三十三
皇都は三方を山に囲まれ、南に開けている。
北に街道を持たないため、設置された北門も形式的なものでしかなく寂れていた。
北門から伸びる、整備もほとんどされていない閑道を北上すると、すぐに獣道のような山道に差し掛かる。
皇都手前の宿場町を日が昇る前に出た陽鞠と凜は、皇都を迂回して山道を登り、日が暮れる前にたどり着いた山頂の炭焼小屋に泊まっていた。
夜の山道は危険なので、陽鞠に歩かせるつもりは凜にはなかった。
そういうつもりで、いつも凜は旅程を組み上げている。
人の訪れなくなった無人の炭焼小屋は、埃が積もり少し荒れていたが、寝泊まりできないほどではなかった。
もちろん凜一人であれば、こんな山越えは一日かけるようなものではない。
しかし、だからといって陽鞠の足が遅いとは思っていなかった。
むしろ幼少から監禁に近い生活をしていた割にはよく頑張っていると感心していた。
それはこの山越え一つの話ではなく、この一年間の旅そのものでの話だ。
凜は陽鞠の足袋を脱がせて、小さな足の汚れを拭いながらそんなことを考えていた。
旅の初めは柔らかかった足の裏が少し固くなっている。
母趾球の固い部分を指先で凜が撫でると、陽鞠はくすぐったそうに声を漏らす。
「凜様、触り方がいやらしいです」
「何言っているんです? 足の裏、固くなりましたね」
「本当ですか」
凜の言葉に、陽鞠は嬉しそうに微笑む。
足の指がもぞもぞと可愛らしく動いて、思わず凜は目で追ってしまう。
「何でそこで嬉しそうなんですか」
どちらかといえば貴族の姫君にとっては悲しむべきことではないだろうかと、凜は首を傾げる。
「だって、少しでも凜様みたいになりたいではないですか」
「私に? 陽鞠様の方がよほどご立派ですよ」
「それは、どうせ巫女としてとかでしょう」
「いえ、人としてご立派かと」
陽鞠は世間知らずなことを気にしているようだが、常識など立つ位置によって変わるものだ。今は凜が陽鞠を助けることが多いが、もし宮中での生活などであれば立場は逆転するだろう。
陽鞠は異なる常識の環境に置かれた時に、それを自然と受け入れて、自分の常識を押し付けることがない。
凜は陽鞠に庶民の生活など無理だと思っていたが、最近は思い直していた。意外と陽鞠はどんな暮らしでも馴染むのかもしれない。
そんな陽鞠の器量の広さというか、ある意味での太々しさを凜は尊敬していた。
「本当はこんなふうに足を拭かれるのも、すごく恥ずかしいんですよ」
物には不自由したことのない陽鞠だが、近づくことを畏れられていたため、着替えなどで他人の手を借りることはなかった。
何かと世話を焼きたがる凜を嬉しいとは思いつつも、気恥ずかしかった。
それに、一方的に献身されることは陽鞠が凜に求める関係ではない。
「いいではないですか。可愛らしい方のお世話をできるのは、私の役得です」
「普通は逆ではないですか」
世間では見目の良いものを侍らすことを、一種の権威とする向きがあることを陽鞠でも知っていた。
地下貴族の中には愛妾の数や見目の良さを風流とする古い習慣もまだまだ残っている。
しかし、凜がしてくれるように自分が凜の世話を焼くところを想像して、悪くないと陽鞠は思った。
それはとても楽しそうだった。
頭の中の想像だけで、陽鞠は凜の言葉に納得できてしまった。それが何となく悔しくて、陽鞠は話を変える。
「それと、あまり可愛いと言わないでください」
「お嫌でしたか」
「いやというわけではありませんが…」
可愛いという言葉は、子供扱いされている気が陽鞠はした。
とにかく陽鞠は、凜と対等な関係を築きたいのだ。
凜を守り手にしたのは、仕えて欲しいからではない。
一生、支え合って生きていく相手として選んだつもりだった。
凜はきっと、ずっと自分の傍にいてくれて何よりも優先してくれると、陽鞠は信じている。しかし、陽鞠が凜の傍にずっといて、何よりも優先しているのだということを凜は理解してくれない。
そのことに不満はあるが、仕方のないことだとも陽鞠は思っていた。
今はまだ、陽鞠から凜にあげられるものが少なすぎる。現実として対等ではないのに、言葉だけ対等を求めても意味がない。
貴女を支えたいなんて言葉は、とても言えなかった。
言えない不満を、陽鞠は別の言葉に変えて凜に八つ当たりする。
「凜様って、そんな誰にでも可愛いって言うのですか」
剣の里でも他の子たちにこの調子で自然に言っていたのなら、それは想いを寄せられてもおかしくないだろう。
他の女の子と同じ扱いを受けているのだと思うと、陽鞠は腹の奥が重くなるのを感じた。
足を拭き終えた凜は、陽鞠の言葉にぴたりと動きを止める。
何かを思い出そうとするかのように眉を寄せた。
「どうしたのですか」
「いえ…そういえば陽鞠様以外を可愛いと思ったことなかったなと」
景色に感動する情緒も持ち合わせていないのが凜という人間だった。
人間に対しても造形が整っているという意味で美しいと思うことはあっても、そこに感情は伴わない。
それなのに、陽鞠に対する可愛いは容姿以上に庇護欲や親愛からくるたぶんに感情的なものだった。
「これも巫女の力なのでしょうか」
「知りません!」
陽鞠は真っ赤になった顔をぷいと逸らした。
必死に自分の心を落ち着かせる。これは急に凜がとんでもないことを言うから驚いてしまっただけだと、自分に言い聞かせる。
けして、凜に男の代わりを求めるようなことはしたくなかった。
凜にうんざりされるのも、刹那的な感情で今の関係が壊れるのも嫌だった。
一生一緒にいるために必要なのは、互いに尊敬し思いやることで、恋はそれを壊すものだと陽鞠は思っている。
「陽鞠様、顔が赤いですよ。熱があるのでは」
凜は額を、無造作に陽鞠の額につける。
唇が触れそうなほどに近い。
陽鞠の脳裏に、一年前、初めて穢れを祓った日の夜が思い出される。
口づけとも言えない、微かに触れてしまった唇。
陽鞠自身ですら、偶然だったのか衝動だったのか考えないようにしていた夢のような出来事。
今、唇を触れさせたら、それは言い訳もできない現実の出来事になる。
触れたらきっと終わってしまう。陽鞠の望まない感情が二人の間に入り込んで、いつか関係を壊してしまうと陽鞠は恐れた。
それでも触れ合いたい衝動が、目を眩ませるほどに切なく陽鞠の胸を締め付ける。
どれだけの時間、その衝動に迷っていたのか、いつの間にか顔を離した凜が、心配そうに陽鞠の顔を覗き込んでいた。
「本当に大丈夫ですか。泣くほど辛いのですか」
「え…」
凜に指摘されて、陽鞠は指先で眦に触れる。
流れた涙が、指先を濡らした。
悲しいわけでもないのに、涙は止まらずに流れ続けていた。
「あれ、おかしいですね」
涙を拭おうとする陽鞠の手を凜が掴んで止め、胸元に抱き寄せた。
「擦ると目が腫れてしまいますから」
それほど豊かとはいえない、凜の胸の膨らみに陽鞠は顔を埋め、涙で濡らす。
涙は余計に溢れてしまったけれど、心はとても安らいでいた。
ただ、心臓はうるさくて、大人しくなってくれなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます