三十八
村を出た凜は、陽鞠を背負って一晩をかけて山を越えた。
陽鞠は意識が朦朧としている様子で、覚醒と昏睡を何度も繰り返していた。
鬼の穢れが何らかの影響を与えていると凜は見ているが、病である可能性も捨てきれなかった。
穢れを生む遺体は、おかしな言い方になるが普通の遺体よりも清らかとすらいえる。穢れは遺体にたかる虫などを寄せ付けないし、空気中の毒素すらも殺してしまうからだ。
それでも腐敗した遺体は病の温床なのだから、危険性はある。
あるいは、体力を消耗する穢れの祓いを連続で行いすぎて体調を崩しただけかもしれない。
病であれば一刻も早く医者に見せなければいけないし、そうでなくてもゆっくりと体を休められる所に連れていく必要があった。
死体に溢れるこの村は論外だったし、襲撃者がまたいつ来るかもしれないため、すぐに離れなければいけなかった。
明け方に山を越え、皇都が見えてきたときには太陽は完全に昇りきっていた。
「陽鞠様、もうすぐ着きますよ」
凜が声をかけても、陽鞠の反応はない。
途中までは一刻に一度くらいは凜に声をかけていた陽鞠だが、途中からはうわ言のように凜の名を呼ぶだけになっていた。
凜の体力はとっくに限界を超えていた。
村を出る前に、自分が倒れては意味がないので、傷の手当はできる限りはしたが、それでも失った血や消耗した体力が戻るわけでもない。
動き続けたせいで脇腹の出血も完全には止まらず、鉛のように体が重い。
軽すぎると思っていた陽鞠が重く感じる。
一度でも膝をつけば、もう動けないと分かっていたから、凜は止まらずに歩き続けた。
もはや顔を上げる気力もなく、凜は足元に視線を落としたまま、一歩ずつ進む。
だから、都の入口で起きている異変にも気付かなかった。
「守り手よ、そこで止まれ!」
かけられた大声にも、凜は少しの間、反応ができなかった。
ようやく自分のことだと理解して、ゆっくりと顔を上げる。
街道ともいえない寂れた道の向こう、都の北門の前に、羅紗の制服の衛士たちが立ち並んでいた。
先頭で馬上から声をかけてきた指揮官らしき男との距離は四間もなかった。
ざっと見ても百人を超える中隊規模で、小銃で武装した姿は物々しい。
皇都に常駐する近衛が相当な割合で動員されている。
他にも神祇府の官などが集まっていた。
普段の凜であれば、気付いた瞬間に逃げていただろう。
しかし、体力は限界を超え、頭が回っておらず判断力が著しく低下していた。
呆然と集まった人々を見回す。
その間に、六尺棒を持った衛士たちが凜を取り囲んだ。
「夕月陽鞠を下ろして、その場を離れよ!」
「…何事か。巫女様に無礼であろう」
馬上の指揮官に反射的に言い返したが、凜の思考はほとんど止まっていた。
それくらいに、この状況が理解できなかった。
「巫女が穢れを帯びるなど前代未聞。神祇府は夕月陽鞠の収監を決定した」
「何を…」
ようやく働きだした頭で凜は考える。
陽鞠の状態を知っているのは、監視していたものたちから報告があったのだろう。陽鞠を背負って山を越えた凜に比べれば、よほど早く都についていて然るべきだ。
このまま凜が都に入れば、穢れを帯びた巫女が衆目に晒されることになる。
それは巫女が穢れを祓えなかったという噂を民衆にもたらすかもしれない。
もちろん、巫女の顔は広く知られているものではない。それでも、巫女の権威が失墜する可能性を、巫女の不在よりも危険だと判断したのか。
「問答無用。捕えよ!」
咄嗟に陽鞠を下ろして庇った凜の背中を衛士たちの棒が打つ。
打ち据えるというよりは抑えつける動きで痛みは大したことなかったが、膝をついて動きを封じられる。
陽鞠が帯びた穢れを恐れて腰が引けた衛士たちなど、普段の凜であれば容易く打ち払えたが、凜の体にはそんな力が残っていなかった。
棒で転がされて、凜は陽鞠から引きはがされる。
