろうか。
さようなら、アンジェ様。
聞こえなかったはずの言葉が脳内で何度も繰り返す。リリアンはきっと父親──父親と呼ぶのも憚られるあの男が、自分の野望を成就させるべく彼女をがんじがらめに捕えてしまうことを予見していたのだ。企てがフェリクスとアンジェの仲を裂き、リリアンを婚約者に据えれば、アンジェと親密に話せることはもうないのかもしれない。だからアンジェにミミちゃんを託したし、別れの言葉を告げた。少しでも仲違いしない可能性を見出したくて、エリオットに昔話をするように頼みもした──何ひとつ、気にしなくて良かったのに。後からでも、例え嘘でも、言い訳さえしてくれれば、すべて信じたのに。そのまま思考に耽りそうになったが、開会の時間も近づいてきたので、二人は会場に戻ることにした。
「すみません……情けないところを」
アンジェに借りた手鏡で見た自分の腫れた瞼に苦笑いしたエリオットは、指先で瞼を撫でるようにすると、腫れが引き元の通りに戻った。アンジェは思わず感心して彼の手許を覗き込む。
「それは治癒魔法ですの? お上手ですこと」
「ああ、いや……サッカーしてると擦り傷とか多くて。子供の頃も、リコどんくさくてすぐ転んで擦りむいたりするし……自然と覚えました」
「魔法サッカーも、魔法を組み合わせて飛んだり空中を走ったりなさるのでしょう? 才能の一つですわ」
「はは、そうですかね。ありがとうございます」
笑いながらエリオットは手鏡を返し、アンジェはそれをクラッチバッグにしまった。中に入れていた自分のハンカチ、小さな袋に入れてあるリリアンとお揃いのブローチ、アンジェが手縫いしたリリアンのハンカチポーチ、その布団の中でちょこんと寝ているであろうミミちゃんが視界に入る。何でもないことのようにアンジェはバッグを閉じ、にこりと微笑んでみせた。
「……瞼の腫れを取る魔法、わたくしにも出来るかしら。便利そうだわ」
「セルヴェール様、魔法学首席じゃないですか。すぐに出来ますよ」
「そうかしら?」
「なんなら俺、教えますよ」
「まあ本当? ありがとう存じます」
アンジェが微笑んだところで、エリオットが手を差し出した。先ほどのカチコチに緊張していた時よりも随分と自然体で差し出された手に、アンジェは少しばかり驚く。その顔を見て、一度も泣いてないかのようなエリオットが強気に笑って見せた。
「堂々と行きましょう、先輩」
「まあ……生意気を言いますこと」
「そっスね、サッカー部の先輩にもよく怒られます」
「そうでしょうとも」
二人して笑いながら庭園を歩き、待合室に戻ると、やはりその場にいた面々がざわめいた。エリオットは到着時の切羽詰まった雰囲気は消え、胸を張って堂々とアンジェの手を引いて会場へと向かう。グラウンド一面分はあろうかという広大な会場は、大まかに立食エリアとダンスエリアに分かれ、ところどころに長椅子がたくさん置かれている。新年祝賀にふさわしい白と金の飾りがあちこちにみられて華やかな雰囲気だ。もう八割方は入場しているようで、歩くにも人をかき分けなければ前に進むこともできない、といった様相だった。会場には大きなバルコニーがしつらえられていて、そこからフロア全体から庭園までが見渡せるようになっている。王族がバルコニーから登場して国王の玉言を賜り、その後は両脇の階段を降りて臨席するのが例年の習わしであった。バルコニーの下にはオーケストラピットもあり、楽隊が演奏の準備をしている。アンジェはかつて、フェリクスに連れられてバルコニーから階下を見下ろし、拍手と共に階段を降りた。
(フェリクス様……)
ドレスを褒めちぎっていたフェリクス。事あるごとにアンジェを抱き上げるフェリクス。優しい微笑み。柔らかく触れる力強い腕。身をよじっても逃がしてはくれぬ熱い吐息。彼は今、何をしているだろう。衣装は何を着ているのだろう。アンジェと揃いで仕立てたモーニングは日の目を見るのだろうか?
