その六
川沿いを下り、由羅が里に戻ったのは、昼餉の時間だった。
凛と出会ってから一度も戻っていなかったので、二か月ぶりのことであった。
まばらに広場にいる子供たちは、由羅の姿を見ると驚きの表情を浮かべ近くのものとひそひそと言葉を交わす。
由羅はそれを意に介さない。
異邦人の見た目で遠巻きにされることには慣れていた。
由羅は悠々と歩いて、十日間だけ過ごした長屋の戸を開ける。
長屋の中で思い思いに夕餉をとる少女たちの視線が一斉に由羅に集まった。
凜が戻るまで隅で待とうとした由羅の前に、蘭が立ち塞がる。
「あなた、戻ったのね」
険しい声と表情で言う蘭を、由羅はぼんやりと見た。
由羅はこの少女に何の関心も持てず、早くどいてくれないかと思う。
「好きにしろとは言ったけど、ここは剣の里よ。鍛錬をしないものを置いておくわけにはいかない」
「だから?」
「ここから出ていきなさい」
「そう」
由羅の目が長屋の中を見回す。
年齢が上のものほど蘭と同じ険しい目を向けてきていて、年齢が下がるほど怯えるように目を逸らしている。
剣の里の剣士などといっても、つまらない奴らばかりだと由羅は関心を失う。
踵を返して長屋の外に出る。
由羅には長屋に留まることに然程のこだわりがなかった。
外に出た由羅は長屋の横手に回り、物陰で壁に背をもたれさせ、膝を抱えて座り込む。
凜が戻るまでどれくらいかかるだろうかと考える。
生真面目な凜のことだから片付けにはそれなりの時間をかけるだろう。しかし、夜の森を歩く危険を凜が侵すとは思えない。
日が暮れる前には戻ってくるのではないだろうか。
由羅が見るとはなしに広場に目を向けていると、由羅に小太刀を貸した少女が、長屋からこっそりと出てきて、山の中に消えていくのが見えた。
それを見送ってから、由羅は膝に顔を埋めるように目を閉ざす。
そうしていると里に来る前の掏摸をしていた頃を由羅は思い出す。
住むところもなく、路地裏で過ごしていた由羅は、屋根のあるところで寝られることなどなかった。
見た目から目立つ由羅は、同じようなことを生業とする子供たちからも疎外されていた。
だからこの状況にも思うところはなかった。
それなのに、今こうして路地裏で蹲っていると、寂しさのようなものを由羅は感じていた。
たった二か月の凜との暮らしが、由羅に孤独というものを教えていた。
こんなことなら凜と一緒に片づけをしていた方がましだっただろうか。
そんなことを考えながら由羅はただ時間が過ぎるのを待った。
どれくらい経った頃だろうか。
閉ざした瞼の奥で目の前の影が濃くなったことに気が付いて、由羅は顔を上げた。
「こんな所でなにをしているんですか」
呆れた顔の凜が立っていた。
まだ夕暮れにはだいぶ早い時間だった。
「何もしてない」
「そうですか」
何でもないことのように、凜は自然と手を差し伸べてくる。
そこには哀れみも、同情も何もない。だから由羅もその手を躊躇いなく取ることができた。
「今日はもう疲れました。中に入って休みませんか」
由羅の手を引いて立たせながら、凜が言う。
「わたしは出て行けと言われた」
「ええ。話は加奈から聞きました」
加奈というのは、小屋を出て山に向かった子のことだろうかと、由羅は首を傾げる。
「それで?」
「それでって?」
「あなたが言うことを聞く必要がどこにあるのですか」
「知らない。逆らう理由がないだけ」
別に由羅は蘭の言葉に従ったわけではない。たんに逆らって得られるものが見出せなかっただけだ。
由羅にとっては外で寝起きするのが当たり前なのだから、屋根のある場所なんて入れなくて当然であった。
「わたしが困るのですが」
「なんで凜が困るの」
「友だちが外で寝起きしているのは気分がよくありません」
聞いたことのない言葉に由羅は戸惑った。
意味を知らないわけではないが、由羅の人生にその言葉が登場したのは初めてのことだった。
「友だち?」
「えっ、違うのですか」
心底、驚いた声を凜は上げる。
少し傷ついた表情を浮かべる凜に、由羅は何だか嬉しくなってしまう。
「ふーん。凜はわたしと友だちになりたいんだ」
「む。べつになりたいわけではありません。二人で二か月も一緒に暮らしたのですから、一般的に友だちと言えるのではないかということです」
気恥ずかしげに言いながら、凜は握ったままの由羅の手を引く。
由羅よりも少しだけ大きな手。掌に剣だこがあって女の子にしては硬くて力強い。こんなふうに人肌に触れたことは初めてで、その慣れない温かさに戸惑う。
その感触に由羅が気を取られている間に、凜は長屋に入っていた。
由羅の時とは違う視線の集まり方をする。
ざわめきがそこかしこで上がるが、由羅に向けるような負の感情で発せられるものではない。
むしろ憧憬を中心とした熱のこもった感情。由羅にはそれが不快なものとして感じられた。
「凜、戻ったのね」
由羅にとっては既視感をおぼえる言葉とともに蘭が凜の前に立つ。
