三十

 山道は上りよりも、下の方が足に負担がかかる。

 辛そうな陽鞠を見かねておぶさるように凜は勧めたが、陽鞠は頑なに自分の足で歩いた。

 そのため凜が思っていたよりも時間がかかってしまい、宿場町に着く頃には日も暮れかかっていた。

 陽鞠は歩いている間ずっと考え事をしていて、凜とほとんど言葉を交わすことはなかった。


 確保していた宿に辿り着き、座敷に入るとすぐに陽鞠は凜に抱きついてきた。

 陽鞠の体を柔らかく受け止めた凜は、そのまま横抱きにして、座敷の奥に行く。

 柱に寄りかかりながら腰をおろすと、陽鞠は凜の足を跨ぐようにして体を密着させてきた。

 捲れた裾から陽鞠の白い足が微かにのぞいて、凜は何となく目を逸らしてしまった。


「はしたないですよ」


 凜の言葉にも首筋に顔を埋めながら、無言で首を横に振る。

 凜はその背中をあやすように撫でた。

 首筋にかかる息がくすぐったいと思いながら、背中、腰、頭、髪と場所を変えてぼんやりと撫で続ける。


 やがて少しだけ意識が浮上したのか、陽鞠は長い息を吐いた。


「お疲れなら、今日はもうお休みになりますか」

「このままでは寝られそうにないので、少しお話しさせてください」


 陽鞠は凜にもたれたまま、気怠げに答える。


「それでは先に風呂に入りますか。お食事は大丈夫ですか」

「お腹は減っていません。汗は流したいですけど…」


 動きたくないのか、陽鞠は凜にくっついたまま動かない。

 凜は少し首を傾げてから、陽鞠のお尻と背中を両手で抱えてそのまま立ち上がった。

 完全に幼児を抱っこするそれだ。


「え、やだやだ、おろして」


 顔を真っ赤にした陽鞠が抗議するが、かまわず凜は座敷の外に向かう。


「動けないのでしょう。お風呂まで連れて行きます」

「うごけます。こんなの誰かに見られたら恥ずかしい」

「貸切ですから、他に客はいませんよ」

「宿の人はいるでしょうっ」


 陽鞠が抗議する間にも、凜は止まらずに歩く。

 その足取りはさして体格の変わらない女を抱えているとは思えないくらいに安定している。


 客室のある二階から階段を降りると、番台の女将と凜の目が合った。

 もう声もなく小さくなって凜に抱えられる陽鞠を見て、女将は目を白黒させる。


「女将、湯を借ります」

「は、はい。どうぞ」


 番台の脇を抜けて、奥の脱衣所に入る。

 凜に板張りの床に下ろされた陽鞠は、そのまま膝を抱えて丸くなってしまう。


「ほら、陽鞠様。お着物を脱がないと。それも手伝いますか」

「うぅ、辱めを受けました」

「陽鞠様がぐずぐずしているのがいけないんでしょう」


 まるで悪びれたところのない凜に、陽鞠はため息をついた。

 諦めてそのまま帯を解こうとしたところで、凜が脱衣所を出て行かないことに気がつく。


「あの、お風呂に入るので…」

「入浴も手伝いますよ。御髪とか大変でしょう」

「…」

「どうしました」


 陽鞠は御殿で暮らしていた時から、巫女として畏怖されていたため付き人というものがいたことがない。

 ごく幼い頃を除いて、着替えも入浴もすべて一人でするしかなかった。

 だから、他人に肌を見せたことが一度としてない。

 逆に凜は里では着替えも沐浴も集団であったから、裸を見るのも見せるのも抵抗がなかった。

 しかも、凜の性格的に手伝うというのは言葉通りで自分は脱がずに介助するだけだろうと陽鞠は考える。

 しかし、凜に洗ってもらうことは魅力に思えた。

 それなら、凜に裸を見られる恥ずかしさ以上の利が欲しかった。


「凜様も一緒に入ってください」

「ですから、お手伝いすると」

「そうではなく、凜様も脱いで一緒に湯船につかってください」

「私は後で残り湯をいただきますから」

「凜様、私がお願いしているのです」


 陽鞠がお願いを使うのは、どうしても凜に言うことを聞かせたい時だ。

 凜にとっては命令に等しい。

 そんな大したことにも思えなかったので、凜にはなぜお願いを使うのかが理解できなかったが。


「はぁ、分かりました」


 あっさりと承諾して、凜は自分の着物を脱ぎ始める。

 それがあまりにも淀みなくて、思わず陽鞠はじっと見てしまった。

 陽鞠の目も気にせずに、脱いだ着物を籠に入れた凜が陽鞠の前に裸で立つ。


 そのあまりの美しさに陽鞠は言葉を失って見入る。

 細く柔らかな少女とも女ともつかぬ肢体。艶やかな曲線を描いているのにしなやかで、弱々しさが少しもない。女性美とも男性美とも異なる、まるで深い森に棲む神代の獣を思わせる美しさ。

