その二
師への抗議が不発に終わった蘭は、残されたゆらに視線を戻す。
呆っとしたその立ち姿に、どこか違和感をおぼえる。
武芸を嗜んでいるという感じではないのに、奇妙に隙がないように見えた。それに、あまりにも自然体すぎる。
知らない場所に連れてこられたというのに、不安や緊張がまるで感じられない。
「あなた、ここがどういう場所か分かっているの?」
「さっきの人から聞いた。守り手? というのを育てている」
蘭はため息をつかざるをえなかった。
これは五歳の子供と同じ鍛錬と教育が必要だと思った。
「あなたを連れてきたのは華陽様。ここでは長と呼びなさい」
「分かった」
「言葉遣いは…また今度ね」
ゆらの前に進み出た蘭は、周りを見回して少女の一人に声をかける。
「加奈。小太刀を貸してちょうだい」
「はいっ」
声をかけられた大人しそうな少女が、慌てて蘭に駆け寄り、腰から鞘ごと抜いた小太刀を差し出した。
年少者用の、とくに短く作られた物だ。
黙って受け取った蘭は、そのままゆらに小太刀を渡す。
不思議そうに鞘を掴む所作を見ても、初めて刀剣を手にしたのだと分かる。
蘭はそのまま数歩後ろに下がった。
「私は蘭。長に代わってここの取りまとめをしている。まず、あなたがどの程度動けるか見せてもらう」
無造作に小太刀を抜きながら蘭が言う。
「刃引きしてあるけど真剣よ。使うかどうかは好きにして」
見せつけるように蘭は軽く小太刀を振るう。樋のない刀が立てる風切り音は鈍く重かった。
樋を掻いた刀身は容易に鋭い風切り音を立てるが、樋のない刀は太刀筋が立っていなければ音すらならない。
たった一振りで、分かるものには蘭の優れた腕前が分かるだろう。
蘭は切っ先をゆらに向けた。
「立ち合いよ。手加減はするけど、死んでも文句はなし。ここはそういうところだから」
脅しではない淡々と事実を告げる蘭の言葉にも、ゆらは何の反応も示さない。
手に持った小太刀を抜く素振りも見せなかった。
あまりの反応の鈍さに蘭は眉をしかめる。もしかして頭が弱いのかもしれないと思うが、会話の受け答えはしっかりしていた。
少し痛い目を見せた方がいいかと、蘭は思う。
痛みを知らず、恐れない剣士は役に立たない。それは死兵にしかならないからだ。守り手とは文字通り守り抜くもののことで、殺しはその手段の一つでしかない。
鋭く踏み込みながら、蘭は横薙ぎに小太刀を振るう。
手加減はしたが寸止めするつもりのない一閃を、しかしゆらは尋常ではない反応速度で後ろに跳んで躱した。
見ていた周りの子供たちからざわめきが上がる。
あまりに非常識なゆらの動きに、蘭の顔が強張る。
今のゆらの動きは、まるで蘭が剣を振るのを見てから躱したようだった。
そんなことはどんな達人だってできない。腕の立つ剣士の振る剣の速度は、人間の反応できる速度の限界を超えている。
だからこそ剣士は、相手の剣ではなく、体の動き全体を見て剣を躱すのだ。
そんな蘭の常識を嘲笑うかのような動きだった。
体捌きも歩法も素人のそれなのに、ただ持って生まれた目と反応速度だけで躱された。
積み重ねた鍛錬の全てを否定されたようで、蘭の頭に血が上る。
翻った蘭の小太刀の切っ先が、腰の鞘に戻った。
腰を落とし、抜き打ちの構えをとる。
目が据わり、長く息を吐く。息とともに怒りの感情も吐き出し、蘭は心を平静に戻した。
怒りが消えたわけではない。しかし、感情を飼いならして流されないことは、何よりも華陽に教え込まれたことだった。
「しっ」
鋭い呼気とともに、刃が鞘走る。
ゆらの首筋に放たれた一刀は、何の手加減もされていなかった。
八歳の子供の首など、刃引きされていようと容易くへし折るであろう。
十四歳の少女が放ったとは思えない、凄絶な一刀。
本来、抜き打ちとは受けの傾向が強い技だが、それは同じ剣士相手の話だ。
抜き打ちの剣筋を薙ぎだと思っているものは多いが、実際には直線に近い。
柄頭は真っ直ぐ相手に向かって抜かれ、その剣筋は相手からほとんど見えない。
抜刀術というものを知らないものが視認することは不可能に近かった。
切先が鞘から離れたとき、何の反応もできていないゆらを見て、蘭はゆらの死を確信した。
しかし、ゆらは鞘に納めたままの小太刀を担ぐように剣筋に滑り込ませると同時に、身を低く沈める。
まだ手の内が緩いところに軌道を変えられた刃が鞘の上を滑り、ゆらの頭上を虚しく通り過ぎた。
抜き打った体勢のまま、蘭は呆然と固まった。
隙だらけであったが、ゆらは何をするでもなく呆っと立っている。
見守る子供たちも静まりかえっていた。
ほとんどの子供たちにはゆらの首を打ったはずの刃が、何故か通り抜けたように見えた。
自失から我に返った蘭が大きく後ろに飛び退く。
「っ…」
一瞬、何か怒鳴りかけた蘭は、息を大きく吸って、吐いて留めて、鞘に剣を納めた。
受け流して鞘の塗りの剥げた部分をいじっているゆらを睨む。
殺されかけた危機感など、まるで感じられない。ゆらにとってはその程度の出来事だったのだろう。
「わたしがあんたに教えることなんて何もない。教えるつもりもない。好きにしなさい」
爆発寸前の感情を無理矢理押さえ込んだ、抑揚のない声で蘭は言う。
「あんたの存在は剣士への侮辱よ」
言い捨てて、蘭は踵を返した。
蘭が去ると、他の子供たちも解散するが、ゆらに近寄るものは誰もいなかった。
取り残されたゆらは、井戸の物陰に隠れるように自分を見ている少女に気がつく。
小太刀を渡した加奈という少女だった。
由羅は無造作に近づくと、結局抜きもしなかった小太刀を差し出す。
「返す」
「す、すごいね。ゆらちゃん」
怯えたようにおずおずと小太刀を受け取りながら加奈は言う。
「なにが?」
「だって、蘭さんの抜き打ちを躱せるのなんて同い年の小夜さんか、凜ちゃんくらいだよ」
「だれ?」
「あ、凜ちゃんは…」
言いかけて、加奈は広場に残る子供たちの視線を集めていることに気がつく。
明確な敵意や悪意ではないが、爬虫類が獲物を見定めるような目だった。
「ううん、何でもない。わたし、もう行くから」
慌てた口調で捲し立てた加奈は、そそくさとその場を去ってしまう。
その背を感情のない目で少しだけ見てから、ゆらは関心を失ったように目を逸らした。
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