二十六

 巫女の最初の務めは、元日の早朝に行われる四方拝に先立って、神降しの神楽舞で山祇琴を奏でることから始まる。

 この祭祀をもって巫女のお披露目となる。


 広い神楽殿には皇を筆頭に多くの朝廷貴族が集まっていた。

 山祇における朝廷貴族とは、世襲制の職能官僚のことだ。合理的な考えをするものが多く、皇家以外は王国風の背広姿になっている。


 現在の皇は齢六十二の鷦鷯さざき帝。

 山祇は古来より、東大陸の王国よりも西大陸の帝国よりであった。文化的な影響も帝国の方が強い。

 しかし鷦鷯帝は、王国の進んだ政治体制と技術を積極的に取り入れ、内乱を回避して立憲君主政に軟着地させた英邁だ。

 矍鑠として見えるが昨今は病がちで伏せることも多く、生前譲位するのではないかとも囁かれている。


 陽鞠は貴族たちを挟んで神楽殿の最奥のひな壇で琴を奏でていた。

 皇の前で神楽舞を舞うかんなぎたちと同じ、白衣びゃくえに緋袴の上に千早を纏う装いだが、その美しさと存在感は際立っていた。

 巫女は古くは神子とも呼ばれ、神職の女である巫のことをけして巫女とは呼ばない。

 誰が巫女かなどと問わずとも分かるその神がかった雰囲気に、誰もがその事実を納得させられる。


 琴を奏でる陽鞠の後ろには、凜が控えていた。

 白い水干に腰に刀を提げた姿は、すでに絶えて久しい白拍子を思わせるものがあり、中性的に整った凜の容姿を引き立てていた。

 皇の御前で帯刀を許されるのは、山祇国でも守り手だけだ。

 人の法の外にある巫女に仕える守り手もまた、埒外の存在だ。

 急速に進む近代化の波に抗うように古い姿を保つ巫女と守り手の姿は、どこか浮世から切り離されているかのようにも見える。


 若い貴族は寄り添う二人の御伽草子のような美しさに目を奪われるが、年かさのものたちは二十年時が巻き戻ったような感覚に襲われていた。

 先代の巫女と守り手のお披露目と陽鞠たちの区別がつかなかったのだ。

 巫女が時代を超越して存在し続ける証左を見せられたようで、畏れと恐れをおぼえていた。


 神楽が終わるとともに皇たちは神楽殿を出て、四方拝に向かう。

 残された陽鞠の前に、二間ほども距離を空けて神祇府の官がひれ伏す。


「巫女様が無事この日を迎えられたことを言祝ぎ申し上げます」

「ありがとうございます。巫女として精一杯務めさせていただきます」


 陽鞠の言葉にも、官はけして顔を上げようとはしない。

 神祇府は祭祀と皇室の行事全般を司るため、神職とのつながりも強い。神事ともいえる巫女に関わる一切を取り仕切っているのも神祇府だった。

 この官も神祇府で輔と呼ばれる次官級の高官だ。

 その高官ですら、まともに巫女を見ることができない。

 この官のように巫女を畏れるものも、夕月家のように巫女を疎むものも、どちらも陽鞠という少女を見ていないということは変わらない。


「お役につかれてすぐに申し訳ございませんが、穢れの報告が上がっております」


 顔を上げないまま、書状が差し出される。

 巫女には一歩たりとも近づこうとはしない。

 無言のまま凜の方から膝行で近づいて書状を受け取る。

 受け取った書状を開きもせずに懐に入れ、少しだけ下がって陽鞠との間をふさぐように座した。


「年が明けて早々に巫女様を使おうと?」


 冷やりとした凜の声に、官の肩が微かに震えた。


「そのようなことは…巫女様が気が向いたときに行っていただければ」

「分かりました。すぐにでも向かいます」


 凜が何か言うよりも早く答える陽鞠に、一瞬だけ凜は目を向けるが、何も言わずに黙る。


「ありがたきお言葉。お駕籠を用意いたしましょうか」

「いえ、けっこうです」

「しかし…」

「正直に申しますと、駕籠が苦手なのです」

「左様でございますか。それでは後ほど支度金を届けさせていただきます」

「はい。お手間をおかけします」


 あっさりと会話を切り上げて、陽鞠が立ち上がる。

 追随して、凜も腰を上げた。


