三十一
風呂から上がった凜たちが座敷に戻ると、二組の布団が敷かれていた。
風呂で体が温まった陽鞠は眠くなってきたのか、襦袢姿で布団の上で目を瞬いている。
「眠くなったのでしたら先にお休みください」
凜は背負い行李の荷物を整理しながら言う。
「いやです。お話しすると言いました」
「…分かりました。少しだけ、お待ちください」
一度取り出した荷物を、凜は手際よく詰め直していく。
ぼんやりとそれを眺めていた陽鞠は、凜が最後にしまった布の包みを見とがめた。その大切そうな手つきと優しい目に、陽鞠の胸は突き刺すように痛んだ。
誰かからの贈り物だろうか。
由羅、華陽そして蘇芳。あるいは陽鞠の知らない誰か。凜にあんな顔をさせることができる人がいる。
「それは何ですか」
ささくれだった心が、陽鞠に硬く尖った声を出させた。
陽鞠の知らない何かを凜が大切にしていることが、許しがたかった。あまりにも狭く自分勝手な心根だとは思うが、感情は止めようがない。
もし凜が答えることを拒んだら憎しみに変わりそうな心も、凜の個人的事情を詮索することに何の躊躇いも覚えない自分が、陽鞠は怖くなった。
「…これですか」
凜は気まずそうに包みと陽鞠を見比べる。
「見せないといけませんか」
「私に命令させないでください」
凜はため息をつくと、陽鞠に近づいて包みを差し出した。
「崩れてしまうので乱暴にしないでくださいね」
「崩れる…?」
とても大切にしていることが分かる言葉に、陽鞠の心が凍えていく。
見もせずに踏み砕いてしまいたくなる衝動を抑えながら、陽鞠は包みを受け取る。
ほとんど重みのない包みを、膝の上に置いてゆっくりと開いた。
「これ…」
陽鞠は呆然と包みの中に視線を落とした。
萎れ、枯れ果ててしまった花かんむりの残骸。もはや元の花の姿も分からないが、陽鞠には見間違いようもなかった。
あの丘で陽鞠が編んだ白詰草の花かんむり。
「なんで」
「…なんとなく捨てがたくて」
恥ずかし気に凜は言って、陽鞠から包みを取り上げてしまう。
陽鞠にとっては、母との関係を説明するために手慰みで編んだだけの物だった。今の今まで陽鞠が忘れていたそれを、凜が大事にしているなんて思ってもいなかった。
いもしない相手に嫉妬していた自分が恥ずかしくなる。
そそくさと立ち上がって行李の中に包みをしまった凜に、陽鞠は後ろから近づいて抱きついた。
「何ですか。自分でも女々しいと思っているのですから、揶揄わないでください」
「揶揄うなんて…」
そんなこと陽鞠にできるはずもなかった。
できうるなら自分の胸を切り裂いてでも、どれだけ嬉しいか見せたかった。
「凜様、覚えてますか。言うこと一つ聞いてくれるのですよね」
「そういえばそうでしたね」
皇都から出立する日にそんな話をしたことを凜は思い出した。
「今日、一緒に寝てください」
「いいですが、それが恥ずかしいお願いなんですか」
「だって、前に断られているではないですか」
「そんなことありましたか」
心底覚えがないという感じの凜の首を陽鞠は軽く腕で締めた。
「陽鞠様、苦しいです」
凜は首に巻かれた腕に手を当てて、陽鞠が抱きついているのをいいことに背負って立ち上がる。
そのまま布団まで運んで陽鞠を下ろした。
「ほら、もう布団に入ってください」
うながされた陽鞠が布団に入ると、凜は行燈の灯りを落としてから陽鞠の隣に潜り込む。
暗闇の中で陽鞠が擦り寄ってくるのを迎え入れるように、凜は腕枕をする。
洗ったばかりで香も焚いていないのに微かに甘い匂いが凜の鼻腔をくすぐった。
「それで、何をお話しされたかったのですか」
「凜様は今回の穢れの件、どう思われましたか」
顔が近いせいか、どちらの声も囁くように小さい。
陽鞠の問いは抽象的で、凛は内心で首を傾げた。
「不可解な状況だと思いました」
「どのあたりがでしょうか」
「そうですね…」
凜は頭の中を整理しながらゆっくりと話す。
「まず間違いがないのは嘉平は巻き込まれただけということでしょう。血痕もありませんでしたし、夜にでも侵入して穢れに気づかなかったのだと思います」
「なぜ、嘉平は夜中に訪ねたのでしょうか」
