第5話 まずはアズキというやつを水に浸すんだ

5-1 まずはアズキというやつを水に浸すんだ

「無理ですわ……」


 アカデミーの廊下を一人歩きながら、アンジェは忌々しげに呟く。


【大変、セルヴェール様!】

【アンジェ、アンジェ大丈夫かい!? すぐに医務室に!】


「こんなの、とても無理……!」


【アンジェ……昨日といい今日といい、何か無理をしすぎたのではないのかい】

【ああ、でも、どちらも僕の目の前で起こって良かった……良かったというと不謹慎だけれどね、済まない。でもこうして、僕がこの手で君を連れて行ってあげられる。この役を他の誰か──先生でも生徒でも、他の男が君を抱き上げたのかと思うと、それだけで十日は気が気ではないだろうね】

【何か重大な病気が隠れているかもしれないからね。日を改めてきちんと医者と神官に診てもらうといい】

【アンジェ。大丈夫だよ。僕は愛しい君の助けになれることが嬉しいんだ】


 すぐにアンジェを抱き上げて医務室まで運んで、彼女を落ち着かせようと喋り続けていた婚約者。その後ろを、べそべそ泣きながら駆け足てついてきたセレネス・シャイアン候補の正ヒロイン。昨日と同じベッドに座らされて、念入りに布団をかけられて、養護教諭がヨシというまでしっかり休むようにと厳命されて。


「とても耐えられたものじゃなくてよ……!」


 授業の予鈴が鳴ると、二人は心配そうに、名残惜しそうにアンジェの方を振り向き振り向き、医務室を出ていった。フェリクスはよほどその場に残りたそうだったが、アンジェが固辞したのであからさまに落ち込み、実にしょぼくれた足取りだった。養護教諭は極めて気の毒そうな顔でアンジェに鼻の押え方を伝え、真っ赤になったハンカチを清潔なガーゼに交換してくれた。馬車待合室で暇を潰していたセルヴェール家の御者が制服の替えを持って来てくれたので、出血が止まってから着替える。それから更に半刻ほど休んで、養護教諭ももう大丈夫でしょう、と頷くのを待って。


(そうよ……そもそも、フェリクス様とスウィートさんの接触は、わたくしがどうこう出来るものではないのかもしれないわ)

(わたくしがうまく立ち回っても、二人やその周辺の方々の行動まで意のままに出来るわけではない……)


 人気のない廊下を、自分の教室を目指してアンジェはひた歩く。一限が始まってずいぶん経つので、間もなく授業は終わるだろう、それを見越して医務室を出た。


(どうして……どうして、スウィートさんとお話しするだけでこんなにも苦しくなるのかしら……理由は分からないけれど、毎回今日のようになってしまうのでは、わたくしそのうち心臓発作か脳の血管が切れて死んでしまいましてよ)


 今にも走らんばかりの勢いで、それでも優雅にアンジェは歩く。


(わたくし、スウィートさんに意地悪や嫌がらせをするだなんて、微塵も考えていないわ)

(フェリクス様も、仲良くしてやってくれなんて仰るくらいだもの……ゲームでは悪役令嬢をたしなめてばかりでしたし)

(それに……女同士……こうしても、何の問題もないはずですわ)

(とにかく、このままでは無理!)


 からんからん、と、一限終了の鐘が鳴る。

 アンジェはちょうど自クラスに着き、小休止時間に空気が緩んだばかりの教室に飛び込んだ。教室がざわめく。アンジェは室内をぐるりと見まわし、廊下側の前の方に座っていた女生徒を睨むように見つめると、つかつかとその横まで歩み寄った。


「ルナ! ご機嫌よう!」

「おうアンジェ、アンジェリーク。朝から災難だったな」


 荒ぶる語気で名を呼ばれた女生徒は、机に頬杖をついてニヤニヤ笑いながら、わざとゆっくり喋ってみせる。アンジェは女生徒の前に仁王立ちすると、大きく深呼吸してその全てを吐き出し、それからもう一度息を吸いこんだ。


「お願いがありましてよ!」


 周りの他の生徒がざわついている。

 

 ルナ──ルネティオット・シズカ・シュタインハルト伯爵令嬢は、フンと鼻を鳴らしながらアンジェを見上げた。ルナはこのクラスの女生徒では唯一アンジェよりも背が高い。グレーの直毛のハイポニーテールに、本人が伊達だという眼鏡、左目の際の泣きぼくろ。男のような言葉遣いと身のこなしの彼女は、抜き身の細見剣レイピアを思わせる。


「……まずは聞くだけ聞こうじゃないか」

「ぜひそうして!」


 ルナは、ゲームではリリアンをサポートする上級生、スカラバディという位置づけだった。序盤のゲーム操作やアイテムの使い方の説明の他、その時点での攻略対象者との親密度、行き詰った時のヒントなどを教えてくれる、いわゆるアドバイザーキャラだ。当然プレイヤーは彼女に親近感を持って接することになり、ファンの間では「ルナ様」「姉御」「ルナ姐」など呼ばれていた。しかしてこの世界のルナは代々軍人の一族に生まれ、祖父や父の指導で剣の腕前もかなりの達人なのだという。口調も立ち居振る舞いも祥子の記憶とは全く異なり、初対面の時にはとても驚いた。


「貴女確か、リリアン・スウィートさんのスカラバディでしたわね!?」

「……予定、だがな」


 アンジェは昨年の一年間クラスメイト達に好感を抱かせることに心を砕いたが、特にこのルナとの関係性は特別に重きを置いていた。リリアンのスカラバディとなるならば、彼女と親密になり、彼女が欲する情報を提供することもあるかもしれない──フェリクスをアンジェから略奪するために、アンジェの行動や些細なミスを密告するような。それはつまり、ルナがリリアンよりもアンジェと親密になれば、アンジェが欲する情報を与えてくれるかもしれない、そんな打算の上に、お友達になりましょうと声をかけた。


「お願いというのは、他でもないわ……」


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の悪役令嬢が婚約者に疎まれたのは、彼女が一人追い詰められ錯乱しつつあったことも大きな要因だった。彼女は最愛の婚約者を奪われる苦しみを誰にも打ち明けられず、正ヒロインへの嫌がらせとして発露させる以外の手段を知らなかった。だからこそアンジェには、心の内を、不安を曝け出すことのできる友人が必要だった。いつか直面するかもしれない苦境で、倒れそうになるアンジェに手を添えて支えてくれるような。そう、ちょうどこんな風に取り乱していても、ちゃんと話を聞いてくれるような。


「スウィートさんのスカラバディ、わたくしと交代していただきたいの!!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る