 いつも頭の後ろでまとめている髪を解くと、癖のない艶やかな黒髪が夜の川のように流れる。


「ほら、陽鞠様も脱いで」


 陽鞠は思わず胸元を抱えて後ずさった。子供っぽい体つきを凜に晒すことに怯んでしまう。

 しかしこの後に及んで、やはりやめたは言えないだろう。

 言えば凜は強硬手段に訴えて、着物を剥ぎ取られる気が陽鞠はした。

 腕力に訴えられたら、陽鞠に勝ち目はなかった。


 泣きたい気分で、陽鞠は床に腰を下ろしたまま、背中を向けてのそのそと着物を脱ぐ。

 時間を稼ぐように脱いだ着物を丁寧に畳んで籠に入れる。


「ほら、立ってください」

「ひゃっ」


 凜に脇に手を入れられて立ち上がらされて、陽鞠は思わず変な声を出してしまう。

 陽鞠は慌てて腕で自分の体を隠す。


「何をそんなに恥ずかしがっているんですか。とてもお奇麗ですよ」

「そういうこと言わないでいいですからっ」


 陽鞠は凜の背中を押して浴室に押し込む。


 浴室には旅籠ではかなり珍しい釜だきの木風呂が設置されていた。

 凜がこの宿を選んだ理由だった。

 身だしなみに気をつかう陽鞠は、御殿でも二日と開けずに入浴していた。

 贅沢だとは思うが、行列を組んだりその人数を収容できるだけの広さを持った本陣に泊まることを考えれば些細なことでもあった。

 凜が神祇府から預かっている金子は、上等な旅籠を貸し切っても贅沢と思える額ではない。


 風呂椅子に陽鞠を座らせ、凜は持ち込んだ櫛で陽鞠の髪を梳く。

 緩やかに波打った柔らかな黒髪は、梳く必要などないほどにさらりとしている。

 それでも凜は毛先まで丁寧に梳いてから頭皮を揉みほぐし、お湯で濡らした布で髪を拭って、最後にお湯をかけて濯ぐ。

 手漉きで水気を払った後、布で軽く叩くように拭って、そのまま布で髪を包むようにまとめる。

 陽鞠が感心するくらいに丁寧で手慣れていた。


 凜が体を拭き始めると、流石に恥ずかしくなって陽鞠は目を閉じた。

 目を閉じたことで鋭敏になった感覚が、素肌に触れる凜の手や体の感触を余すことなく伝える。陽鞠の知らない感覚が、背筋をぞわぞわとさせる。

 指先まで拭き終わるころには、全部見られたし触られた。

 女同士なのになぜかそれが陽鞠には耐えがたいほどに恥ずかしかった。


「ほら、陽鞠様。終わりましたよ。冷えてしまいますからお湯につかってください」


 凜にうながされて湯船につかりながら、ぼんやりと凜を見る。

 凜は陽鞠を洗う時とは打って変わって、烏の行水なみに雑に髪と体を洗い終えた。

 髪を梳いたりもしないし、体もお湯をかけてさっと拭くだけだった。


「待ってください。なんでそんな雑なんですか」

「何がですか」

「洗い方です。私の時はもっと丁寧だったではないですか」

「それはそうでしょう。巫女様は貴人なのですから」


 頭を振って水気を払った凜が、さっと頭の後ろで髪を紐でまとめる。

 そんな仕草でさえ様になっているのだから、陽鞠は少し悔しくなった。


 湯船に近づいた凜は軽く首を傾げる。


「やはり二人で入るのは狭くないですか」


 凜の言葉に、陽鞠は足を伸ばし切れていない湯船に目を落とす。

 それから、お湯から腰を上げて縁に腰かける。


「凜様、入ってください」


 陽鞠に促されて凜がお湯につかると、湯船に戻った陽鞠は凜の足の間におさまった。


「ふふふ。ぴったり入りました」

「…窮屈ではないですか」


 凜にとっても他人と素肌と素肌が触れ合うような経験は初めてで、くすぐったいような不思議な感覚だった。


「なんだかすごく落ち着きます」


 息をついて陽鞠は凜に背中をもたれる。


「湯冷めしますから寝ないでくださいね」


 力の抜けた陽鞠のか細く小さな体を凜は両手を回して抱きしめる。

 胸に湧く温かな感情を表す言葉を、凜は愛しさしか知らなかった。

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