3-3 彼女が隠していたもの

 リリアンはほどなくして顔色が良くなり、ふわふわした頬に赤みが戻ってきた。それでもしばらくは休んだ方がいいというアンジェの言葉に従い、紫色のコルセットを胸に抱くような姿勢で横になり、アンジェに布団をかけられる。枕に頭を乗せ、布団の間から顔だけ出したリリアンの眼差しは、子犬のようにくりくりとしていた。


「セルヴェール様、本当にありがとうございました、何とお礼を言ったら……」

「淑女は助け合うものよ、お気になさらないで」


 アンジェは微笑むと、仕切りカーテンの端に手をかける。緊張が取れ体調もよくなり感謝の眼差しで見つめて来る少女の視線は余りにも愛くるしく、紫の瞳の奥に吸い込まれてしまいそうだが、婚約者のことも気がかりだ。あんなふうに蚊帳の外に追い出すような振る舞いをしたのはこれが初めてだ、さぞかし驚いたことだろう。怜悧な彼のことだから態度には出さないだろうが、出来るだけ早くフォローしないと、呆れるか、愛想をつかされるかしてしまうかもしれない。


「では、わたくしはこれで失礼いたします」

「はい」


 ああ、でも、どうしてこんなに、名残惜しい気持ちなのだろう。


「ゆっくりお休みになられてね、スウィートさん。ご機嫌よう」

「はい、ありがとうございます」

「…………」


 アンジェは曖昧に微笑んだが、もう他に言うべきことは何も見つからなかった。唇を引き結ぶとカーテンをそっと開けて、布の隙間を滑るようにベッドを降りる。視界が明るく広くなり、目を細めて周囲を見回すと、自分が寝ていたベッドと窓の外の中庭、養護教諭が片付けたテーブルの上でお茶を飲んでいるフェリクス達が目に入った。アンジェは婚約者に脱がされた靴を履いてテーブルに歩み寄る。フェリクスはおそらくカーテンを開けた瞬間から気がついていたようだが、アンジェが近寄って初めて、おや、と驚いたような声を上げた。


「お帰り、アンジェ」

「……お待たせいたしました」


 アンジェはその場で略式の礼を執る。フェリクスの対面に座った養護教諭が、隠し切れない好奇の目線で自分を見ているのを感じる。フェリクスは微笑みながら立ち上がると片手をアンジェに差し出し、もう片手で空席の椅子を引いて、恭しく彼女を座らせた。自分も再び腰かけるといそいそと茶器を取り、特別に用意してもらったというホットレモネードをカップに注ぎ、小菓子の好みを尋ねてとりわけ、甲斐甲斐しくアンジェの前にサーブしてやる。アンジェは呆然とされるがまま、菓子の好みを尋ねられるがままに答えながら、二つ年上の婚約者の顔をまじまじと見た。もっと憮然としているか、あるいは表には出さずに平静そのものかと思っていたが、アンジェの目の前のフェリクスはニコニコと微笑んで、少し頬も上気させて、どこからどう見ても上機嫌なように見える。


(……お怒りでいらっしゃるわけでは、なさそうだけれど……)


「アンジェ、おかわりをいただくかい」

「……ええ、では、お言葉に甘えて」


 アンジェは少し残っていたレモネードを飲み干すと、空になったカップをフェリクスに差し出した。フェリクスはカップにハチミツ香るレモネードをたっぷりと注ぎ、アンジェのソーサーへと戻す。アンジェが目礼して淹れたての甘い飲み物を含むのを、ヒナを見守る親鳥か何かのように、目を細めてニコニコと見守っている。同席した養護教諭は目のやり場に困るようで、初めにちらりとアンジェを見た後はずっと自分のカップを眺めてばかりだ。


(……どうしてこんなに上機嫌でいらっしゃるのかしら……)


 アンジェは一挙一動をつぶさに観察され続けて、さすがに動きがぎこちなくなる。


「……あの、フェリクス様」

「何だい、僕のアンジェ」

「先ほどは……その、……大変失礼いたしました」

「先ほど? 君が僕に何かしたかい?」

「その……お待ちいただいて……」


 カーテン一枚を隔てたベッドにはリリアンがいる。起きているのか寝ているのか分からないし、コルセットという言葉を口に出すつもりはないが、それでも事のあらましをそのままフェリクスに告げるのは気が引ける。言葉を濁したアンジェを見て、ああ、とフェリクスは笑った。


「僕の方こそ、無粋で申し訳なかったね。男性の僕がじろじろ見ていたら、彼女も心休まらなかっただろう。君が心配りしてくれて良かった」

「そんな……」

「彼女はもう落ち着いたのかな、ゆるりと休めるのだろうか」

「ええ、おそらく……」

「それは良かった」


 フェリクスは至極満足そうに自分のお茶を飲んだ。寛いだ様子なのに姿勢から仕草から指先に髪の毛の一本に至るまで全て完璧に整っていて、神話を描いた絵画のようだ。それは厳しく洗練された教育が王子の身体の隅々にまで染み渡っている証拠だ。その彼が自分を見つめながら、幸せそうに微笑んでいる。アンジェは気後れしながら、それでも何とか次の言葉を絞り出した。


「……フェリクス様は、呆れるか、お怒りでいらっしゃるのかとばかり……」

「まさか」


 微笑むと柔らかな弧を描く、緑色の瞳。


(ああ、この眼差し……)


「僕はね、嬉しかったんだよ、アンジェ。具合の悪い新入生を案じて、彼女を何者からも守ろうとする君の心の美しさを垣間見ることが出来て」

「……身に余るお言葉ですわ」


(お優しいフェリクス様……ヒロインの彼女ではなくて、わたくしを見てくださっている……)


「けれどアンジェ、君自身も休まないといけないよ。今日は顔が赤くなったり青くなったりしてばかりだね。今もそんなに真っ赤じゃないか」

「……っ……!!!」


 フェリクスに指摘されてアンジェは咄嗟に両手で自分の頬を隠す。確かに自慢の白い肌は、ティーカップを持っていた手でもはっきりと分かるほど熱くなっていた。


「今日は授業もないし、君が落ち着いたら一緒に帰ろう。君の帰り支度もして迎えに来るから、それまでゆっくり休ませていただくんだよ、アンジェ」

「……はい……」

「いい子だ」


(顔が赤いのはスパダリ過剰摂取のせいよ!!!)


 アンジェはそう叫びたかったが、養護教諭が必死に身体を小さくして置物にでもなろうとしているのを横目に見てしまうと、もう何も言えそうにもない。全身の熱でレモネードが沸騰してしまいそうだな、などと考えつつ、精一杯平静を装ってそれを飲んだのだった。





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