第12話 守られたものとお迎え

12-1 守られたものとお迎え

 階段近辺はフェリクスの護衛官によって迅速かつ入念に調べられ、最初に見つけた鋼線以外に異変はないことが確認され、フェリクスはまさしく飛び降りんばかりの勢いで階段を駆け下り血まみれのアンジェを抱き上げようとしたが、またしても護衛官が制した。「頭蓋に衝撃を受けた場合はあまり揺らしてはいけない」の言葉に、フェリクスは最悪の事態を想像してしまい一気に顔から血の気が引く。事前の護衛官の指示が功を奏し、すぐさま担架が運ばれてきて、アンジェはそれに乗せられた。


「アンジェ……死ぬな……アンジェ、僕を残して死んでくれるな……!」

「フェリ……クス様……」


 伴走するフェリクスの必死の訴えに、アンジェは呻くことしか出来ない。リリアンは護衛官の一人に抱き上げられ、その腕の中でアンジェ様、アンジェ様と泣き続けている。


(……痛い……)

(考えなくては……いけないのに……)

(痛いわ……)


 最後に怪我をしたのはいつだろう? 子供の頃は転んですりむく度に侍女に怒られたっけ。コルセットを締めすぎた時も痛かったな。新しい靴のマメも痛かった。そうだ、それから、重い物に押し潰された時も痛かった。突然のことで、何が何だか分からなくて、でもほんの一瞬、耐えがたいほど痛かったことは覚えている……。祥子。あれは痛かったわね……祥子。あれほどは痛くないけれど、身体が熱いの。祥子……。


 担架は医務室ではなく、王子の馬車に乗せられて王宮に運ばれた。フェリクスが同乗してアンジェの手を握り、大丈夫だ、アンジェ、大丈夫とずっと自分自身に言い聞かせるように呟き続けていた。リリアンも随伴して王宮医に診てもらうよう命じられ、ぼろぼろ大泣きしながら自分の馬車に乗り込んだ。王宮では先触れを受けた召使たちが慌ただしく客室での診察の準備を済ませており、年老いた医師がアンジェ達を出迎えた。


「ほっほっ、これはまあ酷い……お嬢様の綺麗なかんばせが、三日後には怪物のような痣だらけになってしまいますな」


 先日もセルヴェール家に派遣されてきた老医師は、清潔な水を含ませた綿で丁寧にアンジェの乾いた血を拭ってやる。


「しかしまあ、打撲と鼻血だけでようござった、裂傷もないし骨にも異常はない。これくらいなら治癒魔法で綺麗さっぱり治して進ぜますぞ」

「ありがとうございます……」


 暖かい室内、柔らかなベッドの上、冷たく心地よい綿と水の感触に、ようやくアンジェも落ち着きを取り戻してきた。ベッドの端ではフェリクスとリリアンが二人揃って医師の手許を覗き込んでいて、リリアンはポロポロ泣きながらその場に座り込み、フェリクスも手で顔を覆う。