「セルヴェール様、あれ……」
手を引かれるままにぼんやりとしていたアンジェは、エリオットの声に我に返った。エリオットの視線の先、酒類が出されるカウンターのすぐ脇の長椅子に、スウィート男爵がいやに上機嫌に喋り散らしながらワインを煽るように飲んでいるのが見えた。エスコートする相手もおらず一人のようで、通りすがりの人に話しかけては一人で大笑いしている。服装は一応モーニングだが生地も色合いもアンジェには古臭く野暮ったく見えるし、この時間から顔を真っ赤にしてろれつが回らなくなるほど酒を飲むなど無作法もいいところだ(祥子の目線では、居酒屋ではしゃぐ中年サラリーマンに見えた)。アンジェが顔をしかめたのを確認すると、行きましょう、とエリオットも同じ顔をしながら歩き出した。
「リコ……いませんでしたね」
「控室の方にいるのかしら……」
「そういうのがあるんスか」
「ええ、テラスから登場する際はね」
「さすがっスね」
十六歳以上が参加要件の新年祝賀会だが、そこまで参加要件に厳密にしなければならないわけでもない。夏生まれらしいエリオットもまだ十四歳だが、両親に頼み込んで招待状を手に入れたらしい。そのせいなのか、歩いているとサッカー部の上級生からよく声をかけられた。
「おい、エリオット、お前一年だろ! なんでここでセルヴェール様エスコートしてんだよ!」
「ッ疲れっス! 今年は殿下がセルヴェール様をエスコートしないって聞いて、千載一遇のチャンスだと思ってめちゃくちゃお願いし倒しました!」
「んっだよそれ! ずりぃ! 代われ!」
「無理っスやばい可愛いっスいい匂いするっス手ぇ柔らかいっス!」
サッカー部上級生は、何事もフェリクスが基準のアンジェから見れば随分と粗野なふるまいだったが、エリオットは髪の毛をぐしゃぐしゃにされてもどこか楽しそうだった。何よりフェリクスとアンジェの現状やリリアンのことには触れず、エリオットが頼み込んだ、という体裁で話して回るのが、今のアンジェにはありがたい気遣いだった。変に気を遣われるのも、今の心境を遠回しに尋ねられるのも、覚悟はしていてもやはりその数は少ない方が穏やかでいられる。遠くの方で、サッカー部マネージャーのシュミットとその友人らが恨みがましい目線でアンジェを見ているのが見て取れたが、エリオットは無視どころか気が付きもしないようだった。
「アンダーソンさん、ルナがいますわ、合流いたしませんこと?」
「あ、はい」
アンジェが示した先には、ルナとお菓子クラブメンバー、それからルナの兄達が集まっているようだった。ルナには兄が三人いて、一番下の兄がフェリクスと同い年、上二人はどちらも軍人だ。三人ともルナと同じ色の髪の背の高い男たちで、上二人はそれぞれの所属の儀仗服、三人目はルナと同じくヒノモトのキモノを着ている。祥子の記憶を辿ればそれはまさしく裃で、白地の着物に薄ねず色の袴と肩衣が凛々しい出で立ちだった。振袖姿のルナも隣にいるので目立つことこの上ない。少し離れたところに、ルナの両親とアンジェの両親が何か話しているのを見つける。ルナはめざとくアンジェとエリオットを見つけると、いつもよりずいぶん気を遣った歩き方で二人の傍までやって来た。
「よう、ご両人、密会は済んだのか」
「ええ、おかげさまで」
伊達眼鏡越しのルナの目線が、いつもより心配そうに見える。アンジェもエリオットから聞いたことをルナと共有したかったが、周囲に人が多すぎるし、何よりもう時間がなかった。
「リリアンさんの、シルバーヴェイルでのことをお聞きしましたわ」
「そうか……」
「はい」
エリオットも真剣な表情で話題に入って来る。
「セルヴェール様の予知夢では、今日はどんな感じなんスか」
「何だ、予知夢って」
「……『セレネ・フェアウェル』のことですわ。説明が面倒で……」
