22-2 聖女として覚醒しましたが私の人生ハードモードです

 フェアウェル王室主宰、新年祝賀会は、王宮の一番大きな大広間で開催される。国内の貴族はもちろん、豪商や著名な作家、歌手や俳優など芸能に秀でたもの、スポーツ選手、優秀な研究者なども招かれる。王国で最も重要な社交の場であり、王家や政府の発表の場となることもしばしばあった。


 参加要件は十六歳、社交デビューしていることだったが、アンジェはフェリクスの婚約者として、彼が十六歳になった時から出席している。フェリクスのデビューに寄り添うために初めてイブニングドレスを着たアンジェを見た時、王子は感激に目を潤ませ頬を赤らめ、アンジェを抱き締めた。自分のデビューの祝辞を言われる度に隣のアンジェを褒めちぎり、アンジェ自身が十六歳となり正式にデビューする際にも必ず自分がエスコートする、自分がプレゼントしたドレスと宝石を身に着けてもらうのだ、と公言して憚らなかった。そうしてアンジェのデビューをずっと心待ちにしていて、ようやっと先日の誕生日に宝飾品をプレゼントしたところだった。新年会のドレスデザインの際は自分も一緒にル・ポン・ドゥ・リューズを訪れ、アンジェよりも熱心に生地を選びデザイン選択に唸り、自分の揃いのモーニングと燕尾服も注文していった。両親には伝えていないが、大神殿禁固から解放された翌日の朝、少し寝坊したフェリクスは腕の中にアンジェがいることに感涙し、朝食も公務も後回しにしてアンジェを愛した。滞在する際も客室ではなく自分の部屋にいてほしいと懇願し、公務の合間にしょっちゅう戻ってきては本を読んでいるアンジェの邪魔をして、食事は相変わらず王族に混じって自分の隣に座らせ、夜は夜でまた離そうとせず──そのフェリクスが、アンジェが帰宅した途端に新年会のエスコートを放棄するなど、どうしても考えられなかった。


(けれど……これでいいのかもしれない)


 両親、兄アレクと共に馬車に揺られながらアンジェは思う。


(セレネス・シャイアンでなくても……古き魔物マラキオンの愛し子が公になったら、本当に、お見限りになられるかもしれないわ……)


 今日のドレスは昼も夜も淡いラベンダー色だ。昼は可愛らしい花の刺繍が鮮やかで、夜は何段にも重ねたチュールレースがだんだんとピンクに変化していく。アクセサリーはどちらも「十六人の天使たち」から、昼は控えめに、夜はティアラもつけて豪奢に装う予定だった。エスコートを拒否されたのは数日前だったし、どんな形であれ、用意されたものは大切に纏いたかった。


(これが、最後になるのかもしれないのだし……)


 馬車が王宮につき、先日の正門前ではなく、専用の馬車寄せに止まった。既に多くの馬車がたくさん止まっていて人がぞろぞろと降りてきている。入り口前では待ち合わせをしている者たちだろうか、人だかりもいくつかある。父が母を伴って馬車を降り、兄アレクがアンジェの手を取って降りる。アンジェがピンクのきらきらインクの件を家族に話したところ、これも悪戯かもしれないし、この手紙を書いた時点では相手は本気でも、翻意したり都合が悪くなるかもしれないからと、相手が見つからなければやはり兄アレクがアンジェをエスコートすることになっていた。


 アンジェが馬車から降りると、周囲の人だかりがざわりとさざめく。


「…………」


 兄アレクは舌打ちしつつ、何食わぬ風で妹の手を取った。兄はこういう場ではきらきらと着飾るよりも警察兵の儀仗服を着ることを好む。フェリクスよりもやや背の高い兄アレクの鋭い視線が、人ごみを縫うように彷徨う。


「青い髪、って言ってたな?」

「はい」


 アンジェも同じように周囲を見回し──グレーの髪を高く結い上げ、祝賀会と同じような、だが色と模様が違うキモノに身を包んだルナがこちらに歩いてきているのが見えた。周囲にはお菓子クラブのメンバー、ルナのスカラバディ、そして彼女らに取り囲まれて緊張に口を真一文字に引き結び、それでも背筋を伸ばして歩いている青い髪の少年、エリオット・アンダーソンがいる。エリオットはアンジェを、隣にいる兄アレクを見てギョッとしたが、それでも真っ直ぐこちらにやって来た。


