二十九

 少し離れて待つように喜助に伝え、凜はその家に近づく。

 後ろからは無言で陽鞠がついてきていた。


 開いたままの入口から凜が中を覗くと、黒い霧のような靄が充満していた。

 ぞわりと、全身の毛が総毛だつ。生物としての本能がこれに触れてはならないと告げていた。

 普通の人間でも、嫌な気配を感じるだろう。感覚の研ぎ澄まされた凜には、触れたら死ぬであろうことが確信できた。

 そっと、凜の背中に陽鞠の掌が触れた。


「大丈夫です。貴女は守り手。穢れは貴女を害せない」


 陽鞠の言葉に背中を押されて、凜は中に踏み入る。

 穢れに触れた瞬間、寒気にも似た悪寒が走った。しかし、それ以上には体に何の影響も現れない。

 そのことに本当に守り手になったのだと、奇妙な感慨を抱く自分が凜はおかしかった。


 入ってすぐに家の大きさに比して広い土間となっているが、穢れのせいで視界が悪い。

 屋内には強い死臭が漂っていた。

 静かさに違和感を覚えた凜は、それが死体につきものの害虫が湧いていないからだと気がつく。


 凜に続いて袖で口元を押さえた陽鞠が立ち入ると、陽鞠に触れた穢れが霧が晴れるように消えていく。

 すると、土間の上がり段に一人倒れているのが見えた。

 腐敗が進んで人相は分からないが、衣服と体格から男だと分かる。


 うつ伏せに倒れた男の衣服にも周りにも血痕は見当たらない。

 おそらく夜中に穢れがあると気づかずに踏み込み、そのまま死んだのだと凜は思った。

 