「アンジェ様……良かったです……」

「アンジェ……良かった……」


 医師は時折綿を取り換えながらほっほっと笑う。


「痣の治療は得手ですからな……フェリクス坊っちゃまは、剣術の稽古の日はいつも痣だらけでお帰りになるが、絶対に次の日には残すなと厳しく仰せで」

「ハルトフェルト! アンジェに余計なことを言うんじゃない!」


 フェリクスが声を荒げ、医師はほっほっと笑いながら誤魔化した。


「まあ、そんなに頻繁にお怪我をなさっていたの? 存じ上げませんでしたわ」


 アンジェが目線だけ王子の方に向けると、視界の端で何とか捉えたフェリクスは、どこか恥ずかしそうに首を振ってみせた。


「……そんな大した怪我じゃないんだよ、アンジェ。君が心配するほどじゃない」

「そんな……」

「ほっほ、坊っちゃまは、痣だらけの酷いかんばせをお嬢様に見せたら、嫌われてしま」

「ハルトフェルト!!!!!」


 またしてもフェリクスが怒鳴り、医師は楽しそうに笑った。


「ほっほ、失礼千万。坊っちゃま、お嬢様のお身体の方も診察しなければなりますまい。お召し物を全てお取りいただくことになりますが、儂がこのまま診てよろしかったかな」


 医師はニコニコ楽しそうに主君を見上げる。フェリクスは苛立ちも露わに話を聞いていたが、儂がこのまま、のあたりでギョッとして唸り、ゆっくりと首を振った。


「……母上付のクラウゼン女史を呼んでくれ」

「ほっほ、承知いたした」

「フェリクス様、お医者様でしたらわたくし気にしませんことよ、セルヴェールの医師も男性ですわ」


 アンジェが訴えてみたが、フェリクスは予想通り首を横に振り続ける。


「彼は君が子供の頃からずっと診てきているのだろう? それならいい……許せる。ハルトフェルトは医師としてはとても信頼しているが、アンジェの肌を見ていいかとはまた別だ」

「ほっほっほっ、結構ですとも、坊っちゃま。では女史をお呼びするとしますかのう」


 医師は笑いながら血を拭った綿を乗せた皿を持って退出していった。アンジェの顔は綺麗になったが、打ち付けたところがところどころ赤く腫れ始めている。フェリクスは自分を見上げるアンジェを見つめて、自分の痛みであるかのように顔をしかめ、怪我をしていない方の頬にそっと触れた。何か言いたそうだったが、ベッドの端の方でリリアンができるだけ自分の存在感を消そうと小さく縮こまっている(眠る前の子リスのようだとアンジェは思った)のを見つけると、苦笑いをしながら彼女の方に向き直った。


「スウィート嬢、君も見えないところに怪我をしているかもしれない。クラウゼン女史に一緒に診てもらうといい」


 リリアンはぴゃっと飛び上がる。


「わ、私、大丈夫です、どこも痛くないです」

「リリアンさん、万一もありますわ、ご一緒しましょう?」

「そうだ、スウィート嬢、そうしてくれないと僕も申し訳が立たない」

「……でも……」

「リリアンさん、お願いよ。貴女が無事だと分からなければ、わたくし、治るものも治りませんわ」


 リリアンは泣きそうな顔でばっと振り向いて、アンジェの腫れた顔を見た。制服のポケットを上から握り締めて唇を噛み、紫の瞳から涙がポロポロと溢れる。


(あのポケット……ミミちゃんね)

(そんなにご自分を責めないで……)

(貴女が心配なだけなの)


 アンジェは無事な方の右手を持ち上げ、身体を起こそうとしたが、フェリクスが見咎めて押し戻してしまう。リリアンは息を呑んで一部始終を見ていたが、苦しそうに目を閉じて、ようやく小さく頷いた。

 

「……ありがとうございます。よろしくお願いします」

「よかった、何よりだよスウィート嬢」


 フェリクスは大きく息を吐き、肩の力を抜く。


「僕も治療の間は部屋の外に出ているから、二人共、しっかり治してもらうんだよ」

「はい、ありがとうございます、フェリクス様」

「ありがとうございます、殿下」


 フェリクスはアンジェの頬を撫で、リリアンに微笑みかけ、それでも最後は険しい顔を隠し切れずに客室を出て行った。廊下では何人かが慌ただしく歩いている足音がするが、室内はアンジェとリリアンの二人きりになる。


「アンジェ様……」


 リリアンが鼻を啜りながら、アンジェの顔のあたりまでやってくる。


「あの……今、こんなお願いをするのは、本当に不躾で無神経だと、分かっているんですけど……アンジェ様にしかお願い出来ないんです」

「まあ、なあに?」


 リリアンは周囲を見回し、室内に誰もいないこと、扉がどこもきちんと閉じていることを確かめると、ポケットをまさぐって、あの小さなうさぎの人形を取り出した。


「ミミちゃんを……預かって頂きたいんです」

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