第22話 新年祝賀会
22-1 新年祝賀会
フェリクスが隣の部屋で食べたのは温かいスープだけだったが、それでも見るからに血色がよくなり、顔つきもいつもの柔和な雰囲気に戻った。フェリクスは大神官他に向け、先ほどの審問の議事録にリリアンの発言が記載されていることを強調し、二度とこのような冤罪を起こすなと厳しく批判してから一同を伴って大神殿を退出した。神殿の入り口前でアンジェの父とフェリクスが永遠に終わらなそうな美辞麗句の応酬を繰り広げていたが、母の咳払いでようやっと中断された。帰り際、フェリクスはアンジェを一緒に連れて行きたいと両親に申し出て、父も母も頷かないわけにはいかず、アンジェはフェリクスの馬車に乗せられた。アンジェは両親や友人の見送りに答えようと馬車の窓から顔を出すと、リリアンは今にも泣きそうになりながらずっとアンジェを見つめていた。アンジェはそれだけで胸がいっぱいになる。お願い、そんな顔をしないで、リリアンさん……。
(そうだわ……)
「フェリクス様、少しだけお待ちになって」
「ん、どうしたんだい」
「リリアンさんにお話がありますの、すぐ済みましてよ」
「いいよ、少しと言わずいくらでも話しておいで」
「ありがとうございます」
フェリクスはいつもと同じ微笑みになるように努めているが、それでも疲労が色濃く見える。アンジェは急ぎ馬車を降りリリアンの許に駆け寄り、ポケットからハンカチポシェットを取り出した。
「リリアンさん、これ……」
アンジェはその手にポシェットを、ミミちゃんをしっかりと握らせる。何事かと、ルナやイザベラや他の面々が二人に注目している。中身がミミちゃんであることを言わない方がいいかもしれない。
「……ありがとうございました。とても重宝いたしましたのよ」
「……そうですか、良かったです」
リリアンはアンジェの掌の中で、ミミちゃんをしっかりと握り締めた。紫色の瞳からぽろりと涙がこぼれる。
「……もう少し、アンジェ様が持っていていただけますか?」
「え?」
「ダメですか?」
「ダメ……では、ありませんけれど……またお父様に何か言われてしまいますの?」
「そういうわけではないんですけど……」
リリアンの小さな手が、ミミちゃんを残してアンジェの掌をするりと抜け出した。
「アンジェ様に持っていて欲しいんです」
どうしてだろう、リリアンは微笑んでいるのに、とても悲しそうに見える。
「お願いします」
秘密を押し隠すように、リリアンはアンジェの掌を上から握った。外気に晒されていた素肌は二人共すっかり冷え切っていて、冷たくかじかんでいる。
「リリアンさん……」
「アンジェ様……ご無事で、本当に良かったです。大好きです、アンジェ様」
「わたくしも……貴女がセレネス・シャイアンでもそうでなくても、ずっと大切な、わたくしのスカラバディでしてよ、リリアンさん」
「────ッ……」
その瞬間、リリアンの瞳から大粒の涙が一粒、二粒とこぼれ落ちたが、リリアンは瞼を閉じて首を振ると、アンジェから手を離して手の甲で涙を拭う。それは安堵して涙が出たというより、何かを堪えているような泣き方だった。
「リリアンさん──」
「ありがとうございます、アンジェ様。引き留めてしまってごめんなさい」
顔を上げたリリアンは、もう泣いておらず、悲しげではあるが微笑みを浮かべていた。
「え……ええ……」
「殿下がお待ちですよ、アンジェ様」
戸惑うアンジェを押し出すようにリリアンは畳みかける。アンジェは怪訝に思いながらも頷き、ミミちゃんをポケットに入れ、馬車の方に戻る。フェリクスがわざわざ馬車から出て来ていて、アンジェの手を引いて馬車に導く。馬車の扉が閉まる。家族が、友人が、リリアンが近くまで寄って、窓から覗く二人を見上げている。
出発する瞬間、リリアンとアンジェの目線が合った。リリアンは後ろ手を組んで、少し首を傾げ、何か小さく喋った。言葉は聞こえない。馬車が動き出す。アンジェは思わず馬車の窓に貼りついてリリアンを見るが、あっという間に小さくなって見えなくなってしまう。
「どうしたんだい、アンジェ」
「いえ……」
フェリクスに声をかけられ、アンジェはのろのろと席に戻る。規則正しい揺れと蹄の音が、
「今、リリアンさんが、何か仰ったような気がしましたの……」
「リリアンくんが?」
「ええ、聞こえなかったのですけれど、唇が動いていましたわ」
「ふうん、何だろうね」
フェリクスは首を傾げ、アンジェに手を伸ばして抱き寄せる。
「普通に、挨拶か何かじゃないのかい? ご機嫌ようとか、さようならとか」
さようなら、アンジェ様。
不意に、想像の台詞と先ほどのリリアンの様子が、アンジェの脳の中で重なる。
(……さようなら?)
