三十七

 夢を見ていた。

 いつ果てるともしれない悪夢を。


 愛するものが目の前で犯され、刻まれ、物言わぬ骸に成り果てる。

 その悲痛と怨嗟と呪詛の記憶が、陽鞠の中で何度も何度も繰り返される。


 冷たい心で陽鞠は穢れを祓いきれなかったことを受け止める。内に取り込んだ穢れがなくなるまでこれは続くのだろう。

 耳を塞ぎ、目を閉ざしても陽鞠の内側にある記憶は消えはしない。


 哀れだとは思う。

 悲しいとも思う。


 しかし、陽鞠にとってはどこか他人事だった。

 陽鞠を愛する家族はいない。

 陽鞠が愛する家族もいない。

 誰かの妻となっても夫を愛することもない。

 子が生まれても愛することなどできるとは思えないし、産むつもりもない。


 陽鞠にとって家族の絆は実感の伴わない、書で読んだ知識と変わらなかった。

 愛を受けて生まれ育たなかったから、愛を理解できないのだろう。

 心にあるのは守り手への執着だけ。

 だから、凄惨な死を見てもさして心が乱れないのだと陽鞠は思っていた。


 やがて夢の中で陽鞠は、怨嗟の主たちに取り囲まれていた。


「お前のせいだ」と陽鞠を指差す。


「お前がいるからこんなことが起きた」のだと言う。


「呪われた子」


「なぜ生まれてきた」


「愛を知らぬ人形」


「誰もお前を愛さない」


「人を惑わす魔性」


「災いを呼ぶ死神」


「お前が何もかも奪っていく」


「償え」


 何を言われようとも陽鞠の心は漣も立たない。

 そんなことは生まれた時から言われ続けたことで、陽鞠自身が一番理解している。

 勝手に産み落とされ、誰にも望まれず、不幸だけをまき散らす忌み子だと。


 ただ、言われることにどれだけ慣れても、寂しさだけは消えてくれない。

 誰にも何も期待しなくなっても、寂しさだけは胸に積もり続ける。


 ひとりは寂しい。


 いつの間にか怨嗟の主たちは消えて、陽鞠の前には一人の少女が立っていた。

 顔は見えない。見えたところで陽鞠は顔を知らない。

 それでも陽鞠はそれが誰かすぐに分かった。

 あるいは、もう一人の自分とすら思ってしまった、陽鞠が最初に穢れを祓った少女。

 少女は陽鞠を指差す。


「あの人が好き」


――違う。そんな言葉で決めつけないで。


「あの人に触れたい」


――違う。そんな俗な気持ちではない。


「あの人に抱かれたい」


――違う。男の代わりなんて思っていない。


「あの人に身も心も委ねたい」


――違う。ただ縋る弱いおんなにはならない。


「あの人のすべてが欲しい」


――違う。お互いを尊重している。


「あの人以外は何もいらない」


――あの人以外は何もいらない。


「でも、あの人だっていつか貴女を捨てる」


 呪いを残して少女も消える。


 その呪いは、陽鞠のただ一つの不安を的確に抉った。

 それだけが、陽鞠にとっての恐怖だった。どんなに信じていると思っていても、先のことは誰も知ることはできない。


 いつの間にか俯いていた陽鞠は、温かさを感じて顔を上げる。

 光が見えた。

 温かさは光から感じられた。

 その温かさを陽鞠は知っていた。

 陽鞠が手放したくない、ただ一つの温かさ。

 だから、必死で手を伸ばした。


 意識が覚醒する。

 まだ半ば夢現のなかで、陽鞠は温かな背に負われていることだけが、はっきりと分かった。


「凜様…」


 朦朧として、状況がよく分からない。

 ただ、凜に背負われて歩いていることだけが理解できた。


「目が覚めましたか。すぐに都につきますから、堪えてください」


 どこか遠くから聞こえる声を子守歌に、陽鞠は再び意識を閉ざした。

 それから、何度も夢と現実を行き来する。


 目が覚めたとき、陽鞠はいつでも凜の背中にいた。

 ぼんやりと、どれだけの時間を自分を背負っているのだろうと思う。

 目が覚める都度に、凜に声をかける。


「凜様、重くないですか」

「陽鞠様は軽すぎですね」

 そんなはずはなかった。凜の額にはびっしりと汗が浮かんでいた。



「凜様、怪我をしていませんか」

「大したことはありません」

 凜の脇に抱えられた陽鞠の腿には着物を通してべったりと血が染みていた。



「凜様、温かい」

「眠っていていいですよ」

 陽鞠は自分が熱を出していることは分かっていた。凜の体はそれよりも熱かった。



「凜様、もう置いて行ってください」

「少し黙っていてください」

 きっと置いて行ったりなんてしないと分かっていて陽鞠は確認してしまった。



「凜様…凜様、りん…凜…」

「…」

 うわの空で陽鞠はただその名を呼ぶ。


 凜の温かな背中に、涙が出そうなほどに安らぎを感じる。

 このまま死ねたら幸せだと思えた。

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