「穢れは火葬すると発生しないと陽鞠様は言いました。腐敗と関係があるとも。ということは死後すぐに発生するのではないのではないですか」
「はい、状況にもよりますが死後二日程度経ってからと言われています」
「嘉平が姿を消したのは花が嫁入りしてから何日か後という話でした。であれば、穢れを生んだ娘が亡くなったのは花の嫁入り直後ということになります」
嘉平の死が穢れによるものなら、穢れを生んだ娘の死とは二日以上の時間差があることになる。
「おそらく嘉平は嫁にすぐに逃げられたと思われることを恥じたのではないでしょうか。それで、花が逃げ込む先として可能性が高い美代のところを人目につかない夜に訪ねたのではないかと」
「なるほど。そういう考え方だったのですね」
「陽鞠様は違う考えをお待ちなのですか」
「いえ、単に私には嘉平の考えが分からなかったので得心がいったのです」
「家には荒らされた跡や足跡など、他の人間が介在した様子はありませんでした。そう考えると、今回の本質は娘二人にあったのだと思います。そこで問題となるのが、どちらがどちらの娘だったのかということです」
死体は腐敗が進行して、人相の区別がつかなくなっていた。
「状況だけを見ると、こうです。娘の片方がもう片方の腹を包丁で刺した。刺した娘は喉を突いて自死。刺された娘は、刺した娘を抱きしめておそらくは出血死。穢れは刺した娘から生まれた」
「間違っていないと思います」
「不可解な点は多いですが、それを調べるのは私たちの務めではないでしょう。穢れという部分から見ると、なぜ刺した方の娘が穢れを生んだのかということです。普通は逆でしょう」
その答えは、なぜ刺された娘が刺した娘を抱きしめていたのかにも繋がるのかもしれない。穢れが怨嗟という感情を媒介にするのなら、動機や人間関係が重要になるし、それを知ることは結局のところ事件を調べるのと変わらない。
「凜様はどう思いますか。刺された美代はどうして花を抱きしめていたのでしょうか」
「分かりません。刺されても憎めないくらいに大切に想っていたのかもしれません」
「凜様なら、そう思えますか」
「そうなってみないと分かりませんが、刺したのが陽鞠様なら何か事情があったのだろうと諦めはつく気がします」
「私はそんなことしません」
咄嗟にそう言ってしまったのは、陽鞠の中にやましさがあったからだった。
さっきはただの勘違いだったが、本当に凜に陽鞠以外の大切なものが出来た時に、理性的でいられる自信が陽鞠にはもうなかった。
「例えばです。例える相手が貴女しかいないのだから仕方ないでしょう」
陽鞠の葛藤も知らずに、凜は軽く言う。
何かを訴えるように身を寄せてくる陽鞠の背中を、凜は優しく撫でた。
「陽鞠様は花の方が穢れを生んだと分かっているのですね」
陽鞠は刺したのが花の方だと断定して話した。村でも美代の容姿を言い当てていた。
「…はい」
「どうしてですか」
「穢れを祓うとき、穢れの元となった記憶が断片的に流れ込んでくるのです」
凜は暗闇の中で眉を顰める。
それは死そのものに触れることと同じに思えた。十五の娘が背負うにはあまりにも重い業ではないだろうか。
「…辛くはありませんか」
凜が聞くと、陽鞠は小さく笑い声を漏らした。
「これを聞いて、最初の言葉がそれなのですね」
「おかしいですか」
「おかしいですよ。疑ったり、気味悪がったり、どういうふうに見えるのか聞いたりするのが普通です。凜様はおかしい」
「失礼ですよ」
凜が不満の声を漏らしても、陽鞠はくすくすと笑いながら一層、身を寄せてくる。
もう二人の間には、紙一枚も入る隙間もなくなっていた。
「花は心の幼い娘でした。嫁にいくということがどういうことか分かっていなかったのです」
笑いをおさめた陽鞠が、どこか沈痛な声で密やかに語る。
「要領のよくない自分が美代の負担になっているという思いもあったのでしょう。嫁にいけば美代の助けになれると安易に考えていたようです」
「百姓の嫁なんて家の所有物のようなものでしょう」
百姓の財産は家、つまりは家長が権利を有する。さらには村そのものの財産でもあるし、領主の財産でもある。
嫁に入ったからといって自由にできる物など何もない。さらには法的な財産権を持たない百姓の妻は自身が家の財産のようなものだ。