(どうして……?)
「アンジェ……」
フェリクスがアンジェを胸に抱き、うなじのあたりの髪に顔を埋めた。されるがままになりながら、アンジェは心臓が嫌な軋み方をするのを抑えられない。
(どうして、リリアンさん……本当に、さようならと仰ったの……?)
(わたくしが、
(それとも……)
神殿の方を見ようとしても、窓の外はもう夜の闇が濃くなり、リリアンたちの姿は全く確認することは出来ないだろう。
「アンジェ……とても心配で、僕の心が壊れてしまうかと思ったよ。アンジェ……」
フェリクスの掠れた声が、それ以上考えることを許しそうにもなかった。
* * * * *
フェリクスは二日間ろくに眠っていなかったようで、馬車の中で既にアンジェにもたれかかってうつらうつらとしていた。アンジェは無理に起こさぬよう寄り添いながら、リリアンのこととマラキオンのことをずっと考え続けていた。帰城すると既に他の王族は食事を終えていたようで、フェリクス、イザベラ、アンジェの三人で食堂で食事をとる。フェリクスは時々瞳を閉じて眉間にしわを寄せ、あまり喋らず、彼のために用意されたスープや粥などの食事を食べる動作も辛そうな様子だった。姫を被ったイザベラと話しつつ食事は早めに切り上げ、イザベラは退出、アンジェはフェリクスの要望で彼の部屋へと向かう。アンジェに支えられるようにしてようやっと自室に辿り着いたフェリクスは、扉が閉まると、そのまま寝室に直行してよろよろとベッドに向かい、ばたりとその上に倒れ込んだ。
「ああ……眠い。やっと天国に辿り着けたよ、アンジェ」
「ごゆっくりお眠りなさいませ、わたくしはこれで失礼いたしますわ」
「駄目だ……君がいないと……眠れない……」
行儀悪く上着と靴を脱ぎ捨て、ごろりと寝返りを打つフェリクス。ベッドの上で大の字になると、眠そうな顔のまま、両手を大きく広げて見せた。
「さあ、おいで、アンジェ……僕はこの二日間で、君が眠る時に手を握っていて欲しいと言う理由を心の底から理解できた気がしているよ」
「フェリクス様、せめて寝間着に着替えなさいませ」
「着替えないと駄目か?」
「駄目ですわ」
「面倒くさいな……」
「お気張りなさいませ、殿下」
アンジェは脱ぎ捨てられた上着と靴を拾いながらクスクスと笑う。いつもの完璧なフェリクスではなく、どこか少年じみた物言いをするのが面白く、笑いながら靴はベッドの脇へ、上着は綺麗に畳んで手近な卓に置いた。頃合いを見計らっていたのだろう、フェリクスの侍女が二人分の寝間着を持ってやってきて、アンジェの顔を見るとにこりと微笑む。その笑顔の瞳が赤い。彼女もきっと心配してくれていたのだろう。フェリクスはブツブツ言いつつも起き上がって寝間着に着替える。アンジェはその間に隣の部屋に移動して着替えた。この寝間着は先日の祝賀会の時に用意していたもので、侍女にまた使うことになるだろうから預からせて欲しいと言われたものだ。侍女は二人の着替えが終わるまで部屋の隅で待ち、それぞれの服を持って静かに退出していった。
「……ああ、あの時の可愛い寝間着だね」
フェリクスはベッドに座ってニコニコと笑いながらアンジェを招き寄せた。アンジェを自分の膝の間に座らせると、後ろから抱き締めながら唇を重ねる。
「ああ、ずっとこうしていたいよ、アンジェ……」
「駄目ですわ、お眠りくださいまし」
「うん、もう限界だ」
フェリクスはアンジェを抱き締めたままばたりとベッドに倒れ込み、掛け布団を二人の上にばさりとかけた。アンジェの肩がしっかりと布団の下に隠れたのを確かめて、アンジェの瞳を覗き込む。
「アンジェ。……済まなかった、あの時手を離してしまって」
