3-2 彼女が隠していたもの

「……もう大丈夫よ。見せて頂ける?」

「……はい」


 リリアンは制服のブレザーを脱ぎ、ボウタイを解き、ブラウスのボタンを一つずつ外した。首から肩にかけてのラインと鎖骨が露わになり、アンジェは思わず目線を逸らす。頬が熱くなる。貴族令嬢ともなると、自分の身体をメイド達に世話されることはあっても、他人の素肌を見ることは滅多にない。祥子の記憶には学生時代の水泳の授業や女友達との旅先での温泉での経験がないわけではないが、十五年間培ってきた価値観とはまた別だ。


「…………」


 けれど──それだけだと言うには、この胸はいやに早く高鳴りすぎていないだろうか?


(……華奢ですわ……)


 アンジェは平静を装ってリリアンに視線を戻す。ブラウスの下から現れたのは、肌着とその上に締められたコルセット──紫のサテン地に黒いレースが豪奢に縫い付けられた、随分と艶やかなコルセットだった。


「…………」


 アンジェは思わずまじまじとコルセットを眺めてしまう。小柄で華奢で、丸顔で幼さも感じさせるリリアンが身につけるには意外すぎるほど意外な趣味だった。アンジェと同世代の少女なら、白やパステルカラーなどの清楚な印象の生地を選ぶだろう。アンジェ自身も今日は淡い水色のものを身に着けている。


(……パステルカラーだなんて妄想したから、ギャップが激しいわ……)


 アンジェは自分自身を誤魔化すように手のひらを握りしめる。この色合いなら、まず間違いなく夫人、それも若々しさよりも円熟した魅力を求めるような年齢の夫人が好むものだ。アンジェの視線の意味を察したリリアンは真っ赤になって腕でコルセットを隠そうとするが、そうすると身体の線の細さがますます際立った。


(……いけない、恥じらわせてしまう)

(そんなに顔を赤くされると、わたくしまで照れてしまいますわ……)


「……素敵なコルセットね」


 アンジェは微笑みながら少女の肩に触れ、背中を自分の方に向かせた。きしむ音が聞こえそうなほどにきつく編み上げられた革ひもがアンジェの前に晒される。アンジェはリボン結びされていた結び目をほどき、革ひもを少しずつ緩めた。ひとつ緩む度にコルセットは弾けるように外側へと広がり、中に押し込まれていたリネンの肌着がくたくたと柔らかさを取り戻して行く。


「優雅で艶やかな仕立てだわ。ご自分でお選びになりましたの?」

「はい……」

「そう」


 リリアンは耳の裏側まで真っ赤にしながら頷いた。

 熱気を含む、ミルクのような甘い香りがふわりとアンジェの鼻腔をくすぐる。


「……コルセットを締めすぎたこと、わたくしにも覚えがあるわ」


 アンジェは何食わぬ口調で続ける。


「何年か前……社交デビュー前に王城へ参内できることが嬉しくて、ドレスはもちろん、肌着からコルセットから靴に靴下まで、身につけるものは全て新調しましたの。そうしたら足にマメは出来るし、あばらのところにコルセットの跡があざのようになるし、跡が消えなかったらどうするのって、侍女に叱られてしまいましたわ」


 アンジェは侍女が泣きながら怒り散らしていたのを思い出してクスクスと笑った。リリアンは何も言わずに、微かに震えながらされるがままになっている。


「けれど、それだけ。跡はつきましたけれど、参内中に具合が悪くなるほどではなくてよ。コルセットを初めてつけたのはもっと前からだもの、加減は分かりますわ」


 ひもを全てほどかれたコルセットは、力尽きた鳥のように少女の膝にポトリと落ちる。アンジェはむき出しになったリネンの肌着をそっと整えてやった。隙間から覗く白い肌に、赤黒い筋が何本も浮かんでいるのか見て取れる。


「……かなり、無理をしてきつく締めていらしたように見えましたけれど……コルセットの加減も分からないような子供でもないでしょう。どうしてそんな無理をなさったの?」

「……それは……」


 リリアンは言葉に詰まり、耳どころか首や背中まで真っ赤になった。自分を締め付けていた紫色の怪物を爪が立つほど強く握りしめ、肩越しにちらりとアンジェの方を見る。


「……わ、私は、ご覧の通り、背も低いし、貧相な体なので……」


 すみれを思わせる紫色の瞳が、アンジェを──アンジェの顔より少し下、早熟なふくらみのあたりを、一瞬、だが確かに捉える。


「せめて……ウェストを締めたら、……大人……いえ、女性らしく、見えるかな、と……」


 アンジェに背中を向けているというのに、リリアンは肩を抱えるようにして必死に胸元を隠す。アンジェは一瞬、彼女の恥じらいの意味が分からずに首を傾げたが、先ほどの視線と胸元を隠したがる意図が繋がった瞬間、火が出たかと思うほど顔が赤くなった。


「……そ、そう……」

「……はい……」


(そ、そんなことを気になさるなんて……)


 アンジェは自分も胸を隠そうと腕を上げたが、それも不自然な気がして、かといって手を下ろすのも躊躇われて、指先で自分の頬に触れた。頬は熱く指先は冷たく。そのまま掌で両頬を包むと、ひやりとして心地よかった。


「その……具合が悪くなるほど、無理は……なさっては……いけないわ」

「はい……」


 ぎこちないやりとりの後、続く言葉が見つからなかった。アンジェが火照った頬を指先で冷ましている間、リリアンは慌ただしくブラウスを着直す。背中と生地の間に入り込んでしまった髪を手で引き抜くと、ストロベリーブロンドが華やかに宙を舞い、巻き毛の曲線が白いブラウスの上に広がる。


 それはまるで。

 建国の女神セレニアが、きらめく魔法を振りかけているようで。


(……なんて……)


「……身長や、体形など、他人と比べる必要などなくてよ」


 アンジェは視線を奪われた自分に気がつき、ため息と共に独り言のように呟いた。


「貴女は、今の貴女のままで、十分すぎるほど可愛らしいのだもの」


 リリアンがこちらを振り仰いでアンジェを見遣る。柔らかそうな頬がみるみるうちに赤く染まり、アンジェを直視できなくなったのか視線を落とし、ありがとうございます、と絞るように呟いた。


(ああ、そんなに恐縮しないで……そんな顔すらも、可愛らしいのね)

(可愛らしくて、いじらしくて……)

(宝物のように柔らかなケープにくるんで、どこかに隠してしまいたくなる)


 アンジェももう頬の赤みを取るのを諦めて、優しく微笑んで見せる。


「わたくしは二年のアンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールと申します」


(もっと、貴女と、お話ししていたい……)

(貴女と、ずっと……)


「フェアウェルローズで何かお困りの時は、遠慮なくわたくしを訪ねていらしてね」

「お名前……存じておりました」


 リリアンはうつむいたまま、バツが悪そうに呟き、唇を噛んで顔を上げた。ありったけの勇気を振り絞ったのだと、震える指先が雄弁に語っている。


「申し遅れました私は、リリアン・スウィートと申します」

「……存じていてよ」


 二人の少女は、まじまじと互いの顔を見合わせ──


「お近づきになれて光栄です、セルヴェール様」

「わたくしもよ、スウィートさん」


 清楚な百合の蕾が綻び花開くように、クスクスと笑い合った。


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の悪役令嬢にして安藤祥子の記憶を持つアンジェリーク、正ヒロインのリリアン、あとついでに正規ルート攻略対象の王子フェリクス。


 三者はこうして、何のイベントもスチルもなく、それでも運命の邂逅を果たしたのだった。

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