三十五
村の屋外に置かれた遺体は、二十人を数えた。
穢れを出しているのは、全て男の遺体だった。
一通り屋内も確認したが、女子供や老人と思われる遺体が残されているだけであった。
屋外の穢れを祓い終えた陽鞠は、さすがに疲れた様子で長い息を吐く。
陽鞠の腰を抱いて支えながら、凜は神経を張り詰めていた。
村の中を歩く途中から、ずっと視線を感じている。
殺意というほど強くはないが、まとわりつくような視線だった。気配までは掴ませないことからも、敢えて気付かせているようで凜の神経に障る。
「陽鞠様、これでお終いですか」
「いえ、まだです」
陽鞠の目が、村の奥に向かう。
「ご遺体の中で一人だけ、家から連れ出されて害された方がいました」
「それが?」
「そこで害された方が他にもいるはずなのです」
「なるほど。その遺体がないのですね」
凜は頷きながら、陽鞠の状態を確認する。
疲労はありそうだが、無理をしているほどではなさそうだ。しかし隠しごとの下手な陽鞠ではあるが、自分の傷みを隠すことだけは上手い。
陽鞠が見せてくれなければ、それに気づけないことが凜はもどかしい。
「陽鞠様は大丈夫そうですか」
「疲れはありますが…まだ平気です」
陽鞠がそう言うなら凜は信じるしかない。
無理はさせたくなかったが、早く終わらせてこの村を離れてしまいたくもあった。
里で夜の戦いの訓練も受けている凜だが、本職の斥候ほどに夜目がきくわけではない。ここで一夜を過ごして、夜間に襲撃を受けるのは避けたかった。
「では、手早く片付けてしまいましょうか」
凜に促されて、陽鞠は共有した被害者の記憶を頼りに、村の奥に向かう。
さほど大きくもない村のこと、すぐに塀で囲まれた屋敷にたどり着いた。
村の長である庄屋のものと思われる屋敷の門をくぐり、遺体を引きずった時についたのであろう血の跡をたどるように庭を横切る。
血の跡は屋敷の隅に建つ、土蔵から続いていた。
土蔵の両開きの鉄扉は開け放たれており、中から穢れとともに二人には慣れた死臭が漏れ出ている。
中が見えないほどの今までにない穢れの濃さに、凜は眉をしかめる。
凜の耳は蔵の中で蠢く物音を捉えていた。
村の中で感じた視線とは別だ。訓練を受けた人間が出す音ではない。もっと原始的な本能で動くものの気配。
「陽鞠様。入口の穢れを祓ってください。中には入らないください。何かがいます」
「穢れの中にですか? いえ、分かりました」
一歩前に出た陽鞠が穢れの中に手を差し出すと、蔵の中の黒い霧が霧散する。
穢れの晴れた蔵の中に陽の光が差し込み、薄闇に地獄のような光景が広がっていた。
流石の陽鞠も口元を抑えて顔面を蒼白にしている。
広い土間は元の状態が分からないほどに赤黒く染まり、何人分かも分からないような人体の部品が半ば白骨化しながらいたるところに転がっていた。
土間の真ん中には穢れを発するいくつもの遺体が積み重なっている。
その中を徘徊する一人の男がいた。
いや肉が腐り落ち、穢れが凝固したような体を持つそれは、もはや人とはいえない様相だった。
それを何と呼ぶか、話だけは凜も知っていた。
「これが、鬼…」
「はい。積み重なる穢れが遺体に宿り動かす怪異。私も文献でしか知りませんでしたが」
守り手は鬼から巫女を守るために生まれたという話は凜も聞いていたが、言い伝えでしかないと思っていた。
たしかに穢れを纏って襲いかかってくる存在など、穢れに触れただけで死ぬ護衛が何人いても意味がない。
「文献では死んだ場所に縛られるとありましたが、本当のようですね」
鬼を観察しながら漏らす陽鞠の顔を凜は横目で見る。
血の気は引いているが、あまり怯えは見られない。この人が何かに本気で怯えることがあるのだろうかと凜は疑問に思う。
「あれは、斬れば動かなくなるのでしょうか」
「首を失くせば動かなくなるとの記述はありましたが…」
「頭部に何か意味があるのでしょうか」
「さあ。そこまでは分かりません」