「なるほど」
ルナはニヤリと笑うと、アンジェの肩をぽんと叩いた。
「この公爵令嬢はな、予知夢の中じゃ、そりゃあもうクソみたいに性格が悪い奴で、子リスのことを虐め抜く。それが愛する殿下の知るところとなって評判は大暴落、今日この新年会で婚約破棄されるって寸法だ」
「何スかそれ、夢見最悪じゃないスか」
「そう思うだろう、少年。だがこの夢は、
「…………」
(本当に……いいシーンでしたわ……)
アンジェは祥子が初めて乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」をプレイした時の記憶を思い出した。
「何スかそれ、感じ悪い。現実と全然違うじゃないスか、リコと殿下が恋仲とか……セルヴェール様、自虐趣味でもあるんスか。そんな夢、ぜんぜん信憑性ないっスよ」
エリオットが顔をしかめつつ言った率直な言葉に、アンジェとルナはそれぞれ目を見開き、それからクスクスと笑った。言葉通り、単なる夢だと笑い飛ばすことが出来れば、どれほど気が楽だっただろう。
「そうね、わたくし、こんなのを信じるなんてどうかしているかもしれませんわ」
「そうっスよ」
エリオットもニヤリと笑ったのとほぼ同時に、楽隊の演奏が始まった。いよいよ国王夫妻ならびに王族のお出ましだ。初めは小さな音でゆるやかに、少しずつ高鳴る和音とリズム。招待客が少しずつ音楽に気付き、隣の者と目くばせして期待に微笑み合う。喧騒は旋律の連なりに取って代わられ、人々はみなバルコニーを見上げ──アンジェは、自分にも視線が注がれているのを感じる。本来フェリクスと共にバルコニーに現れるはずだった公爵令嬢が、これから現れる彼らを見てどんな顔をするのか。悪意ですらない気軽な好奇心が、長い針となってゆっくりと一本ずつ突きさされるようだ。アンジェは手持無沙汰に手許のクラッチバッグの中身を覗き込んだ。何となく持ってきていたブローチを手に取ると、ルナに頼んで胸元につけてもらった。リリアンとお揃いの、サファイアのブローチだ。
「アンジェ。身の振り方は決めたのか」
襟元を整えてやりながらルナがアンジェの耳元で囁き、アンジェはゆっくりと首を振る。
「この目で見て見ないことには……決められないわ」
「ま、そうだよな」
軽い口調で頷くと肩をすくめて見せたルナの気安さが、今はとても温かかった。
音楽の盛り上がりに合わせて王族が現れ、バルコニーの中央で一礼してから立ち位置までしずしずと歩いて行く。イザベラの両親とイザベラが紹介され、バルコニーで一礼する。イザベラは特に若い女性からの人気が高い王族で、優雅に微笑んだ姿にあちらこちらから歓声が上がった。歩きながらイザベラは会場を見回し、アンジェとルナを見つけると、わざわざ扇子を出して口許を隠す動作を見せてから、自分の立ち位置まで歩いて行った。アンジェとルナは思わず顔を見合わせる。
「……なんかあるな、あれは」
「ルナもそう思いまして?」
「理由なくああいう所作をなさる姫御前じゃないだろう」
「確かに……」
アンジェは頷き、もう一度バルコニーを見上げた。
「フェリクス・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル王太子殿下!」
わああっ──
華やかな音楽と触れの声に、姿が現れる前から歓声が上がる。金髪に緑の瞳、端正な顔立ち。背筋を伸ばして武人らしく颯爽と歩く姿。会場の飾りに合わせた白と金のマントの下は、アンジェと揃いのラベンダー色のモーニングだ。バルコニーの中央で非の打ちどころのない礼をすると、歓声はさらに大きくなった。
「フェリクス様……」