 凜が陽鞠の様子を窺うと、眉こそ顰めているものの、腐乱死体を見ても取り乱すこともない。

 不思議な人だと凜は思う。

 普通であれば悲鳴を上げて逃げ出してもおかしくない。

 御殿が襲撃された時もそうだった。人が斬り殺された現場を見ても我を無くすということがない。

 それは心の強さや覚悟でもあるのだろうが、凜には痛ましくもあった。

 人の死を、しかも穢れが生まれるような凄惨な死を見続けることを定められた巫女の心のあり様は、荒野に等しいのではないかとすら思う。

 抱きしめてあげたい衝動が湧くが、そんな場合ではないと思い直す。


 上がり段を上がると、囲炉裏の設置された板張りの部屋になっており、そこには何もなかった。

 奥に続く板戸を開ける。

 途端に土間の比ではない死臭と穢れが溢れ出した。

 吐き気を催すすえた臭いに、さすがに凜も掌で鼻を塞ぐ。


 陽鞠が凜の隣に立つと、中の穢れが薄れていく。

 狭い座敷には、二人の死体が折り重なるように倒れていた。

 野良着のおそらくは娘が二人。

 下になっている死体は膝を抱えるような格好で、両手で握った出刃包丁で喉を突いている。

 おそらくは自死だろう。

 それを背中から抱きしめるようにもう一人の娘は事切れており、畳には夥しい血痕が残されていた。

 穢れは下になった喉を突いた娘から生まれていた。

 服の血痕から上の娘は腹を刺されたのだろうと凜は推し量った。

 しかし、なぜ刺した相手を最後に抱きしめたのかと疑問に思う。

 納得の心中であれば、穢れは生まれないだろう。

 無理心中であれば、刺した側が穢れを生むのも不可解だった。


 このままでは浄化しにくいかと、凜が上の娘をどかそうとすると、陽鞠がそれをとどめた。


「陽鞠様?」

「このままでいさせてあげてください」


 悲しげに言うと、陽鞠は膝をついて汚れるのも厭わずに下の娘に指先で触れた。

 家に拡散した穢れとは異なり、今度は陽鞠の指先に吸い込まれるように消えていく。

 凜の目には、穢れを取り込んでいるようにすら見えて心配になる。


 穢れが完全に消えるまでにはそれなりの時間を要し、終わる頃には陽鞠の額に汗が浮かんでいた。

 死体から生まれる穢れが消えると、屋内に広がっていた穢れもいつの間にか消えていた。


 長い息を吐く陽鞠の額の汗を、凜は懐から取り出した手拭いで拭き取る。

 それから陽鞠の手を取って、死体に触れた指先も丁寧に拭う。


「ありがとう、凜様」


 礼を言う陽鞠の指から離れていく凜の手を、思わずといった様子で陽鞠が掴む。

 凜の手から手拭いが落ちた。


「疲れましたか」


 凜は微笑んで、手を握り返しながら陽鞠の腰を抱いて立ち上がらせる。

 うっすらと頬を赤くした陽鞠は、残された亡骸に一瞬だけ申し訳なさそうな目を向けた。


「陽鞠様、早く出ましょう。ここは空気がよくありません」

「はい。あ、少し待ってください」


 陽鞠は袖の袂から手巾を取り出して穢れを生んでいた娘の頭にかける。それから凜が落とした手拭いを拾って、同じようにもう一人の娘の頭にかけた。

 その様子が悲し気で、しかしどこか羨んでいるように凜には思えた。


「行きましょう」


 陽鞠に促されて、凜は陽鞠の腰に手を当てて外に向かう。

 家の外に出たところで、陽鞠は少しだけ後ろを振り向いた。

 陽鞠が何を想っているのかは、凜には分からない。そのことに少しだけもどかしさをおぼえる。


「あのぅ」


 かけられた声の方に目を向けると、庄屋の喜助が所在なさげに立っていた。


「どうなりましたでしょうか」

「穢れは巫女様が祓われた。中で三人亡くなっていた」

「そうですか…」


 安堵の滲む声を漏らす喜助の前に、一歩前に出た陽鞠が立つ。


「庄屋様。一つ伺ってもよろしいでしょうか」


 声をかけられ、初めて正面から陽鞠を見た喜助は、その神秘的な美しさに言葉を失う。

 陽鞠はかまうことなく言葉を続けた。


「少し線の細い奇麗な方が美代様ですか」

「は、はい。どうしてそれを」


 喜助の疑問はそのまま凜の疑問でもあった。亡骸は容貌が分かるような状態ではなかった。

 しかし、喜助は額に汗を浮かべて怯えを見せており、反応が過剰に思えた。


「そうですか」

 

 しかし、陽鞠はそれ以上は何も語らずに、下がって凜の傍にぴったりと寄り添う。

 根拠は何もないが、どことなく陽鞠が怒っているように凜には感じられた。


「この家は中の遺体ごと燃やしてしまうことを勧める。病の元になりかねないからな」

「へぇ。ご領主様には巫女様の命で火をかけたと伝えてよろしいですか」


 放火は大罪であり、村の家屋を勝手に損壊することは領主の資産を脅かしたと取られかねない。


「かまわない。巫女様と守り手、凜の名を使うがよい。領主には神祇府からも報せておく」

「ありがとうございます」


 穢れの出た家など残したくなかったのだろうし、家ごと燃やしてしまえば亡骸に触れる必要もない。喜助は安堵の声を漏らした。


「本日は我が家に逗留されてはいかがでしょうか」


 喜助の言葉に、凜は少し悩んだ。

 穢れの祓いは思ったよりも消耗するようだ。まだ旅慣れていない陽鞠を、また山道を歩かせるのは憚られた。


 その悩みを遮るように、喜助から見えない位置で凜の袖を陽鞠が引く。

 凜が陽鞠を見ると、陽鞠は微かに首を横に振った。


「いや、まだ日も高い。麓の宿場町まで日が暮れる前に戻れるであろう」

「左様でございますか」


 喜助の顔に安堵と落胆のない混ぜになった表情が浮かぶ。

 巫女が宿泊したというのは栄誉だが、無礼があったらどうなるか恐ろしい、というところだろうと凜は思う。

 実際のところ後者の心配は杞憂でしかないが、それを知っているのは凜だけだ。


 凜ですら、旅に出てからの陽鞠の我慢強さには関心している。

 旅慣れない足で大変だろうに黙々と歩くし、質素な食事にも不平を漏らすこともない。

 それどころか移り変わる景色や、周りの目を気にしないでいい食事を楽しんですらいる。


 陽鞠は凜に対してだけ甘えるし我儘も言うが、それは凜と陽鞠の個人的なことに限定される。

 歩くことに不平も不満も言わないが、凜が自分を放って行きずりの人と話しているのは嫌。陽鞠のわがままとはそういうものだった。

 宿に戻り、二人きりになったらきっと甘えてくるだろう。そうしたらたっぷりと甘やかしてあげようと凜は思った。

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