その四
凜に連れられてゆらが辿り着いたのは、山肌のわずかな平地に建てられた、本当に小さな小屋だった。
中に入ると床板すらなく、土間にかまどが設置されている以外は何もない。
小屋といっても納屋に近いようにゆらには思えた。
「山修行の備蓄品を置く所なので手狭ですが」
本当に物置だったようだ。
この美しい少女に似つかわしいとは思えないが、どこにいようと凜は凜なのだろうと奇妙な納得もあった。
奇麗な屋敷で着飾って鎮座する凜など、逆にゆらには想像できなかった。
もとより、ゆらは奇麗な屋敷も着物も見たことなどなかったが。
「とりあえず、腹ごしらえでもしますか」
独り言のように言って、凜はかまどに火を起こす。
「楽にして待っていてください」
言われて、小屋の中をゆらは見回す。
小屋の中にあるのは、いくつかの木箱、木箱の上に置かれた数冊の書物と紙束、小太刀が数振り、隅には藁が敷かれている。
ゆらは居心地の良さそうな藁の上に寝転がった。
藁のどこか落ち着く匂いに、微かに甘い凜の匂いが混ざっている気がした。
獲ってきた魚の下処理をして、網にかけている凜の背中を見ていると、うとうととしてしまう。
そんな記憶などないのに、どこか郷愁を感じて少しだけ泣きたい気分が、なぜか心地よい。
いつの間にかうたた寝してしまっていたゆらは、肩を揺らされて覚醒した。
間近で凜が、ゆらの顔を覗き込んでいた。
その後ろから西日が差し込んでおり、うたた寝していた時間が短くなかったことを物語っていた。
こんなに無防備な姿を晒したのは、ゆらにとって初めてのことだった。
「できましたよ」
「ん…」
ぼんやりとした頭で、凜が差し出す魚の刺さった竹串を受け取る。
きょとんとした顔でゆらは凜と魚を見比べた。
凜はゆらの隣に腰を下ろして、魚にかじりついていた。
小さな口が魚を咀嚼するのを、ゆらはじっと観察する。
こんな野卑な食事でも、凜の食べ方は丁寧で奇麗に見えた。
「食べないのですか」
「魚そのままで食べたことない」
視線に気付いた凜の問いかけに、ゆらは応じる。
ゆらが食べたことがある魚は干物くらいだ。
里で出されていたのは保存の効くものと麦粥くらいであったし、その前はまともな食事などしたことがなかった。
「そのまま齧り付けばいいだけです。骨も食べられますが、苦手なら残してください」
凜を真似して、ゆらは魚を無造作に口にした。
途端に口の中を火傷するほどの想定していなかった熱さに、涙目になる。
「あふい…」
半開きにした口で熱を逃しながら、ゆらは口の中のものを咀嚼する。
塩加減のよくきいた旨みが口の中に広がる。時間をかけて火を通したのか、骨も十分に柔らかく味わいがあった。
「おいひい…」
慣れない熱さに口の中を火傷するのにも構わず、ゆらは夢中で魚を平らげる。
食事を美味しいなんて思ったのも、初めてだった。
出会ってまだ一日も経っていないのに、この凜という少女はゆらに驚きばかりをもたらす。
凜が何か特別なことをしたわけではない。
ただ、当たり前に接しているだけなのだろう。
しかし、それはゆらの知る当たり前ではなかった。異邦の血が入っているゆらに、山祇の民が当たり前に向けてくる偏見が凜には感じられない。
「こんなもので喜んでもらえるなら安いものです」
凜はゆらの手から食べ終えた竹串を取り上げて、代わりのように雑炊の入ったお椀を握らせる。
受け取ったお椀を手の中で弄びながら、ゆらは口を開いた。
「ねぇ、りんはわたしの髪とか気にならないの」
「髪ですか。薄い色の髪も奇麗ですね」
「そうじゃなくて」
「…ああ、異邦の血が流れているということですか」
ようやく気が付いた凜の言葉に、ゆらは頷く。
「この国の人はみんな、わたしを見ると変なものを見る目をする」
「みな黒い髪と目ですからね。もの珍しいのでしょう」