「……あれか? ルネティオットちゃんと一緒にいる……」

「はい」


 ルナが手を上げてニヤリと笑う。お菓子クラブの面々が心配そうな顔で駆け寄ってくる。


「新年あけましておめでとう、アンジェ、兄上」

「おう、おめでとうルネティオットちゃん、キモノ似合うな」

「兄上も儀仗服がよくお似合いで。誠に勇ましい、まさしく武士もののふとは兄上のことでしょう」

「モノノフ?」

「アンジェ様!」

「アンジェ様、お元気でしたか、わたくしずっと心配で」

「鼻持ちならない噂ばかり聞いて、すっかり痩せてしまいましたわ!」


 アンジェを取り囲んで大騒ぎする一同。アンジェが微笑み挨拶を交わす中、エリオットは少し離れたところから惚けた様子でアンジェをじっと眺めていたが、アンジェと視線が合うと、ギョッとした後、またしても口を真一文字に結んで見せた。


「……お迎えに上がりました、アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール公爵令嬢」


 アンジェは兄を見上げる。兄はまだ心配そうな顔をしているが、アンジェの手を叩き、自分の腕から外させた。エリオットがごくりと喉を鳴らす。アンジェを取り囲んでいたお菓子クラブのメンバーがさっと横に避ける。


「俺みたいな……子爵令息ごときが、セルヴェール公爵令嬢のエスコートなど、分不相応かとも思いましたが……どうしても、お願いしたくて……」


 緊張して言い淀んでいる様子が、どことなくリリアンと似ているような気がした。見劣りしないように、精一杯気を遣って手を差し出してきているのが分かった。長い時間を一緒に過ごしていると、喋り方や仕草が似てくることがあるのだという。彼とリリアンがシルバーヴェイルで過ごしていた時は、どれくらいの距離感で接していたのだろうか? 前は考えるだけで胸の奥が重苦しくなったはずなのに、今は不思議と、少しばかりささくれ立つ程度で済んだ。アンジェはにこりと微笑むと、差し出された手に手を添える。


「生憎わたくし、未だにフェリクス様一筋ですのよ。でも今日は手が空いてしまったので、よい遊び相手になってくださいましね」


 いつかの台詞の応酬をされてエリオットはギョッとして真っ赤になり、ルナがごふっと噴き出して爆笑した。兄もギョッとし、お菓子クラブの面々もきゃああと声を上げるが、アンジェはさっさと歩き出し、エリオットも慌ててその隣に並んだ。ハイヒールを履くとアンジェの方が少しばかり背が高いだろうか。周囲がざわめいている。見て、セルヴェール嬢よ。もう他の男を連れているの? あの方、サッカー部の一年生ではなくて? お手が早いこと……。今日はどうなることやら……。あれこれ言われることにアンジェ自身は慣れているつもりだったが、エリオットはどうだろう? アンジェの手を引いて歩いている少年は、何か思い詰めた様子で、周囲の声などまるで聞こえていないようだった。


 正面入り口の受付で、二人はそれぞれ招待状を見せ、中に招き入れられる。開会はまだだがもう待合室も大広間も開け放たれていて、かなりの人出がある。アンジェが通る度に、その手を取る少年を見る度にあちこちでざわめきが起きる。少年はさすがに顔をしかめたが、ずっと辺りを見回し、何かを探している様子だった。


