五章

三十二

 鷦鷯帝三十四年五月。

 陽鞠が正式に巫女になってから、一年以上が経っていた。


 陽鞠は山祇中の穢れを祓って回り、一度として皇都に戻ることはなかった。

 穢れを祓うことはただの務めだが、凜と旅して回るこの一年は陽鞠が生きてきた中で、もっとも幸せな時間だった。


 峠道を歩く陽鞠は、隣を歩く凜に目を向ける。


「凜様。また背、伸びました?」

「そうでしょうか」


 凜は自分の頭に手を当てて首を傾げる。

 陽鞠はほとんど変わっていないのに、一年前は少し高いだけだった凜と、今では見上げないと目が合わない。


「凜様ばっかりずるい」

「ずるいと言われても。陽鞠様は小さくて可愛らしいですよ」

「すぐそういうこと言う」


 子どもっぽく頬を膨らませた陽鞠の頬がうっすらと朱に染まっていた。


「あまり背丈に差が出ると、私が子どもっぽく見えるではないですか」

「子どもっぽく見られたくないのでしたら、頬を膨らませるのはやめた方がよろしいのでは」


 凜の指に突かれて、陽鞠は慌てて頬を引っ込めた。

 誤魔化すように手を繋いでくる陽鞠を、凜は優しい目で見る。


 この一年で陽鞠との距離もだいぶ気が置けないものとなっていた。

 陽鞠と出会ったばかりの自分が見たら呆れるだろうと凜は思う。

 立場こそ違うが尊敬すべき主人で、愛すべき妹のようにも思っている。

 もちろん立場を弁えている凜は、それを口に出して陽鞠に言ったりはしないが。


 ふと一年前に背丈について同じような会話を交わしたことを凜は思い出した。

 相手は陽鞠ではなかったが。

 由羅とはあれから一度も会うことはなかった。

 心配する権利など凜にはない。

 願うならば自分たちのことなど忘れて、自分の道を歩み出してくれればいいとは思うが、それこそ自分勝手というものだろう。


「いま、他の人のこと考えていたでしょう」


 棘のある声に凜が我にかえると、陽鞠が上目遣いで睨んでいた。

 由羅といい、世の女性には当たり前にこの能力が備わっているのだろうかと考えて、自分にはないなと凜は考えるのをやめた。


「陽鞠様はやきもち焼きですね。将来が心配です」

「将来って何ですか」

「陽鞠様だってそのうち誰かに恋をするかもしれません。そのお相手は大変な覚悟がいりますね」

「…凜様はそのうち私に刺される覚悟をしておいた方がいいのでは」

「私に八つ当たりしないでください」


 まるで分かっていないと言うように陽鞠はため息をついた。

 恋なんて陽鞠にはまるで理解できない感情だ。この先、理解できるとも思えない。

 そんなものより、凜の方が大切だということを、どうして分かってくれないのだろうか。

 未だに凜は陽鞠の隣にいつかはそういう相手が立つと思っている。陽鞠にはそんなつもりは欠片もないのに。

 凜と一緒にいることが楽しくて、嬉しくて、幸せだった。陽鞠は本当に凜以外の誰もいらないと思っている。

 恋なんてあやふやなものが紛れ込んで、凜との関係が変わってしまうことを陽鞠は何よりも恐れていた。


 凜が男であれば話は簡単だった。

 凜を恋人にしてしまえばいいだけのことだし、凜だって陽鞠を他の男に渡そうとは思わないだろう。

 例え本物の恋愛感情がそこになくとも、そう錯覚させるだけの絆が巫女と守り手にはある。

 そもそも両親の経緯を見ている陽鞠は、恋や愛を上等なものだと思っていないし、そんなものが本当に存在するかも懐疑的だった。

 だから陽鞠は凜が男ではないことを残念だとは思わない。むしろ女で良かったと思っている。

 自分が凜に向ける感情が何なのか完全に理解できているわけではないが、それでも男と女のそれよりはよほど強いものだと信じていた。


 分かってくれないことは不満だが、陽鞠は焦っているわけではない。

 これから長い時間を一緒にいるのだから。

 とりあえずは二十歳になった時に、嫁になど行かせたくないと凜に思ってもらうことが、今の陽鞠の目標だった。


 そんなふうに凜のことを気にかけている陽鞠だから、繋いだ手が微かに強張ったことにもすぐに気がついた。

 陽鞠にしか分からないような微かな変化だが、陽鞠には凜が何に反応したのかは分からない。

 変わったことといえば、向かう先に茶屋が見えてきたことくらいだろうか。


「陽鞠様。少し休んでいきましょう」


 そう言うと、凜は陽鞠の返事も待たずに茶屋に足を向ける。

 屋外に並べられた腰掛けには、先客が一人だけいた。行商人風の男だった。


「こちらの方に団子と茶を頼みます」

「はぁい」