凜と手をつないだ由羅を見て顔をしかめる。
「蘭さん。戻りました」
「ええ。修業はどうでしたか」
「有意義でした。たまには里を離れて自分を見つめ直すのもいいものですよ」
「あなたまだ八歳でしょう…」
凜の大人びた物言いに、呆れ気味に言ってから、蘭は咳ばらいをする。
それから表情を改めて、由羅に険しい目を向けた。
「凜。その子はここから出て行ってもらったの」
「そのことですが、誤解があるようなので」
「誤解とは」
「由羅はこの二か月、わたしと一緒にいました。けして逃げたわけでも、鍛錬をしていなかったわけでもありません」
「それなら、自分でそれを説明するべきでしょう」
凜の手の感触にずっと気を取られていた由羅は、ようやく二人の目が自分に向かっているのに気が付く。
「なに?」
由羅は蘭のことなど見もせずに、凜に聞く。
「なぜ蘭さんに説明しなかったのですか」
「意味ないから」
「それだけでは分かりません」
「はぁ。何を言っても誰もわたしの言葉を信じない」
凜は首を傾げて少し考えてから、納得したように頷いた。
それから蘭の方に向き直る。
「だそうです。納得できましたか」
「そもそも、わたしはその子が里にいること自体に反対なの」
「それは蘭さんの考えでしかありません」
「わたしは最年長で、稽古をまかされているのよ」
「わたしは蘭さんのことを剣士としても、先達としても尊敬しています。しかし、里の剣士に上下関係はありません。長以外に由羅をどうするか決めることはできません」
凜と蘭の目が正面からぶつかる。
他の子供たちなら怯む蘭の目にも、凜はまったく動じることはない。
「凜。あなたは特別な子よ」
「何の話ですか」
「わたしだけじゃない。みな、あなたこそが守り手になるべきだと思っている」
蘭の言葉は真摯で、凜を揶揄するような響きは欠片もなかった。だから、凜も口を挟むことができなかった。
「生まれた年の違いで守り手になれないことは悔しいけれど、あなたが守り手になるのなら仕方ないと思える。これはきっとわたしだけの考えじゃない」
「そう言ってもらえるのは嬉しいですが」
「だからこそ、あなたはその子を庇うべきではない」
話の繋がりが見出せずに、凜は眉間に皺を寄せる。
「その子はもしかすると最強の剣士になるのかもしれない。でも、その剣は誰にも継がせることができないものよ」
由羅の剣は天賦の才に依るものが大きい。誰かに教えることができるものではないし、技術として確立できるものでもない。
「それは、この里を終わらせてしまうかもしれないと分かっているの。あなたが次代に継ぐべきものを奪うかもしれない子なのよ」
「それは筋が違います。守り手を選ぶのは巫女様です。わたしたちが里の延命のために巫女様の選択肢を狭めることこそあってはならないことです」
凜の言うことは正論ではあるが、同時に純粋過ぎる言葉でもあった。
そもそも里の存在自体が、守り手の選択肢を限定させるための多分に政治的なものだ。
それを理解している蘭ではあったが、敢えて指摘はしなかった。そんな現実は長じれば嫌でも理解することであるし、それを言えてしまう凜だからこそ、守り手に相応しいという想いもある。
蘭はため息をついて、諍いを終わらせる合図のように苦笑いを浮かべた。
「分かった、あなたの好きになさい。ただしその子の面倒はあなたがみるのよ」
「ええ、もちろんです。聞き入れていだだきありがとうございます」
行儀よく頭を下げる凜の肩に、蘭の手が置かれる。
「凜、あなたはいい子よ。でも守り手になるなら、ただ真っ直ぐなだけでは駄目。鋭すぎる刃のようにいつか折れてしまう。口うるさいと思うかもしれないけど、覚えておいて」
「覚えておきます」
蘭の言葉が言い負けた意趣返しではないことは、見ている由羅にも分かった。
蘭にしても他の子どもたちにしても、凜に対しては好意的な意味で一目置いている。
それ自体は何も不思議なことではない。凜には人を惹きつけるものがあるのは由羅自身がよく分かっている。
しかし、凜から見た彼女たちはどうなのだろうか。
凜は二か月過ごした由羅のことを友だちと言った。それなら、何年も一生に過ごした彼女たちは当然のように友だちなのか。
自分が大勢のうちの一人でしかないかもしれないことに、由羅は言いようのない不安を感じていた。
凜にとっての特別な存在になるためには、どうすればいいのか。考えて由羅は一つの答えを出す。
凜よりも強ければいい。
守り手を目指す凜は、自分より強い剣士を意識しないわけにはいかないだろう。
「疲れましたね。休みましょうか」
由羅に向けられる凜の微笑み。
しかし、それは由羅だけのものではない。繋いだ手を離せば、きっと他の人に向けられてしまう。
凜に手を引かれながら、由羅は思う。
――守り手の座を奪ったら、永遠にこの人の記憶に残るのだろうか。
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