「すみません、先輩、俺、その……無作法で、嫌な思いをさせてしまうかもしれません」

「……無作法とは、心が相手に向いていないことを指しますわ。貴方の手は嘘偽りのないことくらい、わたくしにも分かりましてよ」

「すみません……」

「それで……何を探していますの?」

「……怪しくなくて、人けがなくて、話せるところです」


 エリオットはアンジェをじっと見る。


「俺……話します、リコのこと。俺が知ってること全部」


 若きアスリートの真っ直ぐなまなざし。リリアンが何度も覗き込んだであろう、少年の瞳の深い青。


「リコにそう頼まれました。せめて、アンジェ様……セルヴェール様に、知っていただきたいと」

「……わたくし、リリアンさんにお手紙を出していたのですけれど、一通もお返事が来ませんでしたの。貴方はリリアンさんとやりとりができましたの?」

「俺は……その……鳥とか、リスとかが届けてくれるので、なんとかやり取りできました」

「まあ……」


 さして驚かなかった様子のアンジェを見て、エリオットはプッと吹き出して笑った。


「なんだ、セルヴェール様も知ってるんスね、あいつが動物と話せるの」

「え、ええ……」

「とにかく時間がありません。せめて……あいつのこと、ちゃんと知ってから、この後のことを見て欲しいんです」

「この後? どういうことですの?」

「全部話します。どこかいいところありませんか」

「それでしたら……」


 アンジェは心当たりを思い浮かべ、にこりと微笑んで見せた。





*  *  *  *  *





 アンジェとエリオットは温かいお茶とブランケットをもらうと、待合室から出られる庭園へと出た。大きなパーティーでは庭園の散策も自由に出来て、この時期はあちこちに魔法火鉢も置いてある。アンジェは記憶を頼りに庭園を進み、少し奥まったとこにある小さな東屋に辿り着いた。


「……こんなところがあるなんて」

「フェリクス様のお気に入りなんですのよ」

「え、俺なんか連れてきて良かったんスか」

「まあ……いいのではなくて?」


 ほとんど人通りのない東屋にも、ちゃんと魔法火鉢が置いてあった。待合室や大広間からは死角で少し距離があるが、周りは開けているので誰かが立ち聞きするのも難しいだろう。フェリクスはよくここにアンジェを連れてくると、手を取り肩を抱き頬を寄せ、とりとめもないことを時間も忘れて語らい続けた。去年の新年祝賀会もそうだったかもしれない。懐かしい思い出にアンジェが微笑むのをエリオットはじっと見ていたが、手にしていた飲み物をテーブルに置くと、椅子の一つに腰掛けた。


「セルヴェール様も、かけてください。……あっ、すみません」


 少年は慌てて立ち上がると、ぎこちない手つきでチェアサービスをする。アンジェはクスクスと笑いながらそれに応じ、自分の飲み物をテーブルの上に置いた。


「お話があるからわたくしを誘ってくださったのは分かりましたけれど、もしそうでなかったらどなたをお誘いになるおつもりでしたの?」

「……そりゃあ、リ……」


 エリオットは今一度席に着きながらしかめ面になるが、耳の先の方が赤い。だがそれもすぐに消えてしまい、希望の潰えた悲しげな顔で、ゆっくりとため息をついた。


「聞かないで下さいよ、そんなこと……」

「……それは、ごめんなさいね」

「いえ、それより、全部話すとは言いましたけど、先にセルヴェール様が知ってることを教えてもらえますか。でないと俺も混乱しそうで」

「存じている、……というのは、リリアンさんのことについてでよろしいの?」

「はい。あいつの生まれとか。家のこととか……」

「そうですわね……」


 アンジェは顎に手を当てて考える。


「リリアンさんがセレネス・シャイアンなのはもう公になりましたものね……他に存じ上げていると言ったら……」


 シルバーヴェイル出身なこと。父親は実の父親ではなく遠い縁戚であること。母を亡くしていて、うさぎのミミちゃんが形見なこと。動物と話せること。お菓子作りが好きで得意なこと。読み書きを始めたのがつい最近なこと。現在所属する一年生の年齢より一つ下の十三歳であること。それから幼馴染の少年に恋をしていること、と言いかけて、アンジェは口をつぐんだ。それはたとえ事実でも、本人でもないのに安易に言うべきことではないだろう。アンジェが指を折り数えるようにして言うのを、エリオットは時々頷きながら聞き入っていた。


「割と知ってますね……あいつがセレネス・シャイアンだと知ったのは、いつ頃だったんですか?」

「それこそ、ご本人にお会いする前からですわ。……予知夢を見ましたの」


 本当は乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」のシナリオと重要設定で、目の前の少年も攻略対象の一人だ。アンジェはそう言いたかったが堪えると、エリオットはマジかよ、と目を見開いた。