 給仕の娘に注文した凜は、陽鞠を座らせ、自分は行商人風の男の近くに腰を下ろす。

 何となく事情の飲み込めた陽鞠は、黙って凜の様子を窺った。


「わざわざ立ち止まらせるとは珍しい」

「申し訳ございません。火急の案件がございまして」


 凜と小声でかわす会話から、男は神祇府の密偵なのだと陽鞠は推し量った。

 陽鞠が祓うべき穢れの情報は、こういった密偵が書状の形で凜に託している。

 それはほとんどの場合、陽鞠の目につかないくらいに密やかに行われていた。

 こうして陽鞠の目の前に出てくるのは珍しいことだった。


「穢れですか」


 陽鞠の席に娘が茶を置いて行くのを横目で見送ってから、凜は口を開く。


「はい。皇都から山を一つ越えたところにある山間の農村です」

「皇都に近いですね」

「それも問題なのですが、どうも海の外の介入が見え隠れしています」

「帝国ですか?」


 今上帝が東の王国と近づいた分、西の帝国との関係は悪化している。

 国境を接している王国と帝国は度々領土問題を起こしており、歴史的に仲が悪い。

 とは言え山祇国から見ればどちらも長年の侵略者であり、潜在的な敵国であることに変わりはない。


「分かりません。村ごと穢れに沈んでしまい、近づけないのです」

「そんなことがあり得るのですか」

「記録に残る限りは初めてのことです」

「そんな事態になるまで、誰も気づかなかったのですか」

「天領で領主もいない村だったのです。徴税官が村を訪れて初めて発覚しました」


 皇室の直轄地である天領は自治権が強く、締め付けも緩い。


「それでは村人は…」

「全滅したと考えていいでしょう」

「なぜ外つ国の介入があったと」

「村一つ誰も逃さずに滅ぼすなら、それなりの人数が必要です。国内でそんな動きがあれば、必ず網にかかります」

「異邦の民もそんな人数を集めたら目立つでしょう」

「長い年月をかけて少しずつ浸透させたのではないかと」

「それを一か所に集めるほどの、大がかりな作戦が行われたと」

「推測の域を出ませんが」

「しかし分かりません。こんなことをして何の意味があるのでしょうか。穢れを生むだけなら村一つ滅ぼすのは大仰過ぎます」

「そのあたりは穢れが祓われてから調査するしかありませんな」

「そうですか」


 凜の形のいい眉がひそめられていた。

 裏で何か策謀が動いてそうで不快だった。穢れという手段を用いている以上、巫女が無関係とは思えない。


「それでは、詳細はこちらに」


 腰掛に書状を置き、巾着でおさえて男は立ち上がる。

 路銀はいつもこうした形で渡されていた。


「ああ、そうです」


 思い出したように言う凜に、男の動きが止まった。


「監視についている者たちですが、何とかなりませんか」

「…何とかとは」

「下手くそ過ぎます。私はともかく、陽鞠様のお気に障るようなことがあれば斬りますよ」

「…善処いたします」


 去っていく男の背が見えなくなってから、凜は軽く息を吐く。

 凜の隣に席を移して、陽鞠はその口に団子を押し込んだ。目を瞬かせながら咀嚼する凜に湯呑を差し出す。


「監視って何ですか」

「旅に出てからずっと私たちを付け回してるものたちのことです」

「今もですか」

「ええ…ああ、少し距離をとったようですね」

「たまに感じる視線はそれだったのでしょうか」

「目障りなら斬りますか」

「すぐに斬ろうとしないでください。それくらい気になりません」


 陽鞠が頷けば本当に斬るであろう凜に、陽鞠は少し呆れてしまう。

 排除したところで別のものがその役割に就くだけのことだ。

 凜はけして暴力的でも血の気が盛んでもないのに、陽鞠を少しでも脅かそうとするものに対して容赦がなさすぎる。


 それを嬉しいと思う反面、恐ろしいとも陽鞠は思う。

 凜にはやはり刀としての一面がある。

 陽鞠の刀だ。

 場所を考えず、相手を考えず、先を考えず、ただ陽鞠の意思だけで人を斬る。

 刹那的な感情で人に殺意を向けてはいけないと陽鞠は己を忌まわしめる。


 それはけして良心などではなかった。

 陽鞠は凜との穏やかな生活を望んでいるのだ。

 感情のままに凜という刀を振えば、それは叶わなくなるだろう。

 凜はそこを斟酌したりはしない。

 普段の凜は陽鞠よりもよほど先のことを考えているが、刀を手にした凜は生粋の守り手であり、それらの一切を放棄して凶器としての一面を見せる。


 守り手という力の制御もまた巫女の務めの一つであった。

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