第3話 彼女が隠していたものは

3-1 彼女が隠していたもの

 うずくまる少女の顔色は、講堂で見た時よりもずっと青ざめて見えた。


「貴女、大丈夫!?」


 養護教諭の悲鳴が、壁一枚隔てているかのように遠くから聞こえる。


(……どうして……!?)


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の主人公ヒロイン、リリアン・スウィート。安藤祥子が悪役令嬢アンジェリークとして転生してから、あるいは前世の記憶を取り戻してから、ずっと意識せずにはいられなかった少女。ここがまさしく「セレネ・フェアウェル」の世界であるのだとしたら、こんなタイミングでの接触など記憶にはなかった。


(だって……これから中庭で必須イベントではなかったの……!?)

(フェリクス様は!?)


 アンジェは咄嗟に中庭を見遣るが、平和そのものの庭園に緩やかに風が吹き抜けただけで、フェリクスどころか人影一つ見当たらなかった。視線を少女に戻すと、駆け寄った養護教諭の腕に縋りつきながら、猶も苦しそうに呻いている。養護教諭は担ぐようにリリアンを抱え上げると、なんとか小さな体をベッドの上に横たえた。身を乗り出し、ベッドを降りかけていたアンジェは、胸に手を当てて嘆息する。


「……なんて痛々しい……」

「貧血かとは思いますが……」


 養護教諭がリリアンの靴を脱がせ、掛け布を腰のあたりまでかけてやった。つるりとした額が汗でじっとりと湿っている。なんて苦しそうなの。アンジェは投げ出したばかりのハンカチを手に取ると、自分のベッドを出てリリアンの枕元に腰掛け、そっとその額を拭ってやった。リリアンは呻き、眩しそうに顔をしかめ、うっすらと瞳を開く。少しだけ手を引いて心配そうに自分を覗き込むアンジェリークを見て取ると、あっ、と小さく声を上げた。


「……おひめ、さま……」

「……え?」

「アンジェ、具合はどうだい? 今そこで落とし物を拾ったよ、新入生の生徒手帳なんだ。君が気にかけていたあの子の……」


 アンジェが何か言う前にのんびりした声が聞こえ、ティーセットを自ら運んで来たアンジェの婚約者フェリクスが医務室の入り口から入ってきた。室内を軽く見回し、彼が寝かせたベッドではなくその隣のベッドに腰掛けるアンジェ、傍らでオロオロする養護教諭、そして二人に顔を覗き込まれていたストロベリーブロンドの少女を順番に見遣る。


(……あっ)


 乙女ゲームの正ヒロインと攻略対象の目線が、かちりと重なり合う。

 リリアンは朦朧としたまま。

 フェリクスはやや驚きを孕んで。


「……ちょうど良かった、そこで休んでいる新入生の生徒手帳だよ」


 フェリクスはいつものように完璧に微笑んで見せ、養護教諭の机にティーセットを置いた。


(で……出会ってしまいましたわ……!!!)

(なんの……なんのイベントもスチルもなしに!!!!!!)


 アンジェは心臓がこの上なくばくばくするのが目に見えてしまうのではないかと危惧するように、必死に胸を押さえてお茶の支度をする婚約者と具合の悪い新入生を見比べる。


(見たかった……見たかったですわ……生のフェリクス様の出会いイベ!!!)

(いえ、でも、あのイベントが成立すると二人の仲が進展してしまいますわ……)

(イベントやスチルというものがこの世界ではどういう現象になるのかは、そもそも分からないのですけれど……)

(でも! でもでも! 見たかったの!)

(ファンとして! わたくしの中の祥子が!!!)

(見られないと思うと尚更! 見たかったですわ……!!!)

(二人の出会いが、こんな適当になってしまって良いというの……!?)

(それはわたくしの望むところではあるのですけれど、でも……)

(ああどうしたらよかったの……!!!)


 アンジェは耐えがたい衝動──頭を掻きむしったりをポコポコ叩いたりしたいのを必死に堪える。フェリクスは何も気が付かずにベットまで近づいて来て、養護教諭が慌てて別のテーブルの上を片付けており、アンジェの傍のリリアンは、虚ろな眼差しのまま、おうじさま、と微かな声で呟いた。


(……王子様?)


