1-2 すみれが鳴らす鐘の音は

「緊張しているかい、アンジェ」


 響き続ける拍手と入場曲の隙間を縫うように、フェリクスがこそりと囁きかけてきた。アンジェが我に返って顔を上げると、緑色の瞳が柔らかく細められている。アンジェは微笑みながらゆっくりと首を振る。


「……はい、少し」

「大丈夫。君は素晴らしい二年生だよ、堂々としているといい」


 優しい声に、アンジェは拍手を続けながら頷いた。


 乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」は、アンジェより一つ年下の主人公が、フェアウェルローズ・アカデミーに特待生として入学するところから始まる。この世界がゲームシナリオ通りに進むのだとすれば、記憶を得てから主人公の登場まで一年の猶予があった。


 その一年、アンジェはフェリクスにふさわしい婚約者であるべく──主人公と対等の立場で彼を争っても見劣りしない女性であるべく、たゆまぬ努力を重ねてきた。祥子風に言えば自分磨きというやつだ。燃えるような赤い巻き毛は常に手入れを欠かさず美しく結い上げ、肌は丹念に保湿してミルクのよう、慎重に育成した睫毛に縁どられた青い瞳は星が煌めくよう。運動も嗜んで、コルセットに頼らなくとも細いウェスト、背筋の伸びたしなやかで優雅な立ち姿。学業実技は常に首席、礼節を重んじる一方、親しい友人にはユーモアのある一面も見せる。次期国王の婚約者として社交界デビュー前から彼と共に臨席し、非の打ちどころのない振る舞いと弁舌。ダンス、サロンの主催、学園行事でのリーダーシップ。もともとのアンジェも才女と言われていたが、社会人経験のある祥子の記憶が、公爵令嬢アンジェリークの品格を数段押し上げた。


 オープニングムービーではフェリクスの婚約者として意地悪な顔をしていたアンジェは、今日は学年首席としてその場に立っていた。同じく首席のフェリクスは婚約者の涙ぐましい努力とその成果を殊の外喜び、既に夫であるかのようにアンジェに寄り添い、その手を取ってエスコートした。


「もうすぐ特待生の入場だね」

「……そうですわね」


 フェアウェル王国に古くから伝わる、建国の女神の伝説。遠い聖地セレネ・フェアウェルに眠る女神セレニアを目覚めさせる力を持つとされる聖女、セレネス・シャイアン。主人公はそのセレネス・シャイアンの力を秘めている──


 アンジェはゲームシナリオとしてそれが真実であると知っているが、この時点では主人公はセレネス・シャイアン候補として引き立てられているだけだ。そしてもう一人、悪役令嬢アンジェリークも同じくセレネス・シャイアン候補であり、だからこそフェリクスとの婚約も成立したのだ。


(……わたくしは努力したわ。祥子の記憶を頼りに、日夜たゆまず努力を重ねてきた)

(ゲームは主人公目線だから、主人公の外見や性格の情報は殆どなかった。プレイヤーが感情移入しやすいように制限しているのでしょう……)

(今のわたくしは淑女と言って差し支えない……外見で言えば、日本のアイドルや女優にも引けを取らないはずよ。同年代の女性なら、並んで見劣りすることはないはず……でも……)


 拍手を続けるアンジェの手は、隠し切れないほど震えている。


(……怖い……)


 煌めく太陽のような婚約者が、主人公と運命の出会いを果たしてしまうことが。

 大切な想い人が、アンジェの手からすり抜けて行ってしまうことが。


 隣の婚約者は、曇りない微笑みを惜しみなくアンジェに向ける。やはり緊張しているかい、君にしては珍しいね。学園の雰囲気は社交とは違うし、人数が多いからね。大丈夫、すぐに慣れるよ。優しさに満ちた言葉がアンジェの胸には届かずに、拍手と共に講堂の中をぱらぱらとこぼれ落ちていくようだ。


 不意に講堂入り口のあたりでどよめきが起こった。来た、あの子! あのストロベリーブロンド! ざわめきが拍手よりも大きくなり、波のようにうねって講堂内を包み込んでいく。アンジェは咄嗟に目線を新入生の列から逸らし、祈るようにフェリクスを見上げた。 


「…………」


 フェリクスはアンジェの視線に気が付かず、新入生の列に釘付けになっていた。先ほどまで優しく微笑んでいた瞳を見開き、僅かばかりに息を呑んでいる。ああ、やっぱり。貴方と彼女は運命の人どうしで、出会えば必ず惹かれ合ってしまうのね。そこにはいずれ、わたくしの入る隙間などなくなってしまう……。視線を戻すのが、新入生の中にいるはずの主人公に目を向けることがどうしても出来なくて、アンジェはそのままフェリクスの横顔を凝視する。機械的に拍手を繰り返す手がじっとりと湿って冷たい。やがて我に返ったように長い溜息をついたフェリクスは、自分をじっと見上げる婚約者の視線に気が付き、誤魔化すように微笑んだ。


「アンジェもご覧、噂のセレネス・シャイアン候補の女子生徒だよ」

「……はい」

「素晴らしいストロベリーブロンドだ、一目見ればそれと分かる」


 わたくしに微笑んでくださるのも、これで最後かもしれない。


「……はい」


 それでも、貴方にそう言われたら、そちらを見ないわけにはいかない。


 アンジェは出来るだけゆっくり瞬きをしながら、顔の向きを変えた。何かの偶然が起こって、彼女を見ないで済んだらいいのに。……いいえ、本当は誰よりも気になっている。わたくしから、祥子からフェリクス様を奪う主人公が、果たしてどんな少女なのか。完璧な淑女となったアンジェリーク・ルネ・ドゥ・セルヴェールが悪役令嬢たらしめるほどの嫉妬に駆られることになる、主人公リリアン・スウィートを。


 アンジェの青い瞳が、ストロベリーブロンドを捉える。

 少女もちょうど、主催席を──アンジェ達を仰ぎ見る。


「────っ!!!!!!」


 後にその瞬間を何度も思い返すたびに、アンジェは思う。

 世界中の教会の鐘が体の中に入り込んで、一斉に鳴り響いているかのようだったと。



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