「じゃあ……最初から知ってたのに……あいつをスカラバディにしたんスか」

「ええ……」

「ゆくゆくは王子殿下と結婚……ご自分から王子殿下を奪うかもしれないってのも、分かってたんスか」

「分かって……いるつもりでしたの。だから初めは、出来るだけ接触しないでいようと思っていましたのよ。けれど……」


 アンジェは言葉に詰まった。入学式の日、リリアンをこの目で見るまでは、アンジェは確かにリリアンと会うことを恐れていた。フェリクスとリリアンが出来る限り接触しないことを望んでいた。


「けれど……リリアンさんが……」


 見た瞬間の、世界中の鐘が打ち鳴らされたような衝撃。


「あまりに……可愛らしくて……」


 近くにいると蕩けてしまう。

 もっと貴女を知りたい、笑ってほしいと願ってしまう。


「笑っていただいてよろしくてよ、わたくし……リリアンさんに、恋をしてしまったようなの」

「え゛ッ!!!!!!!」


 エリオットは素っ頓狂な声を出し、何故か椅子ごと後ろにひっくり返った!


「きゃあ、もし、お怪我はなくて!?」

「せ、せ、セルヴェール様が、あいつに!? こここ、恋っ!!!???」


 反射神経が良いのだろう、頭は打たなかったらしいエリオットが、顔を真っ赤にしてよろよろと起き上がる。アンジェも立ち上がって少年の椅子を立て直してやると、エリオットはぺこぺこと頭を下げ、腰をさすりながら椅子に座り直した。アンジェも自分で椅子を引いて自席に戻る。


「おかしいでしょう? 女の私が、リリアンさんのような女の子に……それも、自分の婚約者を奪うかもしれないお相手に……」

「全然ッス」


 エリオットは持ってきたお茶を一口飲むと首をぶんぶんと振り、ニカッと嬉しそうに笑った。


「気持ち、分かります。あいつ可愛いですから。俺もリコのこと好きです」

「……そうだろうと思ってましたわ」

「あれ、バレてましたか。くっそ」


 エリオットはがりがりと頭を掻いた。アンジェは笑いながら頷く。


「少しあけすけすぎますし、からかいの度が過ぎていましてよ。あれではいくらなんでも可哀想よ」

「ええー……」

「……仲良くじゃれ合うお二人を見て嫉妬するくらいには、わたくしも本気でお慕いしておりますのよ?」

「ええー……そっスか……えっじゃあ殿下は?」

「……フェリクス様へのお気持ちが、変わったというわけでもないの……」

「なるほど……まあ別腹感はありますよね……」

「失礼ね、わたくし真剣に悩んでおりますのよ」

「サーセン……」


 エリオットは顔を真っ赤にして視線をあさってに彷徨わせていたが、違う違う、と自分の膝を叩き、面差しを正した。


「その……俺もずっと、あいつがセレネス・シャイアンだと知ってました」

「そう……」

「というより、……リコが覚醒する瞬間に、一緒にいたんです」

「え……?」


 エリオットによれば、動物と話せたリリアンは、子供のころから森に入り浸り、動物と話してばかりいたそうだ。エリオットもよく遊び相手になって、彼も一緒に動物と遊んでいたらしい。森にはリリアンと特別に仲の良いうさぎがいて、リリアンがミミちゃんと名付けたらしい……。


「ミミちゃん?」


 思わずアンジェが聞き返すと、エリオットは頷いた。


「ミミちゃんです。最初は本物のうさぎの名前だったんです」

「そう……」

「ミミちゃんは結構年寄りのうさぎでした。動きが遅くて、どんくさいリコでも簡単に捕まえられて。よく鬼ごっこをして遊んでたっけな。けどある日、リコが五歳くらいだったかな。森に行っても、ミミちゃんが全然見つからなくて。鳥とかリスの話を聞くと、狼だかキツネだかに食われちまったみたいで……リコは泣きながら、三日は探し続けてました。見つけた時は……分かるでしょう、俺でもキツかった」