 神楽殿を出て、本殿の陽鞠が逗留する座敷に戻るまで、二人は無言だった。

 凜が襖を開けて、陽鞠を座敷の中に入れると、陽鞠がふらつく。慌てて凜が腰を支えると、陽鞠は凜にもたれかかって吐息を漏らした。


「済みません。緊張が解けてしまいました」

「いいのですよ。ご立派でした」


 凜は陽鞠を促して、そのまま座らせる。

 隣に凜も腰を下ろすと、陽鞠は横になって凜の膝に頭を乗せた。その頭を凜が撫でると、陽鞠は心地よさそうに腿に顔を埋める。

 凜も柔らかな黒髪の触り心地の良さが癖になりそうで、やめ時を失う。


「よかったのですか、陽鞠様」

「何がですか」

「年明けくらいはゆっくりしてからでも良かったのではないですか」


 神祇府は、というより朝廷が巫女を都に置いておきたくない意図が見え見えで、凜にとっては不快だった。

 正式な巫女の座に就いた陽鞠の専横を恐れているのは分かるが、陽鞠という人間を知っていればそんな恐れは見当はずれだと分かるはずだ。


「ここにいるほうが窮屈です」


 むずかるように頭を擦りつけながら言う陽鞠に、凜ははっとさせられる。

 自分が感じたことを陽鞠が感じないはずがなかった。陽鞠にとっては、都にいて気が休まることなどないのだろう。

 ゆっくりなどできるはずもない。

 自分の思い至らなさに凜はため息をつきたい気分だった。

 そんな自省を気付かれたら余計に陽鞠が気を遣うと思い、凜は胸の内に秘める。


「徒歩の旅は陽鞠様が思うほど、楽しいばかりではありませんよ」


 雰囲気を変えようと、少し意地悪な口調で凜が言うと、陽鞠が子どもっぽく頬を膨らませた。


「大変なこともあると分かっています」

「本当ですか。何里も歩くと足が痛くなりますし、旅籠がなければ野宿することもあるかもしれませんよ。虫や蛇は平気ですか」

「脅かさないでください。意地悪」


 虫や蛇のくだりで肩を震わせたところを見ると、苦手なのだろう。

 陽鞠はぐるりと体の向きを変えて、凜のお腹に抱きついた。

 その姿はどう見ても甘える子どもで、神楽殿での神々しい雰囲気はどこにもなかった。

 そのことに凜は幻滅などしない。むしろ、自分の前でだけ甘えた姿を見せてくれることに愛しさと安堵と、微かな優越感すら感じている。


「何が出たって、凜様が追い払ってくれるから大丈夫なんです」

「…ずるいお人だ」


 陽鞠がお腹にしがみいて動かなくなってしまったので、凜は懐から先ほどの書状を取り出して広げた。

 凜が書状に目を通すよりも早く、紙の音に気が付いた陽鞠が書状を振り払った。

 凜の手から書状が畳の上に落ちる。


「…陽鞠様」

「私といるときに、私以外に目を向けないでください」


 仰向けになった陽鞠が、強い目で凜を見上げる。

 琥珀の瞳の輝きに引き込まれるが、庇護欲以上のものを凜は感じなかった。その気になれば、無視して書状を読むことだってできる。

 守り手の役目を終えたとき、この庇護欲すらも消えるのだろうかという考えが、ふと凜の脳裏に過った。


「お務めはいいのですか」


 凜は童女のように切りそろえた陽鞠の前髪に軽く指先で触れる。


「私がお務めに熱意があるように見えますか」

「普段は巫女の鑑のように見えますよ」


 指先が陽鞠の顔の輪郭を伝い、優しく柔らかな頬を撫でる。


「そんなの知りません」


 頬に触れる手に、自分の手を重ねて陽鞠は心地良さそうに目を細めた。

 何かを期待するように、陽鞠はじっと凜を見つめる。

 そこに望むものが見つけられなかったのか、目を逸らし、横になって元の体勢に戻る。

 凜の手だけは離さずに抱えるようにして、その掌に陽鞠の唇が触れた。


「…出立の準備をしなくていいのですか」

「もう少しだけ、こうさせてください」


 目を閉じた陽鞠の唇が、微かに凜の指を食んでいた。

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