三十四
早朝に山頂の炭火焼小屋を出た二人は、昼前には件の村に差し迫っていた。
畦道を抜けて村に近づくと、村全体が黒い靄のような穢れに包まれているのが分かる。
「ひどい…」
足を止めた陽鞠が、眉をひそめて声を漏らす。
それを聞きながら、しかし凜は惨状への悼みよりも、違和感に緊張していた。
その違和感の正体にすぐに気が付く。穢れが奇麗に村を包み過ぎている。
それは穢れの元となる遺体が、村の屋外に、しかも均等に配置されていることを意味していた。
穢れは強い怨嗟をもって死んだ遺体から発生する。しかし人が死の間際に怨嗟を持つというのは、そうそうあることではない。
例え誰かに殺害されたのだとしても、死の瞬間は恐怖の方が上回るものだ。
むしろ自死の方が穢れが発生しやすいとさえ言える。
そんな穢れが、こんなに等間隔で自然に発生するはずがない。
この村の穢れが人為的に生み出されたものだということを、凜は確信した。
そして、その者たちは穢れの発生させ方をよく理解している。
「陽鞠様、何者かが潜んでいるかもしれません」
「…はい、分かりました」
凜の言葉で、言わんとすることを理解したのか、陽鞠は表情を引き締めて頷く。
穢れが村を包んでいるといるといっても、間断なく埋め尽くされているわけではない。
十分に人が通れる程度の隙間はある。
穢れに対する恐れと危険を度外視すれば、どこかに潜むこともできるだろう。
山道から続く村の入口には、まるで門番のように穢れを発する遺体が転がっていた。
しゃがんで遺体に触れ、穢れを祓う陽鞠の隣で凜は遺体を観察した。
腐敗が進んでいるが、着ているものと体格から村の男だと分かる。
野良着に付着した血は左肩から左半身に集中し、衣服そのものの損壊はほとんどない。
痛めつけられたり、多人数から暴行を受けた形跡はなく、おそらくは頸動脈を切られての出血死。
地面に血痕や争った跡が見られないことから、殺害現場はここではない。
素人の手際ではない。
軍人もしくはそれに類する訓練を受けたものの犯行だと凜は推測する。
凜が観察している間に陽鞠が穢れを祓い終え、短く息をつく。
初めて穢れを祓った時よりもかかった時間が短いし、疲労も少なくなっている。
それでも疲れが皆無というわけではなく、この数の穢れを祓い切れるのか、凜は心配になった。
しかも陽鞠は穢れを祓う時に死者の記憶を共有する。精神的な負担も尋常ではない。
できるだけ避けたいが、何日かかけることも考慮しないといけないだろう。
「どうでしたか、陽鞠様」
立ち上がった陽鞠に、凜は問いかける。
死の瞬間の記憶を共有する陽鞠は、犯行現場の目撃者に等しい。
「犯人は五人。黒ずくめの一団でした。顔は隠していたので分かりません。夜中に押し入られ、目の前で奥さんと子供を、その…」
「もういいです。分かりました」
凜は自分の心が冷えていくの分かった。
陽鞠の言葉を止めたのは聞きたくなかったからではない。陽鞠の心理的負担を考えてのことだ。
怒りがないわけでないが、それよりも恐ろしく手際のいいものたちだと凜は思った。
目の前で家族を痛めつけ、怨嗟を生み、速やかに殺す。
悲鳴も上げさせていない。
悲鳴が上がれば、必ず騒ぎになる。騒ぎになれば、生き残りがいないということはまずない。
村の生き残りがいないということは、一夜のうちに秘密裏に行われたということだ。
陽鞠が見た五人が全てということもないだろう。
全戸を五人で実行するのは時間がかかりすぎる。
かといって全戸を一斉に襲うような大集団でもない。
そんな集団は目立ちすぎるし、物音も隠せなくなる。
せいぜいは数組だろうと、凜は見積もる。
手慣れている。相当に同じことを繰り返していることが予想できた。
山祇の民なら当たり前にある穢れに対する怖れがなく、現象としか捉えていない。