柔和な微笑みを浮かべている顔は、アンジェにはどこか少し疲れているようにも見える。あの瞳がわたくしを見た。あの手がわたくしに触れた、あの唇がわたくしに愛を囁いた……。フェリクスは歓声に応えてゆっくりと手を振りつつ、会場に目をさ迷わせる。アンジェは食い入るように彼の顔を見つめる──
二人の視線が、かちりと合った。
フェリクスはアンジェを見て取るや、全身の装い──自分と同じラベンダー色のアフタヌーンドレス、そして「十六人の天使たち」から選ばれた宝飾品を身に着けているのを見て、一瞬顔が華やぐ。次いでアンジェの青い瞳がじっと自分を見上げているのを見返して、ゆっくりと、いつものように微笑んで見せ、脇に退いた。
「ヴィクトル・ヘリオス・フォン・アシュフォード・フェアウェル国王陛下!」
「ならびにソフィア・ヴィオレット・フォン・アシュフォード・フェアウェル王妃殿下!」
最大の拍手と歓声が、国王夫妻を出迎える。英明な国王が慈愛溢れる王妃をエスコートして、二人揃ってゆっくりと一礼する。去年はアンジェもバルコニーの上で、フェリクスに手を引かれながら礼をしたのだ。揃いの衣装も初々しい王子とその婚約者を、招待客はみな微笑ましくも熱狂的に迎え入れた。あんなにも親しみを込めて名前を呼んでくれた国王夫妻は、バルコニーの下から見上げるとなんと遠いところにいるのだろう。隣で微笑んでいるフェリクスは、本当にわたくしの婚約者なのだろうか? それとも今までのことは全て幸せな夢で、ずっとここからフェリクスを見上げていただけだったのだろうか?
楽隊の演奏が終わる。水が引くように拍手が鳴り止む。
「愛しいフェアウェルの子らよ。新年あけましておめでとう」
国王ヴィクトルの深く響く声が、しんと静まり返った大広間に殷々と響く。
「皆と共に新しい年を迎えることが出来たことを、余は何より嬉しく思う。フェアウェルの全てに、
王は傍らに控える王子にちらと視線を遣った。フェリクスは小さく頷くと、踵を返して階下からは見えない位置まで歩いて行く。
「今年はフェアウェル王国にとって記念すべき一年となるだろう。先の冬至祭で、我らはついに聖女セレネス・シャイアンを見出した」
王の声に、フェリクスの足音が重なって聞こえる。どこかの扉が開き、さらりと衣擦れの音──ドレスを着た貴婦人が歩く時の音が聞こえる。アンジェは息を呑み、隣のルナを見る──ルナは顔をしかめてアンジェに手を差し出す。その手を取ろうとした自分の手が、震えていてうまく動かせない。ルナの骨ばった手がそれを捕まえてしっかりと握る。二つの足音が、バルコニー側に戻って来る音。
「セレネス・シャイアン、リリアン・セレナ・スウィート」
王子フェリクスに手を引かれたリリアンが、バルコニーに現れた。
(リリアンさん……!)
ずいぶん久しぶりにリリアンの顔を見たと思った。ストロベリーブロンドは今日は全てアップに結い上げ、金色のサークレットをつけている。ドレスは到って簡素で、白く揺れるチュールドレスに金色の帯飾りをつけただけのものだ。リリアンの華奢すぎるとも言える体形を覆い隠しつつ、聖女らしい神秘的な雰囲気も醸してる。配色はこの会場の飾りつけと同じで、同色のマントを羽織っているフェリクスの隣に立つと、二人で衣装を合わせたように見えなくもない。その胸元に、アンジェと同じお揃いのブローチが、控えめに添えられていた。
リリアンは入学式よりもさらに緊張していた。もはや恐怖していると言っても過言ではなかった。ずっと震えていて、顔は服と同じくらい真っ白になってしまっていて。瞼は腫れており、先ほどまで泣いていたのかもしれない。寄り添うフェリクスは僅かに微笑みながら、震えている少女の肩にそっと手を置いてやっていた。
「セレネス・シャイアンが降臨すれば、
(リリアンさん……顔色があまり良くないわ……)
(冬至祭から今日まで、どこでどのようにお過ごしになっていたの……?)
