四章
二十四
皇都巫女屋敷御殿内庭。
いまだ再建中の御殿を前に、凜と由羅は向かい合っていた。
弘廂には陽鞠が座して、二人を見つめている。
「二人とも、本身での立ち合いだ。覚悟はいいか」
間に立つ華陽の言葉に、二人は無言で頷く。
「それでは、始め」
合図とともに、華陽が下がる。
二人を遮るものがなくなる。
間合は三間。
まだ遠い。
どちらもまだ抜かない。
「また背、伸びたね」
「そうですか。自分では分かりませんが」
真剣での立ち合いの最中とは思えない、緩い口調と会話だった。
「旅は楽しかった?」
言いながら、由羅が小太刀を抜く。
里の剣は抜き打ちが主だが、由羅は里の型など守ってはいない。
「楽しいかどうかはよく分かりません。学ぶべきところが多かったとは思います」
「真面目だなぁ」
「まったく。せっかくの旅を楽しむゆとりが欲しいものですね」
自然と相好を崩して凜は笑う。
「…変わったね、凜」
「そうですか? 少しは成長しているといいのですが」
ゆっくりと由羅が間合を詰める。
「腕は上がった?」
「多少は。ですが、上達するほどに由羅との差が見えてきて嫌になります」
言葉の割に、凜からは悲壮感が感じられない。
「やっぱり変わったよ。変わり過ぎだよ」
間合は二間。
凜の腰が重心とともに落ちる。
「これ以上変わってほしくないな」
間合が一間に詰まる。
凜の手が腰の刀の柄にかかった。
小太刀ではない。
刀身はやや短いが、反りの強い細身の打刀。
やはり抜き打ちか、と由羅は思う。
里の剣の基本であり、凜が最も得意としていた。
抜き打ちだけは由羅も凜に及ばない。
と言うよりも、由羅は抜き打ちという技を理解できていなかった。
咄嗟の状況で抜き打つしかないなら分かるが、初めから抜いておけるならその方がいいではないか。
やはり抜き打たないか、と凜は思う。
由羅はあまり抜き打ちを使わない。
里の剣技が抜き打ちを主体にしているにも関わらず。
それを凜は、由羅が天才だからと深く考えずにいた。
しかし、旅の中で多くの剣客と仕合ううちに、理解できたことがある。
由羅は山祇の剣士とは、根本的に動きが異なるのだ。
山祇の剣術は、流派が異なっても本質的に同じ部分がある。
それは、体捌きの根幹が軸にあるということ。
歩くという行為は、後ろ足で地を蹴る行為ではない。体軸を前にずらせば、自然と体が前に出る。
剣は腕で振りかぶるものではない。体が前に出れば、自然に切先は天をつく。
人体を球とし、軸が動けばすべてが転ず。
作用と反作用の否定こそが、山祇の剣だ。
対して由羅の動きは反作用と遠心力を最大に生かしたものだった。
軸というものがなく、体の動きが全て連動したりはしない。
動きの速度は早く、鞭のようにしなる剣は脅威だが、分かっていれば動きの起こりが丸見えだった。
動きの起こり、即ち気を発することをいかに無くすかに腐心する山祇の剣とは、体を動かす原理が根本的に違うのだ。
抜き打ちとはその山祇の剣の真髄の一つの形であり、だからこそ由羅には理解し得ない。
しかし、その動きで由羅は極まっていた。
由羅の優れた目と瞬発力と柔軟性を最大に発揮する動き。その土俵で戦っても、凜が勝てるはずもない。
だが、しかし。
山祇の剣の極みとは、そうした身体能力の競い合いからの脱却にこそ、その真髄がある。
それは、理想でしかないかもしれないが、それを志向して練られた技であるのは間違いがない。
その理想は遠くとも、由羅と同じ土俵で戦わないことなら今の凜にも可能だった。
凜の間合に由羅が入る。
まだ、早い。
由羅の間合に凜が入る。
由羅が動く気を察した瞬間には、凜の刃は抜き打たれていた。
凜の抜き打ちは、一切の予備動作がない。
何千何万という修練によって染みついた、何の力みもないごく自然な動作だ。
その初発刀は明鏡止水と言ってもいい域に達していた。
由羅ですら、回避はできない。
しかし、来ると分かっている抜き打ちなど、合わせるのは容易だった。
受け、流し、切る。
由羅にとっては飽きるほど繰り返したことだった。
物打ちが相手を斬る瞬間に握り込むのは、剣速を最大まで高めるための基本中の基本。
逆にいえば握りが甘いということでもある。
ほんの少し力の方向を変えるだけで、簡単に反らせる。
常人に出来ることではないが、由羅の目と反射があれば可能だった。
正確に首を狙ってくる刃の間に、由羅は小太刀を担ぐように鎬を潜り込ませる。
潜り込ませることが出来た時点で、由羅は勝ちを確信した。
流せば体は崩れる。崩れればもう由羅が仕損じることはない。
それは油断とも言えない心の隙だった。
凜の剣を受けた瞬間、鎬にかかった重みは由羅の想定を超えていた。