凜のことを陽鞠は優しいと言うが、凜自身はそう思わない。
現にいま無関係な人間の不条理な死に、大した怒りも悲しみも覚えていない。
陽鞠が優しさだと思っているものは、親しいものを自分の手で傷つけるのが嫌なだけの甘さでしかない。
「これはやはり外つ国の仕業なのでしょうか」
「断定はできませんが、その可能性が高いかと。穢れに対する怖れが感じられません」
穢れをたんに危険だから恐れるのではなく、不浄として怖れる山祇の民が道具のように利用するとは考えられない。
「何が狙いなのでしょうか」
「さて。巫女様のお命というには大ががりすぎる気がします。巫女様を誘き出すだけなら、穢れは一つで十分でしょう」
「そうですね。私が目的ではないのでしょうか」
「分かりませんが、警戒はしましょう。多人数が潜伏しているとは思えませんが、少数は残っているかもしれません」
こんな小さな村に何十人も潜伏していたら、どうやっても凜は気がつく。
いまのところ気配を掴めないことからも、いても十人以下だと凜は見積もる。
とは言え、腕利きが五人以上いると厳しい戦いになるだろう。
ふと、陽鞠が少しだけ不安そうな様子を見せていることに凜は気がついた。
顔が強くなっていただろうかと反省する。
「大丈夫です。必ず私がお守りしますから」
凜が微笑みかけると、応えるように陽鞠も笑みを見せた。
「はい、信じています」
戦いになった時の厳しさなど、わざわざ陽鞠に説明して不安がらせる必要はないと凜は思っている。
危険が考えられる時に、警戒心さえ持っていてくれればそれでいい。
陽鞠もそれは分かっているのか、詳しいことを聞いたりはしない。
自分の身辺に関して、陽鞠は完全に凜に委ねている。それは凜が負けることはなくて、自分が絶対に安全だと思っているからではない。
陽鞠の信じるとは、凜に委ねてそれでも無理なら、それは仕方ないという覚悟だ。
陽鞠が凜の手を取り、何かを期待するように見上げてくる。
抱きしめて欲しいのだろうか、と凜は思う。
陽鞠は不安な時などに、凜に抱きつく癖がある。
しかし状況を考えて控えたのだろう。
それでも凜の方から抱きしめられたら仕方ないという建前を欲する、おねだりの目だと凜は察した。
こういうところは、まだまだ幼いのだなと、少し安心する。
巫女としての陽鞠はあまりにも完璧すぎて、いつか張り詰めた弦のように切れてしまうのではないかと凜は心配になる。
ひとつ所にとどまれず、腐った死体を見続け、怨嗟の記憶に触れる。巫女の務めは十代の娘の心を壊してあまりある過酷なものだ。
務めには不平のひとつも言わないのだから、せめて自分には好きにわがままを言えば良いと凜は思っている。
遺体の傍で抱き合うなど不謹慎なのだろうが、そんな常識よりも陽鞠の方が大切なのだから。
凜は陽鞠の手を引き寄せて、その小さな体を腕の中に収める。
抱きしめてみると、出会った頃よりも体格差が大きくなっていることがよく分かった。
「もう、どうしたんですか。お務め中にいけませんよ」
言葉とは裏腹に陽鞠の声は嬉しげで、おずおずと凜の背中に自分も手を回す。
「いえ、陽鞠様から元気をもらっているだけです」
「それなら仕方ありませんね。少しだけですよ」
陽鞠の愛らしさに心が温かくなるのと同時に、同じ凜の心はどこまでも冷たく凍えていった。
こんなに健気で愛おしい陽鞠を不安にさせた輩に対する冷たい怒り。
もとより遭遇すれば殺し合いになることに変わりはないが、もう相手の意図も殺意の有無も関係なく、見つけた瞬間に凜は殺すだろう。
それは凜の人格とは切り離された、純粋な守り手として育てられた機能だ。
陽鞠を優しく抱き締めながら、凜の目は冷たい殺意を湛えていた。
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