地面に棒で抑え込まれた凜が首だけを上げると、ぐったりと横たわる陽鞠にいくつもの投げ縄が打たれ、引きずられていた。
「よせっ」
死力を振り絞り、身を起こそうとする凜。
その胸中に目の前が真っ赤になりそうな怒りが込み上げていた。
神棚に祭り上げられるように遠ざけられ、誰にも愛してもらえないこの少女ばかりが、何故このような目に合わなければいけないのか。
贅沢も望まず、死に触れ続ける過酷な巫女の務めを不平も言わずにこなしてきた巫女に、最低限の礼節すら払えないのか。
その理不尽を振り払えない、我が身の無力さこそ、何よりも凜は許し難かった。
知も勇も凡俗の域を出ない非才が悔しかった。
誰でもいい、と凜は思う。
誰でもいいから陽鞠に手を差し伸べようとするものはいないのかと、辺りを見回す。
しかし、誰も彼もが恐れを孕んだ冷たい目をしていた。
その視界に、神祇府の官たちに混ざって、見知った顔が映った。
「蘇芳殿下っ」
体裁も何もなく、凜は叫んだ。
凜がただ一人、自分の手の届かないところで陽鞠を守ってくれると期待した人物に身も世もなく縋った。
「お願いです…陽鞠様を…助けてくださいっ…私はどうなってもいい…何でもしますっ…貴方に一生仕えます…好きに使ってくれてかまいません…ですから…貴方の妻となるひとでしょう…陽鞠様が連れて行かれてしまいます…せめて私を一緒に…お願いしますっ…」
そこにいたのは若くして達人ともいえる腕をもつ剣士ではなかった。
ただ泣き叫ぶだけの幼い少女だった。
地面に爪が割れるほど強く指を立てながら叫ぶ凜の悲痛な姿を直視できず、蘇芳は目を逸らした。
その瞬間、目の端に映った凜の顔に浮かんだ絶望を、蘇芳はたしかに見た。
ほんの一瞬の表情が蘇芳の脳裏に焼き付いた。
逸らした蘇芳の視線の先では、縄で引きずられた陽鞠が棒で駕籠に押し込まれていた。
蘇芳は唇を噛んで拳を握りしめる。
焦燥が募り、少年としての蘇芳が心を奪われた少女を助けろと急かす。
「殿下、なりませんぞ」
傍に控えていた神祇府の官が蘇芳に耳打ちする。
「東青州公の継承は巫女の婚約者でなくとも殿下で大勢が決しています。しかし、ここで朝廷の意に反すればお立場が危うくなります」
「しかし…」
「殿下の継承に東青州一千万人ひいては山祇の安寧がかかっているのです」
蘇芳と次期東青州公の座を争う叔父の鴇羽は武辺的で、諸外国との宥和政策をとる朝廷と反目している。
その鴇羽が大公の座につけば内乱になる可能性すらあった。
公人としての蘇芳が、感情にまかせた行動を許さない。
動けない蘇芳の前で、陽鞠を押し込んだ駕籠が担がれ、街道を逸れて運ばれていく。
駕籠が十分に離れるのを待って、凜を取り押さえていた衛士たちも、凜を解放した。
「…せめて守り手の手当はできないか」
言いながら凜の方を向いた蘇芳は、背筋が寒くなった。
衛士たちから解放された凜が、陽鞠が連れて行かれた方向に這いずって動き始めていた。
割れた爪でがりがりと地面を掻きながら、もがく様に進む。
言葉を失う蘇芳などもはや眼中にもいれず、動くはずもない体を引きずって、のろのろと、しかしけして止まることなく動き続ける。
その鬼気迫る姿に蘇芳のみならず、衛士たちも恐れをなして誰も近づかない。
やがて凜は肘を立て、次に刀を杖に身を起こし、歩き始める。
髪紐が解け、乱れた髪が俯いた顔を隠して表情が見えない。
這いずるのとさして変わらない早さで足を引き摺るように凜が進んだ後には、点々と血の跡が残されていた。
その姿が見えなくなるまで、誰もが恐怖のあまり身動きが取れなかった。
少女の小さな背中は、それを見たものたちに言いようのない不吉な感情だけを残した。
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