「りんは?」
問われて凜は、少し考えてから答える。
「わたしは里で生まれ育ったためか、ずれているのかもしれません」
「里から出たことないの」
「少なくとも山を下りたことはないですね」
「ふぅん」
これも一種の箱入りというのだろうか、とゆらは思う。随分と広い箱庭ではあるが。
「わたしは守り手になるためだけに育てられましたから」
「守り手ってなんか偉い人を守る人でしょ」
「偉いというより、尊い人というべきですが。ゆらは何歳ですか」
「八歳みたい」
「同い年ですね。それならあなたも守り手の候補です」
「よく分からない。りんは顔も知らない人の守り手になりたいの」
なぜか理由の分からない不愉快さを感じながらゆらは問いかける。
その問いに凜は首を傾げた。
「なりたい、かどうかは考えたことがありません。守り手になること以外は何も教えられていないので」
「守り手になれなかったらどうするの」
「それも考えたことがありません」
ゆらの中の不愉快さが強くなる。
この山祇には、凜を初めから与えられている人間がいる。
何の苦労もなく、ただ生まれだけで凜の人生を縛り付けているのだ。
「…わたしが守り手になったらどうするの」
不愉快さを誤魔化すために、ゆらは意地悪な問いを投げかける。
「どう、とは」
「わたしのこと嫌いになる?」
「悔しいとは思うかもしれませんが、その時はあなたが優れていたというだけでしょう」
凜の口調にも表情にも強がりはなかった。
だが、それは決定的な敗北を知らないから言える真っ直ぐさだった。
自分が守り手になると自然に思えるくらいには、凜は里で優秀だった。
どれだけ積み重ねても及ばない挫折を、凜はまだ知らない。
「ふぅん。それならわたしも守り手目指してみようかな」
「何がそれならなのか分かりませんが、当然のことですね」
ゆらが守り手になれば、凜は誰のものにもならないかもしれない。
それは意味のあることのように、ゆらには思えた。
「守り手には礼儀作法や学も必要ですが、ゆらは字の読み書きはできますか」
「できない」
「自分の名前も? それくらいは親に教わりませんでしたか」
「親なんていない。名前は呼びやすいものを与えられただけ」
「わたしと同じですね」
言いながら、凜は魚を刺していた竹串で、地面に『凜』の字を書く。
「これがわたしの名前です」
「凜」
その文字と凜の指の動きを、ゆらは記憶に刻んだ。
大抵の動きは、一度見れば再現することができる。
凜は隣によく似た『凛』という字を並べて書く。
「こちらの方が一般的ですね。わたしの名前は古い字で今はほとんど使われていません」
「ふぅん。何か意味があるのかな」
「どうでしょう。名付けた長なら知っているかもしれませんが、聞いたことはありません」
凜は更に、いくつかの字を地面に書く。
「ゆらはこんなところですかね」
同じような字が並ぶ中で、一つだけ随分と画数多い字が目を引く。
ゆらはその字を指差した。
「これだけ難しい」
「ああ、これは織物とか、網が転じて捕まえるとかそんな意味ですね。あとは帝国では物騒な言葉に使われます」
「物騒?」
「鬼神とか悪神の名前ですね」
「捕まえる、悪い神…」
じっと凜を見ながら、ゆらは呟く。
「まあ、悪いかどうかは見方によると思いますが」
「わたし、これにする」
ゆらは『由羅』と書かれた文字を指差した。
「いいのではないですか。珍しいですが、いないというほどではないでしょう」
凜の手から竹串を取り上げ、ゆらは『凜』と『由羅』の字を並べてなぞり書く。
初めて書いたとは思えない精度で凜の字を模写し、しかし飽きずに何度も繰り返す。
それを凜は、どこか微笑ましく見ていた。
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