凜の体はわずかに左に開いていた。
正中線が由羅と正対していない。
凜の抜き打ちは受け流しに剣を差し込む位置に放たれていた。当然の帰結として斬撃の衝撃がすべて由羅の小太刀に集約する。
由羅は剣を弾かれないように、咄嗟に柄を握りしめてしまった。
体重の乗った斬撃の重みが腕を痺れさせる。
それでも、凜が次の剣を振るっていれば、由羅は躱せていただろう。
凜は抜き打った動きのまま、低い姿勢で左肩から由羅に体当たりした。
体を落とし、重心を低く保つ凜の動きを由羅はどこかで馬鹿にしていた。
それでは、速度が出せないだろうと。
しかし、腰が高いということは、安定していないということでもある。
凜の体当たりを受けて、由羅はたたらを踏んだ。
剣の里の技において、組み打ち術はさほど重視されていない。
仮想敵が自分たちより体格のいい男なのだから当然のことだ。
しかし、里の剣士同士と見た時にどうだろうか。里でも上背のある凜にとって、大半は体格に劣る少女たちだった。
体格に勝る相手を打ち倒すために練られた里の技の根本にもとる考え。
生真面目な凜がそんなことをしてくる可能性を、由羅は無意識で排除していた。
吹き飛ばされるほどの体格差がなかったことが、更に由羅の判断を過たせる。
堪えずに、素直に転がってしまえばよかったのだ。
それを咄嗟に体を残してしまった。
由羅の体が居つく。
体重のかかった足を、凜は刈り取るように蹴る。
反射的に受け身を取った由羅の足を踏みつけ、凜はその喉元に切先を突きつけた。
張り詰めていながら、どこか余裕を感じさせる凜の顔を、由羅は呆然と見上げた。
「それまで」
華陽の静止の声を待つまでもなかった。
凜は静かに後退り、納刀する。
由羅は身動きひとつとることができなかった。
「勝者、凜。これを以って守り手は凜とする」
その華陽の言葉を喜ぶでもなく、凜は受け止める。
凜が守り手であることは、すでに陽鞠によって定められている。
凜はただその定めを実現させただけのことだ。
「待って…待ってください」
ようやく自失から目が覚めた由羅が立ち上がる。
「こんなのおかしい。わたしが負けるはずがない」
独り言のように言いながら彷徨った視線が、陽鞠を見て止まる。
「陽鞠様っ。お願いです。もう一度だけやらせてくださいっ。必ずわたしが勝ちます。こんなの偶然ですっ」
言い募る由羅の言葉に応じるように、ゆっくりと陽鞠は立ち上がる。
そのまま、内庭に降りて凜の方に歩み寄り、傍に立つ。
「由羅様。貴女の方がきっと腕は立つのでしょう」
「でしたら…」
「ですが、私は守り手に山祇一の剣士を求めているわけではありません」
静かな、しかし反駁することを許さない陽鞠の声が由羅を打つ。
「凜様が貴女に勝てるのは百に一なのかもしれません。それでも私の守り手を決める立ち合いで、その一を拾って下さった」
陽鞠の目が凜の方を向き、愛しげにその腕に触れた。
「私の求める守り手の強さとは、そういうものなのです」
唇を噛んで、由羅の視線が凜に流れる。
「だって、それじゃ凜が…」
引き攣った笑みを由羅が浮かべる。
「凜だってこんな勝ち方納得いかないでしょ。ね、ちゃんとやろうよ」
「由羅」
普段と何も変わらない穏やかな声で、凜が遮る。
「次があるとしたら、私はもう貴女と立ち合いません。夜討ち、朝駆け、射掛け、騙り、立ち合う前に殺します」
「凜はそんなことしないっ」
「貴女の知る私は、でしょう」
いっそ、凜は優しげですらあった。
「以前に言ったことを撤回します。守り手になっても、由羅は私と関係なくはありませんし、友人だと思っています」
「なんで、今そんなこと言うの」
「守り手の最優先は巫女です。巫女の安寧のためなら、友人だって斬れます。だから、友人がいてもいいと思いました」
「そういうことじゃ、ない」
由羅はその場に蹲ってうめき声を上げる。
それを見ても、凜の表情は漣ほども動かない。
「由羅。もうよかろう。里に戻りなさい」
うめき声を上げ続ける由羅に、哀れみも同情も厳しさもない、ただ穏やかな声をかける華陽の表情は凜とよく似ていた。
ゆっくりと体を起こした由羅は、凜に向かって何か言いかけ、口を閉ざす。
由羅の視線が、陽鞠に移る。
その目は憎悪に満ちていた。
陽鞠はそれを静かな目で受け止める。
そこには怯みも、同情もなく、ただなるべくしてなったことに対する覚悟だけがあった。
視線の交錯は一瞬のことで、視線を切った由羅が踵を返す。
去っていく由羅の背中は、漠然とした不吉な予感を陽鞠に残した。
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