 エリオットはその時の様子を思い出したのだろう、沈痛な顔でうつむいた。


「リコはそりゃもう、手が付けられないくらいに泣いて……ミミちゃんに向かって手をかざしました。ミミちゃん生き返らせてあげるって……もともと魔法が上手い奴でしたけど、身体全体が光って──うまく言えないんですけど、ミミちゃんが治ったんです、見た目だけ」

「……生き返ったということですの?」

「いえ……見た目が、傷がない状態に戻ったって言うんでしょうか。寝てるみたいにはなったけど、動くことはありませんでした。それで見たら、リコの髪の毛の色が、今みたいなピンク色に変わってたんです。あいつもともとは、セルヴェール様みたいな普通の赤毛だったんですよ」

「まあ……」


 リリアンがセレネス・シャイアン候補だと見出されたのは、ある日突然髪の色が変わったからだと何かで聞いていた。あれは何もない時に突然変化したのではなく、魔法を使った影響だったのか。


「そうしたら……信じられないことばっかり言うんですけど、辺り一面が眩しくなって……冬至祭で見るようなヘレニア様が現れたんです。真っ白で、めちゃくちゃ光って眩しくて、直視できなくて」

「えっ……ヘレニア様がご降臨なさったの!?」

「はい。それで……『セレナ、泣くな、セレネス・シャイアンでも死んだ魂を復活させることは出来ない』みたいなことを言って……リコを慰めてました。ヘレニア様はすぐに消えたんですけど、リコの髪は元に戻らなくて。親に見つかって、脱色剤で遊んだんだろうってずいぶん怒られましたけど、神官様がこの子はセレネス・シャイアン候補かもしれないって言ってくださって、ようやく収まりました。候補ってだけでもすごい大騒ぎだったので、リコと俺で、セレネス・シャイアンそのものだってことは秘密にしようって言ってたんです。リコは綺麗になったミミちゃんの亡骸を自分の家の庭に埋めてお墓を作ってました。見かねたリコの母親が、ぬいぐるみのミミちゃんを作ってやってました」

「……そう……」


 アンジェは頷くので精一杯だった。動物に触れ、楽しそうにしていたリリアンの様子が思い出される。人間の友達と接するように、あるいはそれ以上に親しみを込めて話しかけていたリリアン。仲の良かったうさぎが死んでしまって、生き返らせたいと願ったリリアン……。繊細で優しい彼女ならやりそうな事だと思った。ずっと落ち込んでいたに違いないリリアンを思って作られたのが、あのミミちゃん人形だったのか……。


「それから何年かは何もなかったんですけど……リコの親父さんが、流行り病で亡くなってしまって、家が一気に大変そうになりました。あいつの家、パン屋だったんですよ。めちゃくちゃ美味しかったんです」

「まあ……パン屋さん?」

「はい。時々、隅の方で、リコが作った焼き菓子なんかも置いてあって、人気の店でした。けど親父さんが亡くなってからは、やっぱり母親と二人だと、生活もお金も大変そうでした」

「それで、スウィート男爵から養子の話が来ましたの?」

「……ッ」


 エリオットはスウィート男爵という言葉が出た瞬間、ぎろりとアンジェを睨む。アンジェは一瞬怯むが、彼がそうするだけの理由が分からず、躊躇いがちに言葉を続ける。


「……遠縁のご親戚なのでしょう?」

「親戚なんかじゃないです」


 エリオットは吐き捨てるように言った。


「あの男は……リコの親戚なんかじゃない。全然関係ない、ただシルバーヴェイルの近くのお屋敷の抵当を持ってるってだけの、全然関係ない他人です」

「え……」

「リコは普通の平民です。あいつんち、パンを俺の家に納品してて、配達の時によくリコを連れて来てました。俺たち年が近かったし、小さい頃のあいつ、目がくりくりしてて本当に可愛かったから、仲良くなりたくて……身分なんて気にせずに一緒に遊んでました。アイツはただのパン屋の一人娘です。あんな奴と縁続きなんかじゃないです」