「そんな……フェリクス様は何も咎などありませんことよ」
「僕はずっと後悔していたんだ……このまま、君が囚われたままもう二度と帰ってこなかったらと思うと、気が狂いそうだった。僕が誰よりも矢面に立って、君を守るべきだった」
「けれど……お命を削るようなことをなさって、わたくしをお救い下さいましたわ」
「結果だよ、そんなものは。……何か食べる気にはとてもなれなかった」
「フェリクス様……」
フェリクスはアンジェを抱き寄せ、ゆっくりと口づける。
「君を待つ間……僕はずっと考えていた。役人たちの考えは知らないが、僕はアンジェがアンジェだから愛している。君がセレネス・シャイアンであろうとなかろうと僕には些細なことでしかない」
「……はい」
「そして今日……リリアンくんが、あんなにも必死に君を助けようとしているのを目の当たりにして……君たちの友情が他の何物にも代えがたく尊いものだと思った。二人でお揃いの髪飾りの、何と可愛らしかったことだろう」
フェリクスが髪飾りを取ってしまったアンジェの髪を指に絡める。
「どちらがセレネス・シャイアンかなんて些細なことだ……そう思わないか? 君がいて、僕がいて……リリアンくんがいて。それでいいじゃないか。僕は君が大切にしているものも大切にしたい」
フェリクスの緑の瞳は優しくも真剣な眼差しだ。フェリクスはやはり、アンジェの想いに気が付いているのだろうか? その上でこのように語りかけているのか。それとも気がついてはおらず、単にアンジェを慰めようとしているのか? アンジェは何も言わなかったが、表情が変わったのが見つかってしまい、フェリクスがそっとその頬を撫でた。
「アンジェ。……周りが、いろいろと騒がしくなるかもしれないけれど……僕は君を愛している。君がセレネス・シャイアンでないというだけで、君を失ってたまるか」
「…………」
「僕に考えがあるんだ、アンジェ。だからどうか……僕を信じてほしい……アンジェ……」
フェリクスはもう一度唇を重ね、それからアンジェを強く抱きしめた。アンジェは何も言うことが出来ず、寝間着越しに聞こえる心臓の音に耳を傾けているうちに、王子の呼気が寝息に代わった。寝顔を覗き込むと、端正な顔には疲労が色濃く浮かんでいる。身じろぎしようとするとフェリクスが無意識に抱き寄せてくる。
アンジェの解放を要求している間、婚約についても方々からいろいろと言われたのだろう。フェリクスが怒髪天を衝く勢いで反論し続けている様子が容易に想像できて、アンジェは小さく笑った。
「お休みなさいませ、フェリクス様」
そっと唇を重ねて、アンジェもフェリクスの腕の中で眠りについた。
* * * * *
翌日はまる一日をフェリクスの自室で過ごした。帰宅してもよかったのだが、フェリクスがあまりにも悲哀に満ちた表情で懇願するのでそれに負けた形だった。侍女は嬉しそうにアンジェの世話をしてくれたが、他の召使たちはどこか腫れ物に触るような扱いで、以前との違いを思い知らされるには十分だった。もう一日王宮に宿泊し、その翌日にはさすがに帰宅した。父も母も兄も妹弟も皆心配していたようで、アンジェの帰宅をとても喜んだ。両親は特に、フェリクスの関心がアンジェから薄れていないことに安堵している様子だった。
「もともと、セレネス・シャイアンかどうかは婚約の要件に含まれていないのよ」
食事の場で母が言うと、父も頷いた。
「そうだ。だから堂々としていればいい、アンジェリーク」
「……はい、ありがとうございます」
父と母がわざわざアンジェにそう言ってくるのには理由があった。
