1-3 すみれが鳴らす鐘の音は

 すみれ色の瞳に、脳天を撃ち抜かれたのだと思った。


「……天使……っ」


 アンジェは毛穴という毛穴が開いて粟立って行くのを感じる。それが首筋を這ってこめかみに達すると、一気に汗が噴き出る。顔が熱くて目が潤む。足に力が入らない──


(なんて……なんて、なんて! なんてことなの!?)


 気を張って転倒をこらえたが、喉の奥が締め付けられてうまく呼吸が出来ない。心臓がそこまでせり上がってきてつかえてしまったかのようだ、脈動する度に息が苦しい。


(こんな……こんなの……!)


 視線が合った瞬間、アンジェは少女から目を逸らすことが出来なくなってしまった。前後の新入生よりもかなり低い身長。上背のあるフェリクスと並んだら、頭頂は彼の胸辺りまでしか来ないだろう。アンジェとも頭一つは差があるかも知れない。ふわふわと触り心地のよさそうな頬と小さな鼻先は、緊張のせいか僅かにバラ色に染まっている。華奢な体は凹凸が殆どなく、ストロベリーブロンドの巻き毛が飾り気なく背中に下ろされ、大粒の宝石細工をはめ込んだかのような淡い色合いの紫の瞳を、色は薄いがふさふさの睫毛がたっぷりと彩っている。


(なんて……可愛らしいの……!!!???)


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の主人公、リリアン・スウィート。プレイヤーが世界観に没入しやすいようにとデフォルトの名前だけ公開されていた彼女は、アンジェの婚約者フェリクスを筆頭に、個性豊かな男性キャラクターを虜にしていく。アンジェの前世である祥子はそれこそゲームなので大して気にもせずにプレイしていたが、よくよく考えればそれだけ異性を惹きつける力があるという事だ。それは外見的にも内面的にも、そして能力的にも秀でているという事に他ならない。だからこそアンジェはリリアン登場までの一年間、己を鍛え、勉学に励み、周囲への気遣いを欠かさなかったのだ。


(ストロベリーブロンドというより、あれはもうピンク髪といって差し支えないのではなくて!? 歩く度に背中でふわふわする様のなんと可憐なこと、ずっと見てられるわ……すみれの花冠が似合いそう……うちの温室にまだ咲いていたかしら?)


 自分磨きを極めたアンジェは幸い発育もよく、大人びた雰囲気の知的な淑女、と同級生たちに評され、悪い気はしなかった。女性が求める理想像の一つに限りなく迫ることが出来たのだと自負してはいた。だからこそ婚約者をめぐって主人公と恋を競えるのではないかと、望みを賭けてもいた。


 だが、目の前の主人公リリアンの魅力は、外見は少なくともアンジェの正反対だ。


(睫毛の色が髪の毛と同じ……あの素晴らしいすみれ色の瞳は何なのでしょう!? きらきらして、瞬きする度に星がこぼれるんじゃないかしら!)


 アンジェは肩が上下するほど荒く呼吸し、射殺しかねない勢いでリリアンを凝視するが、それは彼女だけではなかった。隣の婚約者フェリクスも、教師陣も、来賓席の面々も、一緒に入場している新入生でさえ、この場にいる誰もがリリアンを見つめていた。白くて小さな手足。緊張のせいなのか、狭い歩幅でちょこちょこと歩く様。背中で揺れるストロベリーブロンド、涙の溜まった瞳──


(ああ、ダメよ、あの子今にも泣いてしまいそう!)


 アンジェは自分の制服のポケットに折りたたまれたハンカチを取り出し、それが破れんばかりに手の中でめちゃくちゃに揉みしだいた。涙をこの手で、このハンカチで拭いてやりたい、あんなに小柄で、あんなに涙を溜めて、可哀想に! 彼女をこんな有象無象の視線に晒し続けてはだめよ! 今すぐここから連れ出して、どこか心地よいカウチソファがある個室で、温かくて柔らかなブランケットで包んでやらなくては! そこでホットチョコレートをその手に握らせて、大丈夫よ、と背中をさすって──


「……アンジェリーク?」


 隣のフェリクスがやや怪訝な声で、愛称ではなくファーストネームで呼びかけた。目線はアンジェの手許でくしゃくしゃになったハンカチに注がれている。アンジェはその視線の意味に気が付いたが、咎められたことを恥じらうよりも先に、更にハンカチを握りしめた。


「フェリクス様、あの子、とても緊張しているようですわ」

「あの子って、セレネス・シャイアン候補の子かい?」

「ええ……小さな肩を震わせて、目に涙を溜めて、必死に堪えているの……」


 狼狽えて、婚約者と新入生を交互に見比べるアンジェの瞳にもじわりと涙が浮かぶ。鼻の奥がツンとして痛いが、息を吸って堪える。


「わたくし、見ていられなくて……どこかに連れ出して差し上げられたらよいのでしょうけど、ね、フェリクス様、ご覧になって、あの瞳……」

「そうだったのか」


 フェリクスがふわりと頬を緩めた。


「アンジェ、君はなんて優しい心根の淑女だろう。今日会ったばかりの後輩にそんなにも心を寄せて心配するなんて」

「ごめんなさい、わたくし、あるまじき振る舞いを……」

「いつもの君らしくないから驚いただけさ」


 フェリクスはそっと手を差し伸べて、アンジェの涙を指先で拭ってやる。


「ここは入学式で、あの子は新入生なのだから、皆と一緒に席について校長先生のお言葉を頂けばいいんだよ。僕たちが必要以上に案ずることはない。大丈夫だからね、アンジェ」

「そう……そうですわね……入学式ですもの……ええ、入学式……」


 それでもハンカチを握り締めたままのアンジェを見て、フェリクスはクスクスと笑った。自分の失態を思い返すと、すっと汗が引いて全身が気だるくなる。背中に肌着がべたりと貼りついて気持ち悪い。アンジェは深々とため息をつき、それでもまだハンカチをもみくちゃにしながら、少女──主人公リリアン・スウィートが席に着くまで、じっとその瞳を、ストロベリーブロンドを、小さな肩を凝視し続けた。主催席と新入生席はずいぶん離れており拍手も行進曲もずっと続いているのに、彼女が腰掛ける時の衣擦れの音を、ストロベリーブロンドが背中に落ちかかる音を、アンジェは確かに聞いた。


 脳天を撃ち抜かれてから。あるいは世界中の教会の鐘が鳴り響くのを聞いてから。

 ずっと心臓は駆け足を続けている。

 脈動する度に耳が疼き、そこが火照っているのがよく分かる。


(なんて……なんてことなの……どうしたらいいの……)


 アンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェール。

 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」の悪役令嬢にして安藤祥子という前世の記憶を持つ、フェアウェルローズ・アカデミー二年生の首席。


 リリアン・スウィート。

 ゲーム主人公にして、フェアウェルローズ・アカデミーの特待新入生。


(どうしてこんなに、トキメキが止まらないの……???)


 それは、世紀の恋が始まった瞬間であった。




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