 エリオットはテーブルの上に乗せた拳をぎりぎりと握り締めた。身体が怒りで震えている。東屋に冷たい風が吹き込んできて、アンジェは持ってきたブランケットを羽織る。


「これは……リコから、フェアウェルローズで再会した後に聞いたんですけど」


 エリオットは、震えを押さえられないまま続ける。


「俺……初等学校から首都セレニアスタードだったんで、年単位でリコと会ってなかったんです。そこそこ可愛い子もいたし、リコのこと、正直忘れかけてて……だからフェアウェルローズで再会して、めちゃくちゃビックリしました。しかもなんか苗字が違って……。そしたら、養子になったんだって聞いて。その時にはもう、母親も死んでて……」

「それは……残念なことね」

「…………」


 エリオットがリリアンから聞いたところによると、ある日シルバーヴェイルの小さなパン屋に、スウィート男爵の使いという者が訪れたらしい。お嬢さんをぜひとも養子にしたいと。セレネス・シャイアン候補である彼女に、ふさわしい教育を授けてやらないかと。母親には、応じれば相応の謝礼は支払うし、娘は丁重に育てる、時々面会しても構わない、と言った。娘には、母親も苦労している、君が離れて謝礼を受け取らせてあげれば、何よりの親孝行になる、と説いた。他に身寄りのない二人は悩んだが、母の苦労を思う娘は、男爵の申し出を受ける決断をした。母親は泣きに泣いたが、娘が幸せになれるならと、その決断を受け入れた。一張羅の晴れ着や、今までのお菓子のレシピを母親が書き貯めたノートをトランクに詰めて、また会いに来るね、お母さん、と言ってリリアンは旅立った。


「それが……母親を見た最後だったと、言ってました」


 首都セレニアスタードのスウィート男爵邸にやって来たリリアンは、シルバーヴェイルでは見たこともないような立派な屋敷に驚いたらしい。到着してどこかの部屋に案内され、すぐに着替えて旅の汚れを落とすように、荷物はこちらで預かるから、と言われ、素直に使用人に預けた。それ以後、服も荷物も二度と戻ってくることはなかったそうだ。


「ミミちゃんだけ……あいつ、ミミちゃんに話しかける癖がありますよね? 馬車の中とかでも同じようにポケットに入れてたみたいで。着替えの時に一人になって、前の服から新しい服のポケットに移し替えたから、気付かれなかったみたいで。……メイド長に荷物のことを聞いたら、あんな汚いものはすぐに燃やしてしまった、蚤がいたらどうすると言われたそうで……あいつの家、パン屋ですよ。綺麗にしてるに決まってるじゃないですか」

「…………」


 アンジェはお茶を飲むのも忘れて、呆然と話に聞き入る。ミミちゃんを失くした時、あんなにも怯えていたのは、ミミちゃんがたった一つ残された母親の形見だったからなのか。取り上げられるのではなく、処分されるのを恐れていたのか……。


「それから、フェアウェルローズ入学まで、ほぼ軟禁状態だったそうです。何としても今年に入学しろって……さもなくば、今までお前に払った金をシルバーヴェイルの母親に請求するぞ、と言われて必死だったみたいです。母親の危篤の連絡も遅れて、……死に目にも会えなくて……」

「……どうしてそんなに、今年の入学にこだわったんでしょう? リリアンさんなら、一年しっかり勉強すれば、相応の実力を得られたはずよ」

「……分かりませんか、セルヴェール様」


 エリオットがため息をつき、毒を孕む笑いを浮かべた。


「……フェリクス王子殿下ですよ。殿下は今年でフェアウェルローズを卒業します。何もなければ、卒業してすぐにセルヴェール様と結婚しますよね。だから何としても今年に入学して、この一年で王子に近付いて、親密になって……セレネス・シャイアンであろうとなかろうと、殿下と結婚しろと。結婚して、スウィート男爵を王族の姻族にしろと。そういう魂胆なんです」