「分かっていなかったのでしょうね。本当に子供だったのです。だから、その…初夜のことも…」
「ああ。親にも先立たれて、教える人がいなかったのですね」
「花はそれが耐え難いほどに辛かった。その日のうちに花は美代のところに逃げました。しかし美代は花に戻るように言い、拒絶したのです」
「それで」
「はい。裏切られたと思った花は逆上して美世を刺し、それから自分の喉を突きました。花の最後は美代と世の中に対する恨みに満ちていました」
その記憶が蘇ったのか、身を震わせる陽鞠を凜は抱きしめる。
「…美代は、どうして花を受け入れなかったのでしょうか」
花の記憶を垣間見ても、美代の気持ちまではわからない。
裏切られたと思った時に花の脳裏をめぐった美代との思い出は、貧しくても幸せに満ちたものだった。
最後に抱きしめてあげる気持ちがあるなら、一緒に逃げてあげて欲しかった。
「憶測でしかありませんし、陽鞠様のお気持ちを軽くするものではありませんが…」
「教えてください」
「おそらく美代は身売りが決まっていたのでしょう」
あまりにも唐突な言葉に思えて、陽鞠は理解が追い付かなかった。
「人の売り買いは重罪です。あの村がそんなことに手を染めていたと」
「法で禁じているのは、かどわかしなどによる人身の売買です」
「それが何だと言うのですか」
「借金を労働で返すのは罪ではありません。村が借金をしてその返済に奉公人を出すなど、珍しいことではありません。それが建前でしかなくても」
遊郭の年季奉公の遊女など大半がそれだ。本人も知らない借金という名の対価で親に売られて、労働という名で春を売らされる。
「凜様はどうしてそう思ったのですか」
「一つは村の状況です。あの排他的な雰囲気は後ろ暗いところが村人にもあったからでしょう。それに男手の少なさ。どの村でも普通は男の方が余るものです。十五の娘の嫁ぎ先がやもめ男しかいないなど普通ではありません。おそらく流行病で若い男が多く失われたのだと思います」
働き手を失うということは、そのまま村が貧しくなることを意味をしている。
「もう一つは器量です。陽鞠様は美代を美しい娘だと言っていました。百姓の妻なら頑健な方がいいのでしょうが、そこに大差なければ美しい方が先に嫁に行くものです。そうならなかったのは、嫁になる以外の価値があったのではないかと」
「身売り先は遊里なのですね…」
「そうであるなら、美代は花を拒絶するしかなかったと思います。自分に未練を残させないためにも」
「美代は自分の行く末を知っていたと。それなら二人で逃げてしまえばよかったではないですか」
「百姓の娘二人が逃げてどうやって生きていくのです。夜鷹のようなことを、美代は花にさせたくなかったのではないでしょうか」
「ですが…ですが花は穢れを生むほど強い恨みを抱いて死んだのですよ。最後に抱きしめられたことも本人は知らない。私は…拒絶しないであげて欲しかった」
無惨な死体を見ても、死者の記憶を見せられても毅然としていた陽鞠が涙ぐみ、取り乱していた。
陽鞠は花に共感しているのだろうかと凜は考える。
「陽鞠様、ただの私のこじつけです。真実ではありません」
凜は美代が花を抱きしめていたということに、理由をつけてみただけに過ぎない。
可能性は他にいくらでも考えられる。
しかし、凜ならそう考えるということが、陽鞠に花と自分を同一視させていた。二人の結果がいつか自分たちにも訪れるかもしれないと錯覚させる。
「凜様。女が二人で慎ましやかに暮らすことが、そんなに難しいのですか」
「簡単ではない、としか申せません」
「甘い言葉はくれないのですね…」
陽鞠は凜の胸元に顔を埋めて沈黙する。
凜は目を閉じて、陽鞠を緩く抱きしめた。その温かさと柔らかさに、やがて凜にも眠気が訪れる。
だから、夢現で聞いた陽鞠の言葉が本当にあったことなのか凜には分からなかった。
「いつか私を捨てるときは、ちゃんと殺してくださいね」
その言葉を漏らした唇は、微かに凜の唇に触れていた。
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