そもそも筋肉などない死体が動いている時点で、論理的に考える意味などないかと凜も納得する。
首を落として駄目なら、四肢を落とせば脅威ではなくなるだろう。
「陽鞠様はここで待っていてください」
凜は腰から刀を抜きながら、蔵に踏み込む。
その瞬間、鬼は凜に反応した。
人間とはまるで違う不自然な動きで凜に近づいてくる。
動きの中間がなく、動いた結果だけが迫って来るような奇怪な現象。
しかし、そこに存在するものを凜が恐れる道理はない。
間合いに入ってきた瞬間に、片足を切り飛ばしながら背後に抜ける。
足を踏み替えて振り向きながら、片足を失って崩れる鬼の首を一刀で刎ねた。
水を斬ったような奇妙な手応えだった。
定石として首を斬るときは、返り血と硬い骨で刃こぼれする事を嫌い、刎ねたりはしない。
しかし、薄皮一枚でも残して動かなくなるのか確信がもてなかった凜は、敢えて斬り飛ばした。
首を失い、鬼は土間に倒れる。
凜は残心を示すが、鬼が動くことは最早なかった。
その呆気なさに、凜は少し拍子抜けする。
返り血も着いていない刃を、それでも懐紙で拭って鞘に納める。
「凜様、お怪我はありませんか」
「ええ。問題ありません」
蔵の外からかけられた陽鞠の声に凜が答えると、陽鞠は躊躇いなく蔵に入ってきた。
本当に凜に怪我がないのか、矯めつ眇めつ確認する。
この一年でも何度か斬り合いになるようなことがあったが、その度に陽鞠は凜にかすり傷の一つでもついていないか念入りに確認していた。
ぐるりと凜の周りを一周して、凜に何も問題がないことを確認してから、陽鞠は鬼となっていた遺体を見下ろす。
蔵の中で穢れを発しているのは、この遺体だけだった。
しかしそれは、穢れを生むような死が、一人だけだったことを意味しない。
いくつもの穢れを圧縮したような、濃厚な死の気配に陽鞠は息を呑んだ。
陽鞠の巫女としての本能が、巫女ですら触れるのが危険だと言っていた。
巫女が穢れを祓うとき、一時的に巫女は体内に穢れを取り込む。
穢れの祓いとは、巫女の体を介した濾過に近い。
必然的に巫女の体が、祓える穢れの容量そのものとなる。
まだ未成熟な陽鞠の体は、器としてそれほど大きなものではない。
そもそも、こんな意図的に濃縮された穢れを取り込んだ巫女などいただろうか。少なくとも、陽鞠が読んだ文献の中にはそんな記録はなかった。
ここ百年、鬼が出た記録すらないのだから。
陽鞠は気付かれないように凜を見る。
いま凜と二人きりでいられるのは、巫女という立場があるからだ。
穢れから逃げて役目を放棄すれば、監視は強化されて自由を失い、下手をすれば蟄居させられるだろう。
昔と異なり、今の巫女の立場は絶対的なものではない。
むしろ神祇府は巫女を形式的なものに変えようとしている向きがある。
この一年で陽鞠が祓った穢れの数は、この村を除けば二十にも満たない。穢れが十年程度で自然消滅することを考えれば、放置したところで広い山祇で百かそこらしか残らないことになる。
もはや巫女は必ずしも必要な存在ではない。
それどころか、神祇府そして朝廷は本物の異能を持った巫女を疎んじている気配すらあった。
そのこと自体に陽鞠は何も思わない。
巫女などいなくなってしまえばいいとすら思っている。
しかし、凜と二人でいられるこの時間のために、巫女の役目から逃げるわけにはいかなかった。
「凜様。この穢れを祓うには、かなりの時間がかかると思います」
「一度お休みになられますか」
「いえ、鬼が生まれるような穢れがどうなるか分かりません。襲撃者も気になりますし、すぐに祓ってしまいましょう」
「私に出来ることはありますか」
「集中する必要があります。邪魔が入らないようにしていただけますか」
「分かりました。私は外で見張っています」
凜が蔵の外に出ていき、陽鞠が一人残された。
陽鞠はその場に座し、穢れを発する遺体に指を伸ばした。
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