奇妙なのは、セルヴェール邸にもたくさんの手紙が届くことだった。そのうちの半分は父宛で、王宮の公式文書として届いていた。アンジェの自宅謹慎を要望する文書から始まり、日頃の言動の様子を提出しろ、しばらく王宮に参内するな、果てにはフェリクスは新年会のエスコートが出来ない旨の通達まで来た。
「殿下の様子を見てると、とてもそんなこと許しそうにねえけどなあ」
兄アレクのぼやきには父も母もアンジェも同意見だったが、正式な公正文書として送られてくるのでは、セルヴェール家としては対応せざるを得ない。これは婚約破棄を要求されるか、だとしたら司法の出番だ、と父と兄は張り切っていた。父が侍従院や国王などに向けて何通も手紙を書いたが、それに対する返事は帰ってこなかった。
「エスコート、俺がしてやろうか」
「ありがとうございます、でもお兄様にはお相手がいらっしゃいませんでしたこと?」
「聞いてもらうさ、こんな時くらい」
「必ずエスコートが必要というわけでもありませんし、大丈夫ですわ」
残りの半分の手紙は、アンジェに宛てられた手紙だった。そのほとんどが匿名で、セレネス・シャイアンでもないのにフェリクスの婚約者の座に座り続けるアンジェを非難するものだった。中にはリリアン・セレナ・スウィートという署名入りで、小難しい古臭い文体でびっしりと書き連ねた手紙まであった。
(もう少し、本人に似せようという気はないのかしら……)
リリアンとずっと交換日記をしてきたアンジェとしては、どれも偽物だとすぐに見破ることができる。リリアンはサリヴァンの指導と日頃の努力の甲斐あり、文法や綴りの間違いは随分と減ってきているが、まだまだ文章は小さな子供のような雰囲気のままだ。鉛筆ではなくインクで書いているという点も、怪しさを爆増させている。偽のリリアン・スウィートの手紙をびりびりと破り捨てながら、アンジェは一人ため息をついた。
(フェリクス様からも、リリアンさんからも、お返事が来ないわ……)
公文書で謹慎を命じられ、外出が出来ないアンジェは毎日のように二人に手紙を書いて送ったが、偽物の手紙の群れに本物が紛れ込むことはなかった。フェリクスが大人達と戦っているところは想像できたが、リリアンは何をしているのだろう? 出した手紙は読んでくれているのだろうか? 偽手紙を見ては破くのにも飽きてきたある日、ある匿名の封筒の中身を見たアンジェは、思わず息を呑んだ。
ピンクの、きらきらと光るインク。
──アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール嬢
新年あけましておめでとうございます。
新年祝賀会、ぜひ俺のエスコートでご参加ください。
匿名の男より
(……ピンクの……)
一目見てすぐにわかった。一緒に巡った文房具屋で、リリアンが真剣に選んでいた色だった。筆跡はリリアン独特の角ばったものではなく、若い男の、あまり字を書くのが好きではなさそうな雰囲気だった。思い浮かぶのはあの青い髪の少年だ。二人が一緒にいるという事なのだろうか。アンジェが謹慎を命じられたり、フェリクスのエスコートがなくなったことも知っているのだろうか。そもそも今リリアンはどこで何をしているのだろう? 何故名前を書かずに匿名で送ってきたのか? この招待状のを見ただけでは事情は分からない。分からないが、これは自分も知ることなのだとアンジェに伝えたくて、必死に考えたのだろう。
(リリアンさん……!)
アンジェはその手紙を押し抱き、胸の中のペンダントを握り締めて泣き崩れた。
フェアウェル王国新年祝賀会が、まもなく始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます