その三

 言葉通り、蘭はゆらに何一つ教えようとはしなかった。

 師範代のような立場の蘭がそうであるなら、他の子供たちもそれに倣う。

 十四歳の最年長にはもう一人、小夜という少女もいたが、普段から蘭を立てる性格であったため、蘭の決めたことに逆らうことはなかった。

 ゆらの存在は腫れ物のように扱われ、関わろうとするものは誰もいなかった。

 とは言え、蘭はゆらに対して危害を加えようとはしなかったし、何かから排除しようともしなかった。

 徹底的にいないものとして扱った。

 ゆらは勝手に鍛錬を観察し、出された食事を食べ、長屋の隅に潜り込んで寝ていた。

 本人が不平を漏らす事もなければ、華陽が口を出すこともなかった。


 ゆらが里に来て十日ほど経った頃。

 その日、子供たちは山に入って訓練をしていた。

 逃亡側と襲撃側に別れ、逃亡側が全員捕まれば負けという訓練は、言ってしまえば隠れ鬼であり、真剣な遊びという側面も持っていた。


 しばらくはどちらからも見つからないように逃亡側を見つけるという遊びをしていたゆらだが、すぐに飽きた。

 不用意に山の中を探索し、そして見事に迷った。

 夏の森は草木が青々と生い茂り、慣れないものはすぐに方向を見失う。


 しかし、ゆらは焦った様子も見せずに、のんびりと歩き回る。

 何とかなると楽観しているわけではなく、単純に自分の生死にさほど関心がなかった。


 段々と日が傾き、夕暮れも近くなってきた頃、ゆらの耳は川のせせらぎを捉えた。

 里の近くにも川が流れていたことを思い出し、川沿いに下れば戻れるだろうとゆらは川に向かう。


 木々を抜けると、岩場に出る。

 岩場を縫うように流れる渓流は、水量はかなり多く、流れも早い。

 その流れの中に、一人の少女が立っていた。


 歳の頃はゆらと変わらない。

 一糸纏わぬ肢体は幼いながらにしなやかで、川面に目線を落とした顔は端正だが、少女らしいあどけなさは微塵も感じさせなかった。

 結んでもいない射干玉の髪は癖がなく艶やかで、微かに風にそよいで揺れている。


 ゆらは呼吸も忘れてその姿に目が釘付けになった。

 これが山祇に八百万いるという神のひと柱なのだろうかと思う。

 何かを美しいと思ったのは、ゆらにとって初めてのことだった。


 少女は流れの早い渓流に膝まで浸かりながら、身動ぎすらもせずに立っていた。

 時が止まったように、ゆらも少女を見つめ続ける。


 やおら、少女の手が動いて川を掬ったかと思うと、岩魚が一匹、空中に放り出されて岩の上に落ちた。

 動きが早いわけではないが、静から動への変化が滑らかで、ゆらの目でも見過ごしそうであった。

 動いているのに認識し辛い感覚は、ゆらに華陽に捕まった時のことを思い起こさせた。

 動きの本質が二人は似ている。

 他の里の子には感じない感覚だった。


 いつの間にか、少女はゆらの方を見ていた。

 その澄んだ黒い瞳とゆらの目が合う。


 少女は不思議そうに首を傾げた。

 裸体を惜しげもなく晒してゆらの方に歩み寄る。


「見ない子ですが、迷子ですか」


 年に見合わない大人のような口調で、少女が問いかける。


「里に戻れなくなった」

「里の子でしたか。この川を下っていけば辿り着きますよ」


 川下を指差しても、じっと動かないゆらに訝しげにしながらも、少女は踵を返す。

 少女は岩場を渡り、対岸の木に掛けてあった着物を羽織ると、枝に差した魚を担いだ。

 振り向いて、まだ動かないゆらに首を傾げながら川上に岩場を登っていく。


 ゆらは一瞬だけ川下に目を向けて、それから少女の後を追った。

 一定の距離を空けて後ろをついていきながら、少女を観察する。

 獣道すらない山の中を、庭を散策するような軽い足取りで少女は歩いていた。

 跳んだり跳ねたりすることはなく、由羅には理解しがたい動きでするすると岩場を登っていく。

 恐ろしいほどに静かで、目を離すと見失いそうだった。

 自然と溶け込む獣とはまた違う静かさで、ゆらの目には少女が動きを極限まで小さくしようとしているように見えた。


 ゆらにはそれが無駄な努力にしか思えなかった。

 足場の悪い山の中を滑るように動くのはなるほど大したものだが、結果だけでいうなら跳んでしまったほうが楽だし早い。

 しかし、この動きの極地に華陽がいるなら、無駄と決めつけることもできなかった。


 しばらく山を登ったところで、少女はぴたりと立ち止まって振り向いた。

 ゆらも一定の距離を空けたまま立ち止まる。


「里に戻らないのですか」

「戻ってもつまらないから」

「鍛錬はつまるつまらないというものではないと思いますが」


 ゆらの軽い言葉に、真面目くさった答えを少女は返す。

 ゆらは少し意外に思う。

 人というよりは生き物として美しい姿。一糸纏わぬ姿で魚獲り。こんな山中でたった一人でいること。

 浮世離れした印象と比べて、随分と固い性格のようだった。


「あなたも戻っていない」


 この十日でゆらは、少女を里で見かけたことはなかった。


「さぼっているわけではありません」

「何しているの?」

「一人で鍛錬しているだけです。長の許可ももらっています」

「ふぅん」


 適当に鼻を鳴らし、ゆらはひょいひょいと跳ねて少女に近づく。


「戻らないと叱られますよ」

「好きにしていいって言われているから」


 すぐ近くまで来たゆらを少女が諭す。


「まだ里に来たばかりでしょう。どうしてそんなことに」

「知らない。なんか気に入らないみたい」

「誰がですか」

「誰だっけ…えーと、らん、とかいったかな」

「蘭さんですか? 気分で扱いを変える人ではないと思いますが」

「教えることはないんだって」


 少女の目がすっと細まった。

 剣士としての目で、ゆらの頭の天辺から爪先までを観察する。


「ほう。蘭さんが教えることがないと。それは興味深いですね」

「わたしもあなたに興味ある」


 ゆらの言葉に、少女は年相応の笑顔を浮かべた。

 不意打ちのようなあまりに無邪気な笑顔に、ゆらの心臓が大きく高鳴る。

 不可解な自分の反応を、ゆらは大人のような態度から急に子供っぽい顔をされて驚いただけだと結論づける。


「それは良かったです。里に戻らないのなら、しばらくわたしと一緒に鍛錬しませんか」

「鍛錬は分からないけど、一緒に行く」

「…ちゃんと鍛錬はするんですよ」

「楽しかったらね」


 暖簾に腕押しで響かないゆらの態度に、少女はため息をつく。


「不真面目な人ですね」

「あなたは真面目すぎ」


 無言で見つめ合った二人は、堪えきれずに吹き出す。

 ひとしきり笑い合った後で、少女はまた大人びた表情に戻った。

 それを少し残念だとゆらは思ってしまう。


「さあ、わたしが住んでいる小屋までもう直ぐです。急ぎますよ」


 少女はゆらを促して、再び歩き出す。


「まって」


 咄嗟に呼び止めてしまってから、ゆらは逡巡する。

 足を止めた少女が不思議そうにゆらを見た。


「え、と…わたしは、ゆら」


 人から聞かれる前に名乗ったのはゆらにとって初めてのことだった。

 名前など呼び分けるための記号にすぎず、とくに今のような一対一の状況で知る必要などなかった。

 それなのに、相手が名乗ることを促すように名乗ってしまった。


 少女は瞼を何度か瞬かせた後、苦笑いを浮かべる。


「失礼。里で誰かに名乗ったことなどなくて失念していました」


 少女はしっかりとゆらの方を向いて、真っ直ぐな目で見た。

 純粋な、汚れを知らない無垢な子供の目ではなかった。

 それでも折れることも曲がることも知らない、ただ真っ直ぐな目。


「わたしは凜。凜と呼んでください」

「りん…」


 その名前をゆらは口の中で転がす。

 甘い疼きが、心臓から口の中に広がったようだった。

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