 アンジェは我に返って少女の顔をまじまじと見る。フェアウェル王国で貴族に名を連ねる者ならば、王族をそんな子供じみた呼称で呼んだりはしない。フェリクスに対してならば王太子殿下あるいは殿下が常で、アンジェのように名前で呼ぶことが許されるのはごく親しい間柄だけだ。


「…………」


 リリアンは自分が何が口走った事には気がついていないらしく、またも呻いて身体を横にした。縮こめる手足とは裏腹に、不自然なほどまっすぐ伸ばしたままの背筋。深呼吸したいのにうまく出来ずにもがくような、浅く早い呼吸。


「とても苦しそうだね、何か患っているのだろうか」


 フェリクスの声に、リリアンははっきり分かるほど身体を震わせてきつく瞳を閉じる。それはまさしく手負いの小動物のような、何かに怯えた仕草だった。


(……これは……)


 ふと閃いた直感に、アンジェは傍らの婚約者の真摯そのものの横顔と、眉間に皺が寄るほどきつく目を閉じている少女の顔を見比べる。彼は気が付いていない、いや、彼のような年若い男性には考えが及ぶはずもない、それは致し方のないことだ。同じ女性か、よほど気が利いて女の気持ちが分かる──遊び慣れている男でなければ。


 アンジェが少女の肩にそっと手を置くと、彼女の考えを肯定するように、小さな体がぎくりと硬直する。アンジェは肩から落ちる自分の髪をかき上げながら、そっとリリアンの耳に唇を寄せ、小さな小さな声で囁いた。


「……コルセット?」


 リリアンははっと目を開き、目線だけでアンジェを見上げる。フェリクスの視線はちょうどアンジェが自身の身体で遮っている。令嬢の青い瞳が心配そうに自分を覗き込んでいるのを見て取ると、リリアンはぽろぽろと涙をこぼし、小さく頷いた。アンジェは何も言わずに頷いて見せ、少女の肩を優しく撫でてから、自分達を覗き込むようにしていた婚約者を見上げる。


「……フェリクス様」

「アンジェ、彼女は何か言ったかい?」

「いえ……」


 正義感に満ちた──あるいは、下卑た欲望を知らぬ緑色の瞳が、じっとアンジェを見返す。アンジェはなにか後ろめたいものを隠そうとしているような感覚に陥るが、拳を握り締め、真っ向から婚約者の視線に対峙した。


「わたくし、彼女が心地よく休めるように、制服を少し緩めて差し上げようと思います。フェリクス様がお持ちくださったお茶が冷める前には伺いますから、先生とご一緒にお待ちになっていてくださる?」

「……ああ」


 フェリクスの視線は、途中からアンジェからリリアンへと移った。視線を感じた少女は、小動物が傷を見せまいとするように必死に縮こまって瞳を閉じる。王子の視線はアンジェには戻らず、羞恥と苦痛に震えている少女を刺すように見続けている。アンジェは眼差しの変遷を見て胸のあたりが軋む以上に、年若い婚約者の察しの悪さに若干苛立った。


「……殿下?」


 アンジェはベッドの上に身を乗り出し、仕切りのカーテンに手をかける。


「あちらで、お待ちになっていて?」


 にっこりと──完璧すぎるほど完璧な、公爵令嬢の微笑み。


「あ、ああ……分かったよ」


 フェリクスは我に返り、アンジェの笑顔からにじみ出る迫力に押し出されるようにしてベッドから離れた。後ろで様子を窺っていた養護教諭が、白々しいほど明るい声でフェリクスが持ってきたティーセットを褒めちぎる。アンジェはフェリクスが自分達に背中を見せたのを確認してから、仕切りのカーテンを全て閉じた。カーテンはベッドの端に沿うように垂れ下がり、ベッドの上は布に包まれた小さな個室になる。アンジェが深々と溜息を漏らすと、横たわっていたリリアンが呻きながらも体を起こした。


「……もう大丈夫よ。見せて頂ける?」

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