【これはこれは、はは、直々のお言葉、このような娘に恐縮です】


 スウィート男爵の乾いた口調と、アンジェを値踏みするような視線が蘇る。


「……なんて……こと……」

「あっ誤解しないで下さい」


 アンジェの顔から血の気が引いたのを見てとって、エリオットは慌てふためいた。


「あくまでもスウィート男爵の企みで、リコは嫌がってます、無関係と言っていいくらいです。お二人のこと、子供の頃からめちゃくちゃ憧れてて……」

「無関係……?」

「それに、あいつ、セルヴェール様のこと大好きで。可愛がってもらえてるのが嬉しいみたいで……裏切るようなことは絶対嫌だって、よく言ってました」

「…………」


 アンジェは驚愕も憤怒も通り越して、ただただ呆然とするしかできない。エリオットはあどけない顔を今にも泣き出しそうなほどに歪めたが、その顔のまま、諦めたものを吐き出すように大きく息を吐いた。


「……もう、リコの意思とか気持ちとか、全然関係ないんですよ。どんどん勝手に進みます。生徒会に入って生徒会長付になって……生徒会長付だけ、昼に集まる回数多すぎですよね? クラスメイトに嫉妬されて無視されてる体裁とか、セルヴェール様の嫌がらせに見えるような事故とか……今回の魔物騒ぎだって、分かったもんじゃないですよ」

「ま、待って、お待ちになって!」


 アンジェは思わず立ち上がってエリオットの話を遮った。


「何を仰っているの!? 確かに何か、見えない力のようなものを感じていましたけど、それが全てスウィート男爵の企みだと仰るの!?」

「全部かどうかは分かりませんけど……たぶん大体のことは……」

「どうして……そんなことが、可能ですの!? どれだけの人に指図を……言い方は失礼ですけれど、男爵家でしょう!?」


 テーブルに手をついて身を乗り出したアンジェを、エリオットは驚いた顔で見上げた。彼が言葉に詰まった空白の間に、東屋に冬の冷たい風が吹き荒ぶ。二人とも肩にかけていたブランケットをしっかり被り直し、アンジェはごめんなさいと言いつつ席に着く。エリオットはゆっくり首を振ると、獲物を横取りする獣を侮蔑するような目になり、テーブルの上の拳をきつく握りしめた。


「……スウィート家は、金貸しなんです。もともと借りてた人もいるし、儲かる商売を特別に教えてもらった人もいます。リコのことの前から、そうやって手を広げてたみたいで……幸いアンダーソンはみんな素朴な商売なんで、縁がなくて良かったですけど……」


 少年の握り締めた拳がブルブルと震え始める。その拳に、ぽたり、ぽたりと水滴が落ちて丸い跡になる。


「リコ……家で、召使と同じような扱いされてて……アカデミーにいる時はまともに見えるように、服とか小遣いは渡されるらしいんですけど、その分働けって……寒いのに、湯浴みの時に湯を使わせてもらえなかったり、殿下を誘惑しろって、全然似合わないコルセットをぎゅうぎゅうに締められたり……勉強だって、こき使われる合間に必死にやってるのに……」

「コルセット……」


 医務室でリリアンに会った時、彼女の趣味に合わないコルセットだなと思った。締め付けすぎを注意したが、あれはリリアンの意志ではなかったというのか。記憶を照合して衝撃を受けるアンジェの前で、エリオットは洟を啜り、涙を拭いて俯く。


「……俺のこと好きだって、言ってくれても……恋人にしてくれって言われても……俺じゃ、何もしてやれなくて……」


 エリオットは、アンジェにではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。仕方ない、何もできなかったということを刻み込んで、胸が痛む度に思い出せるように。


「俺、どうしたらよかったんでしょう、セルヴェール様……」

「アンダーソンさん……」


 アンジェの脳裏に、たくさんのリリアンが浮かんでくる。笑っているリリアン。泣いているリリアン。アンジェの無実を主張して必死に話していたリリアン。初めて来た貴賓室で、緊張して歩いていたリリアン。アンジェのために作ったお菓子を、堂々と見せてくれたリリアン。すみれの花冠を被ったリリアン。魔法氷室の中で震えていたリリアン。エリオットがクッキーを食べる横顔を、じっと見つめていたリリアン……。


「俺……駆け落ちでもすれば良かったんでしょうか……」


 泣きじゃくる少年を慰め癒すだけの言葉を、アンジェは何一つ持ち合わせてはいなかった。




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