(お母様のこと、アンダーソンさんに教えて頂きましたのよ、リリアンさん……)
アンジェは心の中で必死にリリアンに語りかける。国王の声はあまり耳に入ってこず、思考の端を上滑りしていく。
(どうして泣いていらしたの……? 何が貴女を苦しめたの?)
(隣に立つフェリクス様とは、どんなお話をなさったの……?)
「フェアウェル王国が千年も万年も栄える歴史の礎が、今ここに築かれようとしている」
(わたくしがここにいること、気が付いてくださるかしら)
(お願い……リリアンさん)
(わたくしの近くに、いなくてもいいから……)
(どうか、笑っていてちょうだい……)
「かつて
イザベラよりも小柄なリリアンは、アンジェの位置からは柵に隠れて顔と鎖骨辺りまでしか見えない。ブローチのあたりを握り締める手が震えているのが見える。紫の瞳に涙が溜まってきているのが見える──
「我が治世、そして我が息子フェリクスの治世もより盤石とし、フェアウェル王国を千年王国たらしめるためには、セレネス・シャイアンの力の継承が何よりも肝要である」
「────!」
アンジェは、青い瞳を見開く。
リリアンがぎゅっと瞳を閉じて俯き、フェリクスが唇を噛む。
「それゆえに、余は、我が息子フェリクスを、セレネス・シャイアンたるリリアン・セレナ・スウィートに
音のないざわめきが、大広間の空気を揺るがす。誰も声を発していないはずなのに、互いに顔を見合わせ、息を呑み、口許を手で隠す、些細な動作の連なりが、どろどろとした液体となってこの大広間に満ちていくかのように広がっていく。
「……アンジェ」
ルナが囁きながらアンジェの肩を掴んで引き寄せ、それでアンジェは自分が倒れかけていることに気が付いた。
「先輩、しっかり」
反対側をエリオットが支える。アンジェは必死に頷き、二人の手に縋って必死にその場に立つ。
フェリクスも、リリアンもこちらを見ない。国王の声など聞こえない。婚約破棄。そう、婚約破棄なんだ。わたくしは結局、フェリクス様を失ってしまった。仕方ない。分かり切っていたことだ。少しばかり未来を知っているから、うまくやれば運命を変えられる気がしていた。愛しい人、愛しかった人。手の届かないところに行ってしまったフェリクス様。何の知らせもなしに告げられたわたくしはどうすればよいの。あの日、僕を信じてくれと仰ったのは何でしたの? いけない、涙がこぼれてしまう。
「…………っ……」
わたくしはいい、もう終わったのだから。隣には支えてくれる友人がいる、温かく迎えてくれる両親がいる。けれどリリアンさんは? わたくしを捨ててあの子と一緒になると決めたのなら、わたくし以上に大切になさらなければ駄目でしょう。この晴れの舞台で、誰よりも繊細なあの子が恐怖で震えているのが、今にも泣きそうになっているのが分からないの?
「来月の王子の生誕祝賀会の際、改めて婚約を成立させるものとする」
駄目よ、駄目……アンダーソンさんもダメだと思っていたけれど、フェリクス様でも駄目だった。フェリクス様、わたくしのことは、セレネス・シャイアンではなくアンジェを愛すと仰ってくださったのに、リリアンさんのことはそうはお思いにならないの? 王国を盤石にする道具のように思っていらっしゃるのかしら? そんなの駄目、許せない……リリアンさんは誰よりも、ご自分がセレネス・シャイアンであることを嫌がっていたのよ……。
「この良き日をもって二人の仲を皆の知るところとしたい」
リリアンさん。貴女はそれでよろしいの? それともまた、あの小汚いスウィート男爵に無理やり承諾させられたの? あるいは大神官や国王陛下がそうしろと仰ったのかしら? ──何も知らないくせに! リリアンさんはアンダーソンさんが好きなのよ。彼を想って泣いてしまうくらい、真剣に、彼のことが好きなのよ……。
「我が民、愛しいフェアウェルの子らよ。苦難の時代を乗り越えるために手を取り合う二人を、どうか祝福してほしい」
国王の言葉が終わり、余韻が大広間の中に広がり、それも消える。
どこからともなく、ぱらぱらと拍手が始まった。だんだんとその数が増え、一帯が拍手の洪水となり、大広間の壁を、床を、アンジェの心臓をびりびりと震わせる。
(……違う……!)
リリアンさんが彼を好き? それが何だというのだろう。わたくしがリリアンさんを好きなのだ。好きで、好きで、どうしようもないほどに愛してしまっているのだ。あんな顔をしないでいて欲しい、何よりも美しく可愛らしく笑っていて欲しい。フェリクス様でも、アンダーソンさんでも、隣で幸せそうに笑っていられるなら、悲しいけれど諦めがつく。でも、ほら……泣いてしまっている、あの子、泣いているわ! どうして誰も涙を拭いてあげないの、あの手を取って、安心させてやらないの……。
「……アンジェ」
拍手の中、ルナがアンジェの背中をどんと叩いた。アンジェはぼたぼたと落ちる涙を拭いもせずにルナの顔を見る。ルナは自分のハンカチでアンジェの顔を拭いてやる。
「行って来い」
「え……」
「相手はどっちだっていい。今を逃したらもう一生言えないぞ。死ぬ時に後悔するんじゃ遅いんだ」
「そうですよ、先輩」
反対側のエリオットが、彼もぼろぼろ泣きながら頷いている。
「俺は……無理です。ここにいるのが精一杯です。でも、セルヴェール様、行ってください。俺は後悔しながら生きるって決めたけど……貴女は行ってください」
アンジェの手の中に、ルナは自分のハンカチを押し込み、もう一度背中を叩いた。割れるような拍手。微笑んでいる国王夫妻、真剣なまなざしのフェリクス、俯いているリリアン。そうだ、行かなければ。リリアンさんが試合に行かなかった時も後悔しそうになった。今、わたくしも、行かなければ。
「……行って来るわ」
「おう」
「頑張れセルヴェール様!」
おそるおそる前に出した足は、歩き始めるとどんどん早くなった。人ごみをかき分けて前に進む。皆の視線が自分に集まるのが分かる。誰が見ているだろう。両親や兄は見るだろうか。アカデミーの友人たちは? あの鼻持ちならない男爵も見るだろうか。父の友人、兄の友人、たくさんの人たち。皆がわたくしを見ている。礼儀にかなっていない、恥ずべき行為だとわたくしを罵るだろう。でも、今、言わなければ。ミミちゃん、どうか力を貸して。
どちらに、何を言っても、構わない。
「──アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールです!」
バルコニーの正面に来て、アンジェは息も絶え絶えになりながら叫んだ。王族たちが皆一斉に自分を見る。全員の名前を知っている。国王も王妃も、王族たちも、フェリクスも、リリアンも。アンジェはフェリクスの驚愕した顔と、リリアンの不安げな顔をそれぞれ見比べ、涙を拭き、唇を引き結んだ。
「リリアン・セレナ・スウィートさん!」
リリアンの紫の瞳が見開かれる。
そう、リリアンさん。どうか泣かないで。お願い。
「わたくしは……貴女が好きです! リリアンさん!」
アンジェの心からの叫びが、大広間中に響き渡った。
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